エレノアと「蒼き夕空」
その後、エレノアの「蒼き夕空」との接触回数は増えていった。その都度、二人は火星のあるべき姿について議論を重ねた。
「――同意いたしますわ。わたくしも、この星の行く末を考えると、格差是正は必ず実現しなければならないと考えてますの」
「やはりキミは見込んだとおりだ――」
その人物は目を細める。
「我々のことを少し話そう。実は我々は格差の撤廃を訴えている、いわば地下活動組織なんだ。身分を越えて、キミには我々に協力して欲しい」
「やはり、そうでしたの。もちろん、協力はやぶさかではございませんわ。ただし、格差是正は平和裏に実現しなければなりませんわ」
「うん、そう思うのは当然だね。そこで一つ頼みたいことがある。アストロ・レールウェイは新しい組織だ。制服はこれから決めるはずだ」
「ええ、恐らくそうなりますわね」
「アストロ・レールウェイの制服では、襟の紋章を付けないっていうのはどうかな?」
「まあ! 素晴らしい案ですわ! 専門市民と一般市民の区別を一つ減らすことができますわね。もちろん形に過ぎませんが、封建制を懸念する地球側に、先進的なイメージを持っていただけるかもしれませんわ」
そうやって、蒼き夕空は、エレノアに対して小さな要求を呑ませていった。聞く限りエレノアは機密に触れるような要求は聞き入れなかったようだが、客観的にはかなり危うい線に達していた。近い将来、その時が来たとき、国王陛下に「蒼き夕空」からの伝言を伝えるのは、エレノアの役割だったのだ。それは明らかに公私混同の職務規程違反行為であったからだ。
しかし彼らの思惑に反して、エレノアの熱意は本物だった。彼女はいくら後ろ指を指されようと食堂で食事を取り、一般市民に混じって大浴場を使い、そして、宇宙駅弁アストロ・ベントーの実現のため、私やルナの知らないところで地を這うような根回しを行った。長期間に渡る食堂車の占用が実現できたのも彼女のおかげであったのだ。そして、その努力は、意外にミーハーな国王陛下の乗車という形で結実したのである。
「なるほどね、『蒼き夕空』がエレノアを切った理由が分かったよ」
私はエレノアのカップに紅茶を注ぎながらそう言った。
「えっ、どうしてですの」
「エレノアが本物だからだよ」
「それは同感ですね」
と、ルナも同意した。
「きっと、エレノアの平和的解決への熱意は本物だから、蒼き夕空にエレノアはコントロールできない、むしろ既に方向性を違えたと判断されたんだろうね」
私の指摘に、エレノアは項垂れる。
「それは……寂しいものですわね」
その一方で、ルナの表情が険しくなる。
「エレノア様、もしエレノア様の平和路線が『蒼き夕空』と方向性を違えるのだとすれば、事態は深刻です。彼らは、実際には暴力的な解決法を志向しているのかもしれません」
「そんなはずは! ……いえ、思い返せば、彼らはわたくしの平和的解決案にあまり興味を示さなかったように思いますわね」
ルナがずいと身を乗り出す。
「エレノア様。私が気になるのは、火星アストロ・レールウェイ公団の制服で襟の紋章を廃止させたことです。その意図として思い当たることはありませんか?」
エレノアはティーカップに手を伸ばす。
「……襟に付ける家の紋章は、身分を示すものですわ。そして、専門市民にとっては誇りの証。説得に随分苦労しましたのよ。外すことにメリットなど――」
そこまで言って、エレノアは動きを止めた。ハッとした表情を浮かべ、顔からみるみるうちに血の気が引いていく。ティーカップは震える手でカタカタと鳴っていた。
「――ひとつだけありますわ。身分を隠すというメリットが」
「身分を隠す?」
「ええ。もし紋章を偽造したり、他の家の紋章を付けたりすれば、無期懲役の重罪に問われますわ。でも、紋章のない制服なら、身分を隠して侵入しやすくなりますわね」
「でも外すほうなら、何も問題ないと思うんだけど」
実際、身分が上がる方向ならともかく、下がる方向になりすましても意味がないのではないだろうか。
「私もそう考えておりましたわ。けれど、佐官以上は事実上ブライトン公爵家の紋章を付ける資格を持つ身分に限られますのよ」
ルナが頷く。
「それは火星アストロ・レールウェイ公団が研究開発卿の職掌だからですね」
「ええ。けれども、紋章を付けなくてよいとなれば、他の家の者や一般市民が、佐官の階級章を付けた制服で歩き回れますわ。しかも、公団の制服を着用したとしても、大きな罪には問われません。せいぜい軽犯罪法違反ですわね」
なるほど、形的には平等であっても、昇進は平等ではない。だからこそ、佐官になりすましやすくなるというメリットがあるのか。
「でも、佐官のコスプレをしたとしても、すぐバレるのでは。知らない人なら気づくと思うんだけど」
「コスプレってあなた……。ヒカリは、『蒼き夕空』のあの人物が本物の職員かどうか見分けられまして?」
「あ、そうだった」
新人類だからといって、興味のない相手のためにリソースは割かないのである。
「ましてや、一般市民の職員は職掌が狭く、アクセス権限も限られており、佐官全員の顔は知りませんのよ。目の前の佐官が本当にブライトン公爵家の者かどうかなんて知らなくて当然ですわ。それに、正直なところ、本家の者も分家や親戚には疎いところがございますわね。人の関心なんて、そんなものですわ」
「……なるほど」
「そうなると、少なくとも、佐官になりすました人物が、一般市民の職員に命令して指揮系統を混乱させることは考えられますね。偽乗務員の件もそれで説明が付きます」
ルナの言うとおり、国王来臨の混乱に乗じて、蒼き夕空のメンバーを乗務員として潜り込ませる。佐官のコスプレをしていれば、わけもないだろう。
「エレノア様、至急、総裁に連絡を取って、秘密裏に通達を出すよう手配してください。専門市民の職員に対し、明日の朝から紋章を付けるように、と。原始的な方法ですが、もし日常的に侵入している者がいれば炙り出せるかもしれません」
だが、エレノアは力なく返事するだけだった。
「……そうですわね。皮肉なものですわ」
確かに、こんなに皮肉なことはない。もし、佐官以上の職員がブライトン公爵家の血筋で独占されていなければ、佐官には佐官以上の意味がなかったはずなのだ。ところが、昇進の不平等が、事実上、佐官という立場に公爵家一族と同じ意味を持たせてしまった。そして、紋章のピンバッジの着用禁止が、それを補強してしまった。
ふとエレノアの顔を見ると、彼女は悔しそうに下唇を噛み、目に涙を浮かべていた。私は思わずエレノアの隣に座り直し、肩を支えた。
「……大丈夫?」
「……仕方ないとはいえ、わたくしの理想からまた一歩遠ざかってしまいましたわね」
「エレノア。これは前進だよ。紋章を《《外させる》》という方法は上手くいかないってことが分かった。ただそれだけ。研究開発の世界では『できないことが分かる』のも成果の一つなんだから」
すると、エレノアの目に輝きが戻ってきた。
「そうですわね。ありがとう、ヒカリ。善は急ぎますわよ」




