第1話:〈セーブ00〉「観測者が見ている」
世界は、死んだ。
正確には、私が死んだ。
喉笛を掻き切られ、血溜まりに沈んでいく視界の隅で、騎士様の青い瞳が絶望に揺れていた。
ああ、なんて美しい、絶望。まるで、精密に作られた人形のよう。
(……え? 人形?)
視界が、反転した。
唐突な浮遊感。身体は勝手に落下するのに、頭は重力から解き放たれていく。
目蓋を開くと、そこは自室の天蓋付きベッドの上だった。朝の陽光が、レースのカーテン越しに優しく差し込んでいる。
鳥のさえずり。窓の外には、見慣れた庭園。
寝台に腰掛ける私の掌には、血の一滴もついていない。
「お嬢様、朝でございます」
控えめなノックの後、侍女のミリアが扉を開けた。彼女の表情はいつものように朗らかで、昨晩、私が血塗れの死体となって転がっていた現実を知る由もない。
「……ミリア」
かすれた声で、彼女の名前を呼んだ。ミリアは小首を傾げる。
「はい、お嬢様? どうかなさいましたか?」
「いや……何でもないわ。ただ、夢でも見ていたようね」
夢? そう、夢だ。きっと悪夢だ。
喉元の熱い感触も、血の匂いも、騎士様の絶望の顔も、すべてが鮮明すぎたけれど、所詮は夢。
私はエルレイン・ド・ヴァレンシュタイン侯爵令嬢。十七歳。この国の社交界では「氷の薔薇」と揶揄される、完璧な淑女を目指す身。そんな私が、血塗れの死体など。
しかし、既視感があった。
この光景。この朝。このミリアの笑顔。
そして、喉の奥にへばりつく、言いようのない不快感。
まるで、何度も繰り返してきたかのような……。
「お嬢様、本日は学園の始業式でございます。王太子殿下もいらっしゃるかと」
ミリアの声が、私の思考を途切れさせた。
王太子殿下。婚約者。そして、乙女ゲームの“攻略対象”の一人。
その言葉が、私の頭の中で、凍てついたピースのようにカチリと嵌まった。
私は、この世界の住人じゃない。
いや、違う。この世界の住人ではある。けれど、同時に……私はゲームの登場人物だ。
この世界は、私が過去にプレイした乙女ゲーム『花咲く乙女の恋物語』。
私は、その主人公、エルレイン・ド・ヴァレンシュタイン。
そして、今朝、私が目覚めたこの瞬間は、ゲームのプロローグ。
「おかしいわ……」
私は呟いた。ミリアが心配そうに覗き込む。
「何かございましたか、お嬢様?」
「いいえ……。ただ、少し、目眩がしただけよ」
私は平静を装い、ベッドから降りた。床に触れた足裏の感触が、あまりにも現実で、かえって非現実的に思えた。
だって、私が死んだのは、このゲームの「バッドエンドルート」だったはずなのだ。
騎士様、そう、第二攻略対象である騎士団長ユリウス様との個別ルートで、私が間違った選択肢を選んだ結果の、惨たらしい結末。
なぜ、そのバッドエンドの記憶が、プロローグの私に残っている?
ゲームの「死に戻り」機能は、主人公に許された特権だ。
だが、それはセーブポイントからやり直すことで、バッドエンド後の記憶が持ち越されるなんて仕様は、聞いたことがない。
まさか、これは、デバッグ中のバグ?
いや、私がゲームをプレイしていたのは、もう何年も前のことだ。
そのゲームの世界に、なぜ私が、今、ヒロインとして存在している?
顔を洗い、身支度を整える。鏡に映る自分は、確かにエルレインだ。白銀の髪に、水色の瞳。まるで、一枚絵から飛び出してきたかのような、完璧な造形。
完璧すぎて、逆に不気味だ。
私の記憶は、この完璧なエルレインの身体に、無理やり押し込められた別物のように感じられた。
「お嬢様、朝食のご用意ができております」
ミリアの声が響く。まるで、ゲームのイベント進行を促すシステムボイスのようだ。
テーブルには、焼き立てのパンと、新鮮な野菜のサラダ、そして温かいスープが並んでいる。
フォークを手に取った瞬間、唐突に脳裏を過った。
(……このパンには、毒が盛られているかもしれない)
過去の、別のバッドエンドルートの記憶だ。使用人の不満が爆発し、主人公が毒殺されるルート。
もちろん、ゲームのプロローグでは、そんなことは起こらない。
だが、その記憶は、あまりにも鮮明で、食欲が失せた。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
心配そうなミリア。
「いいえ、少し考え事を。……私、パンは苦手なのだったわ。今日はスープとサラダだけで」
自然と口から出た言葉に、ミリアは少し驚いた顔をした。エルレインはパン好きだったはずだ。
だが、すぐに笑顔に戻る。
「かしこまりました。パンは下げさせますね」
彼女は、私が紡いだ「変更」を、何の疑問もなく受け入れた。
まるで、私の言葉が、この世界の「設定」を書き換えるかのように。
朝食を済ませ、学園へ向かう馬車に乗り込んだ。
窓の外を流れる景色も、全てが“絵”のように完璧だ。
完璧すぎて、まるで大きな舞台装置の中にいるような錯覚を覚える。
(観測者……)
ふと、頭に浮かんだ言葉。
ゲームの世界。主人公。ループ。
私が体験したこの奇妙な「死に戻り」は、誰かの観測によって引き起こされているのではないか。
まるで、誰かが私の人生を、ゲームを「プレイ」しているかのように。
私が選択を間違えると、ロードされ、また最初からやり直させられる。
その度に、私は死の記憶を継承する。
まるで、**「選ばれなかった選択肢たちの怨念」**を背負うかのように。
「くっ……」
胸の奥から込み上げる吐き気に、私は口元を覆った。
私を死なせた、あの血腥い記憶。
騎士ユリウスの、絶望に歪んだ顔。
あれは本当に「バッドエンド」だったのか?
それとも、この「観測者」が望んだ、特定のルートへの誘導だったのか?
馬車が、学園の門を潜る。
目の前に広がるのは、まさにゲームのオープニングそのものだ。
色とりどりの制服を着た生徒たちが、談笑しながら校舎へ向かう。
そして、その中央に、ひときわ目を引く人物が立っていた。
金色の髪に、エメラルドの瞳。完璧な立ち姿。
このゲームの、メイン攻略対象。私の婚約者。
王太子セシル・エドワード・フォン・ハインリヒ。
彼が、私に気づいて微笑んだ。
その笑顔は、ゲームのキャラクターイラストと寸分違わぬ、完璧な「笑顔」。
(……セーブポイントだ)
私は直感した。この「プロローグ」は、セシルと出会うこの瞬間までが、一つのセーブポイントなのだ。
そして、この先の私の選択が、次の展開を決定する。
「エルレイン」
セシルが、私に優雅な一礼を捧げた。
「おはよう。君に会えて、今日の学園生活がより一層、輝かしいものになったよ」
決まり文句。ゲームのセリフそのもの。
吐き気がした。
私は、この完璧な舞台の上で、完璧なセリフを喋らされる人形なのか?
誰かの“理想”のヒロインを演じ続け、選択を誤れば死を迎え、またやり直させられる。
(私は、誰の選択肢でもない)
心の中で、強く反駁した。
(私のルートは、私が選ぶ)
「セシル殿下」
私は、笑った。
鏡で見た時と同じ、完璧なエルレインの笑み。
だが、その笑みの裏で、私の心は凍てついていた。
「貴方様にお目にかかれて、光栄に存じますわ」
私の口から紡がれた言葉は、台本通り。
だが、私の瞳は、この世界を「観測」している、見えない誰かを見据えていた。
この人生に、ログアウトなんて存在しない。
なら、私はこのゲームを、攻略対象ではない誰かのために、バッドエンドではない何かのために、自分だけのルートで、クリアしてみせる。
──ゲームは、ここからが本番だ。