6月16日
日も傾いてそろそろ今日も終わりを迎えるのか、、、
なんて感傷にほんのちょっぴり浸りたくなる、いや浸っている17時。
今日は友達2人に助けてもらった。片方は男性のかなり仲いい部類であろう友達、もう1人は女性の普通に仲いいくらいの友達。私の爆発してしまう承認欲求を満たすために、それぞれ30分~1時間くらい犠牲になってもらった。本当にありがたいお話さ。
そう。今私は承認欲求が馬鹿並みに高いのだ。これは自己否定いうなれば自己肯定感、ひいては自己受容が低いからなんだろう。そのため、群れの中で「私は立てている」という感覚がないとダメなんです。
男の子の方は僕が当初あった時とは立場が逆転していた。前は僕が「気にしすぎだよー」なんて言っていたのに今は支えられている。競争ではないが彼が大人になっていると感じて、自分の情けなさにほろりと涙がこぼれそうになる。
いやフェーズが違うだけで、たまたま僕が今メンタルダウンのフェーズにいるだけなんだけどさ。(笑)
そんな事、頭では知ってるんだよ。何なら前より心も追いついてきたと感じている。この日記を書いているとそれを実感できるからいい。「あぁ僕は前より進んできているいいぞ、この調子だ。」なんて鼓舞する自分が心の片隅に現れているのを感じて、前の病的なまでにメンタルダウンしてた私との違いは明確化される。
しかし、私(いや、周りの目かな)はさらなる進歩を求めてやまない。そうでなければ私は今後付き合っていく人々を傷つき続けると思ってしまう。前々から人を不快にしてきたはずなのに、今はそんな私を許せない、というか許す余裕がない、、、
やはり自己受容が出来なくなっている。1年前はできていたのに、、、なんてまたナーバスに。
(笑)。笑えないぞ。
そうだ、男の子の方になんで心理学の本を読んでいるのかと問われ、うまく答えられなかったが今考えて思い出した。自己分析や、自分を変えるためなどとほざいたが、、、わがままになるために読んでいるのだ。いやもちろん傍若無人になりたいわけではない。真の目的はやはり変わることにあるのだと思う。これは僕の考え方の基本なんだけど、よく使うもの、何回も使うものは整頓されていないと嫌なんだ。だってそっちの方が便利だろ普通に。
そこで人と関わるための私の凝り固まった芯、偏見を今頑張ってはがしている。所謂あれだアインシュタインだっけか?が言った、常識とは18歳までに培われた偏見の塊、という偏見をつけるフェーズから、整理整頓するフェーズになったという事だ。たぶん?私のこれすら偏見であろうが、キリがないし満足したのでそこで思考は止まる。まぁ、そうやってリフォームすることで僕のべ―スを私がキレイと思う形に近づけることができる。そしてより柔軟により温かく対処できるようになるのではないのか、より僕の目指す姿に近づけるのではないかと。
しかし、その偏見は外界から自分を護るための鉄の板でもあった。それをはがしているのだ、涙が出そうになって当たり前、そりゃ痛いし抑えてた心の膿が流れ出るさ。これはカウンセリングで徐々に愚痴や不平不満が出ることに似ていると思う。今まで自分ですら気付いていなかった気持ちに気付く瞬間。それを今自分でできているのだから、長期的に見ればこの先には強くなった私がいると感じる。
いうなればセルフカウンセリング。しかし、ここがカウンセリングルームならいつかここから飛び立たねばならない。そうだな来月いっぱいを目安にでもしようか。
いや日記は1年くらい続けたいな。だから心の卒業の目安にする。自分で振り返って楽しみたいし。(笑)
ものすごく自分本位に生きている今。なぜそうなるかというと自分を見ているから。本当に自分の内しか見ていない。それが今の仕事と言わんばかりに。これは来月一応続けてその後は飛び立つとしよう。ここに明示しておく。でなければいつまでも区切りがつかない。
さて今日のうっぷんは晴れてきた。次の暗雲が私、僕を包み込むまえにこれを切り上げよう。