赤根梨加 7
控えめに言ってもいろはに手を触られた心地は最高だった。
独身時代はネイルサロンに行っていたこともある。特にデートの前は少しでもかわいい自分になりたくて、ネイルに服装にずいぶんとお金をかけていた。
でも、そのとき手を触ってもらったのとは段違い。いろはの手が通ったところはシルクでなでられたようななめらかさで、自分は手にこんなに力が入っていたのかと驚く。力が抜けるにつれ肩のこわばりもほどけ、先ほどの首の痛みも薄らいでいった。
結婚して子どもが生まれてからはそんな余裕なかったし、どうしても口に入れたらというのが気になって爪は体のただの一パーツになっていた。
付き合っていた頃の夫が、優しく手を取って『かわいいネイルだね』と言ってくれて嬉しかったのを思い出してしまい、じわりと涙が浮かぶ。
あの頃に戻れたらいいのに。時間を巻き戻してやり直したい。そうしたら、離婚しようなんて絶対に言わないのに。
「そうだ、例えば、時間を巻き戻すこととかできるの? この時点からやり直したい……みたいな」
いろははにっこりと微笑んだ。
「できますよ、ただ……」
梨加の手をオイルつけてマッサージしながら、いろははこともなげに言った。
「ただ?」
「巻き戻るだけ、という人が多いですねえ。過去に戻る人はどうにも、自分が過ごしてきた今までの軌跡を覚えているからでしょうか、変えよう変えようとしても、結局、大して変わらないのです」
それが、結構な苦情のモトになるのでこちらとしても困っているんです、ご自身の問題なんですが。いろははため息をつく。
「こんなハズじゃないって何度も何度も同じことを願いにくるので、もう何度も同じ場面を繰り返している方もいらっしゃるのです」
いろはになでられた手は磨かれた宝石のように光っていく。それはうっとりとする光景ではあるけれど、どんな願いを言えばいいのか迷う梨加は、いろはの爪で咲き誇る薔薇をじっと見つめ続けた。
「そういえば、さっきの私の欲って、どんな欲だかってわかるの?」
「それもよくお客様から聞かれるのです。もちろんお答えすることはできますよ。ただ……お客様によっては、ひどく嫌な気持ちになる方もいらっしゃる。唐突に怒られたりすることもありますので、感情を乱さない、というのをお約束いただけるのならば」
「聞いたところでどうせ、ろくな欲じゃないわね。怒る人がいるっていうのもわかる気がする。だって、認められなくて惨めな気持ちになりそうだもの」
手のマッサージの後は、爪の甘皮の処理。ささくれて荒れている爪周りを見ながらつぶやいた。
「あなた様勘違いなさっているかもしれませんが、手が荒れるのも、欲があるのも悪いことではありません。私は、いろんな方を見ておりますが、多くの方が真面目に生きる者の手であり、真面目に生きている人だからこそ、生まれ溜まってしまう欲でございます」
いろはの声は耳からゆっくりと全身に広がっていく。扉の向こうからはとても甘い香りが漂ってくる。
「日々の生活を一生懸命営んでいることは素晴らしきこと。それを誇りに思って、ひとつ願いをお考えくださいまし」
ひどく優しいいろはの声は自分の体の細胞の隅々までなでられているよう。
自分のこと、誇りに思えたことなんてあったっけ。そう思い当たると、ふたたび涙が出てきていよいよ止まらなくなった。