6月18日(心の居場所)
なんだかんだで意外と読んでくれている人がいることに驚いている。私の承認欲求が多少ながら満たされるのを感じる。突然だが今日から日付けにサブタイトルを付けることにした今日はとりあえず「心の居場所」なんて書いてみたけど自分で自由に書くのが目的だからそれに触れずに終わってるかも、いや書き終わってから変えるのがいいか。
それで、なんでこんなサブタイトルにしたかというと自殺ニュースを思い出した、というか知ったからだ。一人暮らしの僕の家にはテレビがなくて、ネットニュースも読まないから今更そのニュースを知った。とある記事によるとこの手の自殺は今までもあったらしい。僕はすべての事件において詳細に知らないし彼ら、彼女たちが何を考えていたなんかなんて分からない。でも事の本質は心の居場所になるんだと思う。生きていて窮屈に、いや不自由に?感じたり、、、多分愛の不足なんじゃないかと感じる。僕は恵まれている方だしどうやっても彼ら、彼女らの気持ちを理解することはできない。でもここ最近ネガティブな僕だったからほんの少し共感してしまう部分もあったのかもしれない。だから今書いているんだろうね。
愛の不足なんて言ってもね。量だけの問題じゃない。受け取り方や、どれくらいの量で満足するか、その時、その状況、その人によって異なる。だから誰でも愛の不足にはなる。そしてそれがその時、その状況、その人の心の一線を越えるほどになってしまうと、、、
こんな事を書きながら「これは本質ではない」なんて思うな。だってそうだ人生辞めようと思ってからの準備で気持ちも変わるだろうし、決めたから走り抜けるしかないところにいってしまっっているだけかもしれない。ほんとはもっと複雑で言い表せないものでできているのだろう。今の僕にはうまく表現できないと感じる。
そういえば今回の件を知ったのはYoutubeなんだけど、その投稿?にはかなりの「いいね」がついてた。今回のこともそうだったんだけど、何より、この「いいね」の数が心の居場所がない人達の多さを語っているのではないかと思う。なぜか、ものすごく不気味に感じてしまった。失礼な話だ、だって何となくいいねする人もいれば、悲しみがゆえにいいねする人もいるだろう、面白半分の人もいれば、まじめに問題意識をもって拡散目的でする人もいるんじゃないか。どういってもこれがいい事か、悪い事かさえ僕には分からないけどみんな、特に何かしらの意識をもってこれを見た人たちの中に、どこかしら共感してしまう人が少なくないのではないかと思う。そしてその人たちは(僕も含め、か)どこか窮屈さを感じている、心に蓋をされているような。やはり、僕はどこか悲しいのかもしれない。
と書いてきて、この世の中どこか心の居場所をなくしている人々がほとんどなのではないかと思う。というか居場所は変わるし必要な大きさも変容する。だから、やはり周りの人を支えられるときには支えてあげたいと思う。もしかすると僕の小学校からの友人はどこか息詰まりを感じて、半年後にはこの世にいないのかもしれないし、大学で会う友達は明日には居ないかもしれない。僕だってそうかも(自殺なんて痛そうだからできないだろうけど)。
だから、、もし頼られた時は死ぬほど全力で(元来適当な人間だからあんま大したことないかもしれないけど)話を聞いてそばにいてあげたいと思う。少なくともに僕は今周りの友人に助けられている。その恩返しを少なくとも僕の手の届く範囲では、いやできる範囲では力になれればいいなと思う。
人間みんな鬱なのかもね。たまに人生はまるで綱渡りのように感じる時があるよ。(笑)