6月5日
さて、今日も例の丸机でパソコンをカタカタしている。
彼女に振られて約一ヵ月が経ってしまったわけだが、やはり僕が男だからか(男の方が引きずるという実験がある)なかなか思い出してしまってやまない。
特に一人でいるとそれは如実で、
もしああしてたらとか、もう楽しく日々を過ごしてるんだろうかとか、しょうがなかった俺の魅力不足だった、でも彼女にも悪いとこあったよな、、とか
ずっと考えてしまう。女々しいな、なんて思いつつもこうなってしまうのは多少しょうがないというか、男の方が引きずるというが、情けない、、、
自己嫌悪と意味のない思考?いや妄想がぐるぐると頭を回って離れない。だがいい加減不愉快だ、日常に支障をきたすしそろそろ止んでもいいんじゃないかと思う。
あなたにもこういった経験はないだろうか。日々感情の起伏が少ない方はあまりピンとこないだろうが(私自身いつもはあまり感情の起伏は激しくなかったのだが)、それでも稀に経験するのではないだろうか、
もはや何を見ても”何か”を思い出し、怒り、悲しみ、悔しさ、情けなさ、という感情とそれに伴う妄想が始まっていしまう、いやもしかすると妄想が先なのかもしれない。
いや、激しく情緒を揺さぶられることはいい事なのだが、この思考が邪魔でならない。
といいつつも妄想したい自分がいるからやめられないのだろう。
こういった自分の中で生まれてしまった、矛盾 僕と私 の乖離がややこしいと思う。
急ハンドルにはなるが僕は最近、アドラー心理学に関する本を読んだ、その視点から言うなら
僕は現状維持を望み、自分が(振られたという)不幸にしがみついて自己の承認欲求を満たそうとしているのだ。忘れたい、考える自分が嫌だと言いつつも(そういったポーズはしつつも)、実の所その現状に甘んじている。幸せでないことを望んでいるという事だ。
重要なのは今の自分を受け入れること、自己肯定というよりかは自己受容。誰でも、癖や至らないところはある。そこを認めそれをどう活かすか、どう改善するかという思考に至ることが重要なのだ。
しかしこれがなかなか難しい。頭でわかっても(知っていても)心からそう思えないのだ(理解できない)。
しかしこう考えると少し前までの、私(1年位前の私)はこれができていたように感じていた。
例えば、私のいいところは壁が薄い(パーソナルスペースがあまりない?)ところなのだ。気を全く使わないという事ではないが素でいることを美徳とし心地のいいように生きてきた、もちろんそれを別に好かない人もいただろうが友達はできたし、そんな私を大変気に入ってか(お節介か?)親友と呼べるような友もいる。これはうまく働いていたと感じる。が、、、
これが落とし穴だ。なぜなら友は後からついてくればいい。いたい自分でいればそれに伴って友人が出来る。しかし私の思考では彼女という存在はそうではないからだ。特別、何が何でも離したくない、そういった思考が根底にこびりついているのだろう、所謂、、、ロマンの見過ぎ?
いや、別に悪いわけではない、多くの人がある程度のロマンを恋愛に感じるであろうし悪くはないのだが、、、
これが執着や視野を狭めることに繋がってしまうのだと実感した。
正直言うと今回私は執着していた。これを友達に話すと「くせえ」だとか「難しく考えすぎ」といわれるのが落ちなので特段語ろうとは思わないのだが、、
執着、つまり今回私は自分を満たすために彼女と接していた。寂しさや性欲もろもろ、確かに私はある程度優しかったかもしれない。だがその根底には醜悪な「恋」が潜んでいたのだ。これではうまくいかなくて当たり前、というよりかはうまくいかないほうが彼女にとっては(もはや私にとってまで)良かったと感じる。
しかしこれが「愛」であったら話は別だと思い至る。なぜならそれは自己欲求のためではなく、他者
のため、つまり相手の幸福を願うため、過剰な欲求などは生まれないからだ。
これは昔私がほろ酔いでつぶやいたことだが、愛とは何かと問いに私はこう答えた。「愛とは最大の利他主義だ。」と、これが根底にあって初めて健康的な関係がつかめると感じる。
(言っておくがこれは相手のご機嫌取りをしたり、相手に尽くしすぎることではない。長くなりそうだからここで切っておこう。)
そして、これは自分の二本足で立ち初めて成し得ることであるだろうし、恋愛初期からこれを築くのはほぼ不可能である。やはり時間が必要だし、お互いに成長することで成し得ることだろうから。だからこそ今回は私の成長のために必要なイベントであったとも思う。少し考え方が成熟したように感じる。
うん、やはり私はこういったこと(恋愛)に関しては得意ではないのだろう。なかなか難しいしうまくいかないものだ。