1 災禍
広大な草原を、一台の馬車がのんびりと進んでいた。
荷台に揺られているのは、冒険を生業とする四人組。
どこにでもいるような、けれどどこか頼りない印象の青年ユウキ。
その向かいに座るのは、鍛え上げられた肉体を持つ前衛職のジン。
無骨な顔つきに、硬派な性格が滲み出ている。
ジンの隣には、黒髪が風に揺れる清楚な女性ナユキ。
主に回復役を担っている。彼女は穏やかな笑みを浮かべる。
そして、ユウキの膝の上には、黒髪のショートボブが可愛らしい幼い少女ルーシィ。
大きな黒い瞳が、星のようにキラキラと輝いている。
冒険の道中だというのに、ルーシィは完全にリラックスモードだ。
小さな指をまるで指揮者のように楽しげに振りながら、「ふふんふふーん」と鼻歌を歌っている。その愛らしい姿に、ユウキは思わず頬を緩ませた。
「平和だなぁ」
対面に座るジンが、苦笑交じりに呟いた。
ユウキも、ジンの隣に座るナユキも、同じように苦笑いを浮かべる。
何事も無ければ楽ではあるが、雇い主には申し訳がなかった。
「本当に平和だね」
そう言って、ユウキはルーシィの柔らかな髪を優しく撫でた。
彼らは冒険者組合から、商人の護衛という依頼を受けていた。目的地までは一週間。報酬も悪くない。
ユウキたちは、この穏やかな時間が、いつまでも続くものだと信じていた。
●
「そろそろ休憩にしましょう」
移動を開始してから四時間ほど経っただろうか。御者がそう告げた。
少し早い気もしたが、特に異論もないので依頼人の言葉に従うことにした。ユウキはルーシィを連れて近くの森へと向かった。
水を確保するために水場を探すためだ。
「ふふんふふーん」
ルーシィは、また楽しげに鼻歌を歌っている。ユウキは、そんな小さな彼女を微笑ましく見る。
ルーシィと出会ったのは、ジンたちとの旅の途中だった。
活気のない町の寂れた一角で、一人所在なさげに座っていた彼女に「ひとりなの?」と声をかけると、ルーシィは小さく頷いた。
そんな彼女に、ユウキは手を差し伸べた。
それ以来、ルーシィはユウキにすっかり懐いている。
「大したこともしてないのに、好かれているなぁ」
ユウキはそう思いながらも、満更ではなかった。
幼いながらも整った顔立ち。
大人になったら、きっと誰もが振り返るほどの美しい女性になるだろう。
そんな彼女に好かれているのだ。悪い気がするはずもなかった。
小川を見つけると、ルーシィは待ちきれないように靴を脱ぎ、笑いながら水辺に小さな足をつける。
水遊びに夢中な彼女を横目に、ユウキは持ってきた水筒や容器に冷たい水を汲んだ。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
水をある程度、汲み終えたユウキがそう言うと、ルーシィは満面の笑顔で頷いた。
その瞬間。鋭い悲鳴が耳をつんざいた。馬車が停まっている場所からだ。
ユウキとルーシィは、顔から笑顔を消し、汲んだばかりの水を地面に放り投げ、一目散に駆け出した。
「──ユウくん!あれ!」
「──危険信号だ!」
木々の間から、嫌な予感が走る。上空に立ち昇る禍々しい赤い煙を見て、二人は声を上げた。
●
「ジン!ナユキ!」
ユウキは、二人の名を叫びながら駆けつけた。
「何があったんだ!」
ユウキの問いに、ジンは言葉ではなく、険しい視線で答えた。
その視線の先には。
「⋯⋯黒い雲?」
距離は少しあるものの、異様なほどに目立つ。先ほどまで広がっていた青空はどこへやら、黒い雲が不気味な塊となって広がっていた。
そして、その雲が徐々に、いや、異常な速度で広がっていくのがわかる。
「まさか⋯」
ユウキは、乾いた喉で呟いた。
ルーシィの小さな手が、不安げにユウキの手を強く握りしめた。ジンとナユキの表情も、険しさを増している。
「皆さん!何を呆けているんですか!?早くここから離れましょう!」
御者の焦った叫びに、ユウキたちはようやく我に返り、慌てて荷台へと駆け上がった。
御者は鞭を振るい、馬を必死に走らせた。
その直後、黒い雲が大きく渦を巻き始めた。そして、渦の中心から、おぞましい巨大な影が、ゆっくりと姿を現した。
「ヒッ」
ナユキが、恐怖に喉を鳴らした。
それは、耳障りな奇声を上げ、奇妙な動きをする、邪悪な化身だった。
怪物は黒い雲の渦から飛び出すと、凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。衝撃で大地が砕け、馬車も大きく揺れた。
「走れ!走れ!走れ!」
御者が、荒々しく馬を叩きながら叫ぶ。
「いやぁ!」
ルーシィの悲鳴に続き、ジンが怒号を飛ばした。
「クソ!来るぞ!」
怪物は、獲物を見つけたと言わんばかりに、こちらへ向かってきた。
長い手足、四足歩行。尋常ではない速度だ。追いつかれる。ユウキは、苦痛に顔を歪めた。
「皆さん⋯。─すみません」
御者が、まるで諦めたようにそう呟いた瞬間。ガシャリ、と何かが外れる、耳障りな音が響いた。
「──嘘だろ!?テメェ!」
「─まじか!」
ジンが怒鳴り、ユウキも信じられない光景に目を剥いた。
御者が、自分たちの乗る荷台と馬車本体の連結を、躊躇いもなく解いたのだ。
「きゃあ!」「いやぁあ!」「ッ!クソが!」
バランスを失った荷台は、容赦なく地面に叩きつけられた。
ユウキは咄嗟にルーシィを、ジンはナユキを抱きかかえた。
「う、ぐぅう⋯⋯」
激しい痛みに呻くユウキに、ルーシィが不安げな表情を向けた。
目の前には、同じように地面に叩きつけられ、辛うじて体勢を保っているジンとナユキの姿があった。
「あの野郎⋯⋯ふざけんなよ!」
ジンが、遠ざかる御者の背中に向かって怒りの咆哮を上げた。
この状況で、自分の命を優先するのは理解できなくもない。
けれど、仲間を見捨てるこの仕打ちは、到底許容できるものではなかった。
ユウキも、奥歯を噛み締めた。
「ユウくん!」「ジン!」
ルーシィとナユキが、心配そうな声を上げる。
ユウキは、湧き上がる裏切りの怒りを押し殺し、立ち上がった。
そして、生き残るために、一歩踏み出した。
本当に速い。怪物との距離が、容赦なく迫ってくる。このままでは、全員が奴の餌食だ。
「散開!」
ユウキは、絞り出すような声で叫んだ。少しでも、誰かが生き残るために。
走る、走る、ひたすら走る。肺が焼け付くように痛んだ。
─皆、うまく逃げられただろうか。
振り返ってはいけない気がしたが、ユウキは堪えきれず後ろを振り返った。
そして、信じられない光景に、目を大きく見開いた。
「なんでついてくるんだよ!」
思わず、怒鳴ってしまった。
ルーシィが、小さな体を必死に動かし、ユウキの後を追ってきていたのだ。
ユウキの怒号に、ルーシィは今にも泣き出しそうな、痛いような表情をするだけ。
幼気な表情を見せたかと思えば、こんな極限の状況なのに、時折、不安げに頬をほんの少しだけ緩ませる。
ユウキはそれを見て、どうしようもない渋い顔をする。そして、胸の奥が締め付けられるように、泣きそうにもなる。
「最悪だ⋯⋯」
小さく呟いた。
怪物が執拗に標的にしたのは、ユウキたちだった。
怪物との距離が、もうすぐそこまで迫っている。
─もう、僕はここで終わる。
そう、ルーシィも。
せめて、ルーシィに──
走りながら言うのも可笑しいだろうけど。
「ルーシィ─」
「いっ──」
名前を呼ぶのが、精一杯だった。
彼女には、悲鳴を上げる時間さえ、与えられなかった。
●
いつもは私たちを見守ってくれるかのような、煌びやかで美しい夜空。
けれど、この日に限ってはそんな夜空を見上げる余裕なんて、どこにもなかった。
「ああああ!」「いやぁ!」「うぁああん!」
「このぉ野郎!」「死にたくない!」「逃げろぉおお!」「お母さぁん!お父さぁん!」
「誰かぁ!助けて!」
悲鳴、慟哭、怒号。
耳を塞ぎたくなるような、おぞましい音の洪水が、小さな里を飲み込んでいた。
次々と壊されていく、慣れ親しんだ家々。
里の象徴だった、天を衝く巨大な樹も、今は無残な姿を晒している。
足元には、温かい血が、赤黒く人々を塗りたくっていた。
少女の可憐な顔は、とめどない涙と鼻水、そして容赦ない土汚れで、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「痛いよぉ、お母さぁん」
少女の言葉に、母親はただ、辛そうに顔を歪めるだけだった。
少女は、もう限界だった。
生まれた時からずっと過ごしてきた、何よりも愛しいこの場所が、見る影もなくめちゃくちゃにされていく。
それに、もう、たくさん走って、疲れ果ててしまった。
今はただ、母親に腕を強く引っ張られ、無理やり動かされているだけの、抜け殻だった。
激しい衝撃音と、大地を揺るがす振動。
鼓膜を破るような、おぞましい雄叫び。
それが、すぐそこまで、すぐそこまで迫ってきている。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには、悪夢から飛び出したような、邪悪な姿があった。
悪魔のような、ではない。
あれは、紛れもなく悪魔そのもの。
この世の理から外れた、忌むべき存在。
それが、ゆっくりと、しかし確実に、こちらに迫ってくる。
もう、追いつかれてしまう。
そう思った、その時。
少女を必死に引っ張っていた母親の動きが、唐突に止まった。
母親は、少女を振り返り、その小さな体と向き合う。
そして、少女を抱き寄せ、震える頭を優しく撫で、白い髪をそっと退け、露わになった小さな額に、温かい唇を当てた。
「生きなさい」
切なげで、慈愛に満ちた、優しい顔だった。
その言葉だけで、聡明な少女は、全てを悟る。
この後、何が起きるのかを。
「い、いやだ、いやだよ!お母さ──」
突然、目に見えない強大な力で、少女の小さな身体が突き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、何度も、何度も、容赦なく打ち付けられる。
その衝撃の度に、少女の小さな口から、苦悶の呻きが漏れた。
「うっ⋯ぅ」
痛みを堪え、やっとの思いで泥だらけの顔を上げた。
そして、見た。
悪魔が、愛する母親を、巨大な、おぞましい手で、まるで虫けらのように、無慈悲に叩き潰した、その瞬間を。
「いやぁあああ!」
少女は、血反吐を吐く叫び声を上げる。
「嫌だっ!嫌だっ!嫌だぁああああ!」
「ふ、ざけるな!ふざけるな!ふざけるな!ああああ!この、この!悪魔があああ!」
そして、幼い心に、決して消えることのない、誓いを刻んだ。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。
「絶対に、殺してやる!」
─あの悪魔を絶対に殺す。
復讐の誓いを。