スズランとクチナシ②
まるで女神様のようなお姉さんのおかげで、俺は親に美大受験を許されて、翌年無事入学した。
お姉さんにお礼を言いたかったけれど、あの公園に何度行っても会うことはできなかった。名前くらい聞けばよかったと後悔したが、後の祭りだ。
でもここで真剣に絵を学んで有名な画家になれば、お姉さんから会いに来てくれるかもしれない。そんな夢みたいなことを考えていた。
けれど、そんな浮かれた気分で大学ではじめて描いた絵は、酷評を受けた。
ショックだったけど、絵を良くするためだから、ともらった言葉を一つ一つ受け入れて真剣に取り組んでいく。
歯を食いしばりながら、課題に取り組む毎日。
単純に好きなだけの絵を描くことはなくなって、俺の絵にはどんどんと暗い色が増えていく。
でもそれはなぜか教授たちの絶賛を受けて、俺は流されるようにそんなものばかり描くようになった。
だんだんと眠れなくなり、何を食べても味がしない。
絵を描きながら思うことは、後ろ向きなことばかり。
いつまで俺は絵を描かなきゃいけないんだろう?
少なくとも卒業までは。……卒業までは?
あんなにやりたかったことなのに、俺の進みたかった場所にいるはずなのに、逃げ出したい。
卒業制作の絵を描き終えると、急に涙がこぼれた。
これは俺の描きたい絵じゃない。
こんなのを描きたくて、美大に入ったわけじゃない。
……でも、俺の絵って、なんだっけ?
わからなくなると、もう絵が描けなかった。
筆を持っては、白いキャンパスを見つめたまま無為に時間が過ぎる。
無理に描こうとすれば、手が震えて線が引けない。
そんな日を何日も過ごして、大学を卒業した。
絵を描かない俺には、なにもなかった。
卒業後は実家にはいられず、とにかく働かないとと、その一心で手当たり次第に働ける場所を探して、なんとか受かった会社に潜り込んだ。
確か、卸売りの会社だとか言ってたけど、よくわからない。わからなくても、いい。
生きていくために働けばいいんだ。とにかく、一生懸命に働いて……そしたら絵のことは忘れられる。違う生き方をしたらいい。
そう思ってたのに。
「三橋、指導係よろしくな」
俺の指導係になったのは、なんと俺の女神様だった。
5年たっていても、すぐに分かった。分からない訳ない。
「よろしくね」
笑う顔が、5年前と変わらずにとびきり可愛かった。
三橋先輩は俺のことを覚えてはいなかったけど、俺はそれでも良かった。
もう一度会いたいと思ってた人に毎日会えて、仕事も楽しい。同僚にも恵まれている。
本音を言えば、三橋先輩とお付き合いしたかったけど、40歳だって言ってたしきっと素敵な旦那さんがいるに違いない。羨ましい。俺がもっと早く先輩と出会っていたら……。
なのに、三橋先輩が独身だと分かってしまった。
――なら、俺にもチャンスがあるんじゃないか……?
夢見て、でも、と思いとどまる。絵のことが頭をよぎる。
俺が夢をあきらめたダサい男だとわかったら、先輩はどう思うだろうか?
先輩が俺から買った絵の話をしてくれて、さらに怖くなった。
先輩に、俺が絵の作者だと言おうか……?
気づかれずに先輩と付き合うことはできないかと、都合のいいことを考えた。
でも、
「月がきれいだねぇ……」
だなんて、先輩が愛の告白みたいなことを言うから……。
俺は、やっぱり俺のことを先輩に思い出してほしいと思ってしまった。
「……先輩は、俺のこと、覚えていませんか……?」
先輩は真剣に悩み始める。
「……覚えていないなら、いいんです」
「ちょっと待って! 思い出すから!」
「いや、無理することないですから……」
「ううん。それが君にとって大切なことだったら、そんな簡単に引き下がっちゃダメだよ」
そうなんです。俺にとっては、あなたとの思い出は忘れられないほど大切なことなんです……。
ヒントを色々出すと、やっと先輩は俺のことを思い出してくれた。
「青木君があの時の――うちの絵の、作者? でも、じゃあホントになんで、うちに……」
俺の胸の傷がズキリと痛む。
やっぱりそう思うよな……。でも、もう絵の道には戻れない。
なるべく簡潔に解決しようと思った。そう、あの絵を捨ててもらえばいいんだ。
「俺、絵はもうやめたんです。……だから、先輩、お願いです。あの絵、捨ててくれませんか?」
あれさえなければ、俺は新しい人生を歩めるんじゃないかと、ズルいことを考えてしまった。
そしたら、先輩は自分の家に俺を引っ張って行って、玄関に飾っている俺の絵を見せてくれて、
「とにかく、好きなの。見ると安心するの!」「この子は一生うちの子です!」
そんな風に、一生懸命に俺の絵を守ろうとしてくれた。
俺の絵は、本当に……本当に、先輩に大切にされていて――嬉しくて涙が出そうだった。
ああ、やっぱりこの人は、俺の女神様だ。
俺の本当は大切にしたかったものを、ダサい俺からも守ってくれて……こんな人、他にいない。
絵を捨てて欲しいなんて、嘘だ。
本当は……本当は、絵を続けたかった。人に大切にされるような絵を描いていたかった。
……もう一度、やってみよう。俺の絵と向き合ってみよう。
そして今度こそ俺は、可愛くて格好良いこの人に見合う男になりたい……。
家に帰って、すぐに紙に鉛筆で絵を描いた。
画材はすべて捨ててしまっていたから、ありあわせの文房具しか家にはない。
でも、幼い頃にばあちゃんの家で絵を描いていたときのように、紙があって描くものがあればそれだけでよかった。
最初に描いた線は手が震えて、おぼつかなくて、自分でも笑ってしまった。
でも、描けた。
少しずつ、少しずつ俺の手は絵を思い出していった。
描いたのは、やっぱり花の絵。
俺の手から、線から、紙の上に花が生まれていく。
満開の桜。あの日のように、柔らかに。
スズランの花。先輩のように、可憐で、涼やかに。
先輩に見せたい花をたくさん書いた。
春の花。チューリップ、ビオラ、ヒヤシンス、マーガレット、菜の花にネモフィラ……。 俺の心の中でいつでも一緒だった、思い出の花たちが紙にあふれ出す。
描いていたら、朝になっていた。
外に出て、もっと描いた。
昼には画材屋で、画材を買い直した。
描いて、描いて、描いたまま寝ていて、食べて、描いてを繰り返して……月曜の朝。
先輩に会いたくて、先輩の駅のホームで先輩を待った。
先輩は、俺のことを怒ってなくて、優しい言葉をかけてくれて……。
でも、忘れていいなんて言うから、あの夜のことをなかったことにしようとするから――
俺は、先輩を逃がさない事に決めた。
次で完結です。