スズランとクチナシ①
颯太視点の話です。3話あります。
線路沿いのタチアオイに、茎の半ばまで桃色の花が咲いた。
梅雨の晴れ間から降り注ぐ朝の日差しを浴びながら、俺はいつものように飼い犬のモモを連れて線路沿いの道を行く。
駅に向かうサラリーマンたちとすれ違いながら歩いて行くと、年季の入った平屋の小さな家が見えてくる。
庭付きという一点だけが気に入って借りた俺のアトリエだ。
「今日は暑くなりそうだなー」
玄関の引き戸を開けると、中からこもった生暖かい空気が出ていく。
家中の窓を開けていくと、モモは勝手に台所に行ってくつろぎ出した。一番風通しが良くて涼しい場所がどこなのかを、モモはよく分かっている。
庭に面した居間は絵の道具で雑然としている。
俺は庭の様子を掃き出し窓から眺めて、最近の雨で元気に伸び放題になっている植物たちを「週末になんとかしよう」と心に決める。
そして、イーゼルに立てた描きかけのキャンパスに向かい合った。
今取り組んでいるのは、飲食店から発注を受けた花の絵だ。春、夏、秋、冬の4枚を描くことになる。
今は冬の絵の、赤い椿を描いている。
参考用に椿を描いたスケッチブックを机に広げて見ると、自然と頬が緩んでくる。
だってこれは、この間佳奈さんと旅行に行った時描いたものだから。
結婚して最初の冬、旅先で美しい自然の中を佳奈さんと歩いて、雪をかぶった椿の花を見た。
「綺麗だね」
そう言って花を見るキラキラとした佳奈さんの横顔に、俺は感動した。
旅はいい。いつもと違う佳奈さんが見られる。
俺は幸せな気持ちで筆を取る。
俺が花を描く時は、いつも誰かを想ってる。
花は、大切な人との記憶といつも深くつながっているから。
それは今は佳奈さんで、昔は――ばあちゃんだった。
俺の両親は共働きで多忙で、俺は幼い頃からよく一人暮らしのばあちゃんに預けられていた。
ばあちゃんの家には広い庭があった。
そこにはたくさんの植物が植えられ、季節ごとに色とりどりの花を咲かせていた。
それは全部ばあちゃんが世話した花で、庭仕事をするばあちゃんのそばで俺はいつも絵を描いていた。
ばあちゃんは俺のためにチラシやカレンダーの裏をいつでも集めていてくれた。
俺はそれでも描き足らず、電話横の分厚いメモ帳やアドレス帳の余白まで絵で埋め尽くしていた。幼い頃の俺は、ばあちゃんの家の紙という紙は自分のものだと思っていて、ばあちゃんはそれを叱らずにいてくれた。
絵を見せれば褒めてくれて、俺はそれがうれしくてもっと絵を描いた。
ばあちゃんが一番喜んだのは、やっぱり花の絵。
「颯ちゃんは、絵を描くのがとっても上手ね。わたし、颯ちゃんの描くお花の絵、大好きよ」
俺は小学校に上がっても、絵で賞を取る度にばあちゃんに絵を見せに行っていた。
ばあちゃんは「颯ちゃんは、将来はすごい絵描きさんになるよ」なんて言って褒めてくれて、俺もそうなろうと当たり前に思っていた。
そんなばあちゃんは、俺が中学の頃に体調を崩して入院した。
大人同士の話し合いの結果、退院後はばあちゃんは老人ホームに入ることになった。
ばあちゃんの家は古くて誰も管理することも出来ないということで、壊してまっさらな土地にして売ることになった。ばあちゃん自身もそう望んだ。
俺はすぐにばあちゃんの家に行って、絵を描いた。
家の絵を、庭の絵を、そこに植わる花々の絵を。
少しでもばあちゃんのために、絵に残しておきたかった。
ばあちゃんは老人ホームに入って、そのまま少しずつ俺のことも、誰のこともわからなくなっていってしまった。
でも、花だけは好きで、俺の絵を壁に飾っていてくれている。
たくさんのことを忘れてもなお、『好き』という気持ちだけは覚えてくれている。
もう二度と、ばあちゃんとの日々は戻らないけれど、俺の名前を呼んでくれることはないけれど。
「わたし、お花が好きなの」
もう俺が誰かもわからないのに、ばあちゃんがそう言って微笑む。
それだけで、俺は絵を描いてきて良かったと思ったんだ……。
そうして高校生になっても、俺の進路は一貫して画家になることだった。
そんな熱もいつか冷めるだろうと思っていた両親も、高2の進路希望でようやく俺の本気に気づいた。
両親は安定した職業についてほしい、それには普通の大学にいって普通の就職をしてほしい、と考えていたようだ。
俺は俺の絵を信じていたし、美大で学びさえすれば画家になれると思っていた。俺には特別な才能があると何の根拠もなく思っていた。
両親は「それは甘い考えだ」とか、「夢ばっかり見るんじゃない」と反対した。けれど、何度も頭を下げ熱心に頼み込む俺に、親父はしぶい顔で言った。
「お前に才能があるのか、私にはわからん。だから、お前が1枚でも自分の絵を売ることができたら、美大に行くことを認めることにする」
きっとあきらめさせるためだったのだろう。
けど俺はそんなことでいいのなら、と嬉々として近くの大きな公園に行き、路上販売の人たちにならって絵を並べた。
1枚なんて、楽勝だと思った。
だけど。
無名の画家の卵の絵なんて、誰も買わなかった。
1日、また1日と無為な時間が流れていく。なるべく人の通る場所にしたり、時間帯をかえてみたりしたけど、意味はなかった。
似顔絵屋でも開いて売れたことにするか? とか思ったけど、親父にはバレる。そしてそういう嘘は嫌う人だ。
どうしようか……。
道行く人たちは桜ばかり見ている。俺の絵を、誰も見てくれない。見ても流し見で、すぐにいなくなる。
親父の指定した期限は春休みの間だけだった。もうすぐ休みも終わってしまう。
焦る気持ちをなだめるように、並べた絵の前で手を動かして絵を描いていた。
そんな時、
「これ、いくらですか?」
声のする方を見て、俺は息をのんだ。
ヒールの靴から伸びる綺麗な足。ネイビーのスーツに身を包み、西日を受けて光が透けるゆるやかなウェーブヘア。ナチュラルメイクの下のアーモンド型の目が俺をじっと見つめている。
座っている俺に合わせて少し屈んでくれていて、髪が顔にはらりと落ちる。すらりと伸びた手で髪を耳にかけると、耳元のピアスがキラリと光った。
見惚れてしまってから、ハッとする。
そう、値段。値段だ。
「あ……えっと……値段……? どうしよう、考えてなくって……」
しどろもどろの俺、格好悪い。
売る気満々だったのに、値段すら考えてなかった。千円? 二千円? いや、買ってくれるんだったら、もっと安くても……。
どんどんと分からなくなってきて、焦って俺は、
「お姉さんが決めてください」
丸投げしてしまった。
「私が?」
目を丸くしたお姉さんが、財布からスッと一枚お札を取り出す。
それは、一万円札で、俺は驚いてしまった。
だって、俺の絵にそんな価値があるなんて……。
「え? 足りない? ごめんね、私、絵を買うの初めてで」
「俺……いや僕も、売るの、初めてで。こんなにもらえるなんて思ってなくて」
初めて同士だということが分かって二人で笑ってしまった。
お姉さんは話しやすい人で、俺は画家になりたいということ、両親に反対されていること、でもお姉さんのおかげで夢が叶いそうだということを話した。
「そっか、よかったね。がんばってね」
お姉さんは、とびきり可愛い笑顔で俺のことを応援してくれた。