赤根梨加 8
「普段泣けないんでしょう。ここで沢山涙を流してくださいね」
いろはの言葉はいたわりがこもっているように思えた。梨加が鈴の音のような彼女の声を聞きながら膝元を見つめていると、膝掛けの上に涙がポタポタと落ちていく。
いろはとの間に流れる時間はとても心地よかった。涙が出るたびに肩や頭や胸の底にたまっていた何かも少しずつ流れて軽くなるような不思議な感覚だった。あくびが止まらなくなった時、廊下の板を踏みしめる音が聞こえた。
店にたどり着く前に、惹かれた甘い香りがどんどん近づいてくる。極上のバターを使った焼き菓子のような香ばしい香りに思わず鼻が鳴ってしまう。
「まあ、残念ながら、食べるものではないんですよ」
いろはがクスクスと笑ったのにつられて、梨加も目の縁を拭き、照れくさそうに笑った。
「もう、知ってます。これが、ネイルの匂いなのね」
「そうでございます。さて、お客様、ネイルの準備整いました。あなた様の願いはなんですか?」
「幸せになりたい。……こんな漠然とした願いじゃダメ?」
いろはが少し天井を見てから、視線を戻したとき、サイが障子戸を開けた。彼は湯呑みのような形に急須の取っ手がついた黒い陶器を持っていた。
「幸せという願いは人それぞれ基準が違いまして。同じ状況になったとしても、人によって幸せだと思うかどうかがわかりません」
「どんなに悲惨な状況でも幸せと思える人もいれば、逆もそう。目の前に100億積まれても不幸せな奴は不幸せだ」
「へえ、100億積まれたらさすがに幸せ感じる気がするけどなあ……」
「じゃあ、そうやって願ったらいい。100億もらってみるか?」
梨加はにわかにドキドキした。100億願えばもらえるってこと?
いろはとサイを交互に見る。いろはは相変わらず口元をほんの少しあげて微笑んでいるだけだし、サイは意地悪そうな目でニヤニヤ笑っていた。
「あ、でも、宝くじで高額当たると親戚がいきなり増えるって言うし、やめておこうかな」
慌てる梨加をチラッと見た後、サイはコースターのような大きさの草で編まれた鍋敷きを置き、その上に黒い陶器を置いた。梨加の目の前まで黙って差し出すと、中からくつくつという煮詰まる音がし、お菓子のような甘い香りが蒸気とともに上がってくる。
梨加は先ほどの真紅というよりも血を煮詰めたような濃い色を想像しながらのぞき込んで驚いた。
「うわあ、かわいい……」
蒸気が直接顔にかかって熱いのも気にならないくらいのつややかで甘いピンクの色合い。のぞき込んだおでこが火照る。
「こちらは、鴇色でございます」
「とき……いろ?」
「はい、鴇というのは、鳥の名前で、羽がこのような色をしているそうです」