2.捨ててくれませんか?
彼氏にフラれてマンションを買った5年前、私は新居に物足りなさを感じていた。
清潔な部屋に、こだわりの家具。お気に入りの小物を少しずつ増やしていってる。
でも、なにか落ち着かない。まだ自分の家って実感できない。
何が足りないんだろう?
違和感を感じながらも日常は続いていく。
そんなある日、客先からの帰り道に大きな公園に入った。
公園の中を突っ切った方が近道というのもあったし、桜が咲いて綺麗だったから。
大勢の花見客の中を桜を見ながら歩いて行くと、つい元カレとのお花見の記憶が頭をよぎった。
こういうのは突然やってくるからタチが悪い。
あ、まずい。泣けてきた。
涙をグッと堪えて下を向くと、ふと路上になにかが並べられているのが目についた。
絵だ……。
そのあたりは他にも路上販売で、アクセサリーや骨董品などを売っている人がいる。
絵も売りものなのだろう。
何の気なしに絵を見ていくと、一枚の小さな油絵に目が留まった。
花の絵だ。白いベル状の花と葉の緑のコントラストがまぶしいスズランの絵。
花壇に咲いているような描き方が素朴でいい。
家に絵を飾るのも、いいかもしれない。
それはとてもよい思いつきに思えて、さっそく買うために売り子の青年に声をかけた。
「これ、いくらですか?」
「あ……えっと……値段……? どうしよう、考えてなくって……」
話しかけられると思っていなかったのか、青年はしどろもどろになっている。
売るのに値段を考えていなかっただなんて、なんだかかわいい。
よく見ると、顔もかわいかった。
サラサラの髪に人懐っこそうな目、お肌もピチピチで羨ましい限りだ。お肌の曲がり角で華麗にドリフトをキメてしまったアラフォーな私にはまぶしすぎる。
キラキラした青年は困り果てた末にこんなことを言い出した。
「お姉さんが決めてください」
「私が?」
青年が頷くので、私は財布の中を見て、諭吉を一枚えいやと取り出した。
絵なんて買うのははじめてなので、大奮発してみた。でも、絵を気に入ったのは確かだったから、惜しくはなかった。
「じゃあ、これで」
「えっ?」
「え? 足りない? ごめんね、私、絵を買うの初めてで」
「俺……いや僕も、売るの、初めてで。こんなにもらえるなんて思ってなくて」
初めて同士だということが分かって二人で笑ってしまう。
それから、彼と少し話をした。
彼は実はまだ高校生で、今は春休みで、画家を目指しているということ。美大を受験しようと思っているのに、親に進路を反対されていて、「一枚でも自分で描いた絵が売れたら受験していい」と言われていることを話してくれた。
「ふぅん、厳しいんだね」
親からすれば、子どもの進路に不安があるのかもしれない。画家は食べていけない、とかよく聞くし……。
「でも、お姉さんが絵を買ってくれたおかげで、最初の関門はクリアです」
青年はニコッと明るい笑顔を見せてくれる。花のようで、まぶしい。花を描く花のようなDK……推せる。
「そっか、よかったね。がんばってね」
私の何気ない行動が若人の未来を応援できたことがうれしくて、悲しかったこともすっかり吹き飛んでしまった。
買った絵は家の玄関に飾った。
後から額装するといいよと人に聞いて、額縁屋さんに持って行ってちょっといい額にはめてもらった。うん、とてもいい。
玄関が華やいで、ただのマンションの一室がまた一歩『わたしのお城』になっていくのがわかって、うれしかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「青木君があの時の――うちの絵の、作者?」
そんな偶然って……!
驚いて興奮する私を見て、青木くんはうれしそうに頷く。
「えっ? でも、じゃあなんでうちに入ったの? あ、美大落っこちたの?」
「いえ、美大は受かって、ちゃんと卒業しました。……っていうか、俺の出身大学、知らなかったんですか?」
「え? あれ? なんで私知らないんだろ……。あ、あれだ。君が入社した日はもっちーが結婚した日だったから、心ここにあらずだったんだった……。それともあのハゲ(課長)が伝え忘れた……?」
「……先輩……」
呆れたような視線が痛い。うう。恥ずかしい。いや、でもね、入社したら出身大学なんて関係ないし。
「でも、じゃあホントになんで、うちに……」
うちは画家になるはずの人間が入るような会社じゃない。クリエイティブの欠片もない仕事なのに。
青木君は悲しそうに笑う。
「俺、絵はもうやめたんです」
「え……」
衝撃的だった。
あの日、絵の道に進めると嬉しそうに笑っていた男の子が、こんなことを言っている。
私は青木君の顔を見ていられなくて、俯いてしまった。
なんで、なんて無遠慮に聞いたら傷つけてしまう気がする。
素敵な絵を描くのにもったいない、なんて押し付けみたいなこともしたくない。
でもなにか言わなくてはと、必死で言葉を探す。
なのに、
「だから、先輩、お願いです。あの絵、捨ててくれませんか?」
「え……?」
顔をあげると、青木君は笑っていた。
「もともと、大した絵じゃなかったし、もっといい絵を飾った方がいいに決まってますし。……俺にとっても、作品が残ってるのは、未練だから」
無理やりに笑っているんだと分かって、痛々しかった。
でも、同時に私の中に怒りがふつふつと沸いてきた。
たまらなくなって、青木君の手を掴む。
「……青木君! ちょっとついてきて!」
私は青木君を引っ張って、ずんずんと歩き、困惑する彼をタクシーに押し込んで自分の家に連れて行った。
タクシー代で諭吉が飛んで行ったけど、かまうものか。
扉を勢いよく開けて明かりをつける。
「……そこ、見て」
困惑する青木君に低い声で、命じる。
指を指した先、シューズボックスの上には、額縁に入ったスズランの絵がかけられ、可愛らしいガラス細工の動物たちが並んでいる。
私ご自慢の癒しの可愛い空間だ。
「君がさ、どんな想いで絵を描いてたかなんて知らないよ。これから描いたって描かなくったって、そんなのに口も出さない。でもさ。私はこの絵が好き。好きだから、買ったの」
この絵は、5年間私の心を彩ってくれた。
「こんな下手くそな……。構図だって、塗り方だって、全然、ダメで……。お金払うんで返してください」
青木君が絵に伸ばした手を、私はぺちりと払う。
触るな、これは私のだ。
私が買ったんだから、もう私のものだ。
「だから、そんな知らないってば。『なんかいい』の。このぺたってしたとことか、白とピンクが絶妙にまじった優しい色のとことか、とにかく、好きなの。見ると安心するの。下手かどうかなんて、関係ないの」
この絵はいつも、私を支えてくれた。
一人ぼっちの私に、あたりまえみたいに、いってらっしゃいとおかえりなさいをくれた。
もっちーロスの日だって会社に行けたのは、この絵を、この場所を守りたい気持ちがあったからだ。
私がなんでもない日常を送るためには、この絵はなくてはならないものだ。
「そんな……俺に気を使わなくったって……」
作者なのにこの絵を認めないのが癪で、私は声を荒らげる。
「使ってない! とにかく、この絵はうちの玄関にぴったりで、会社に行きたくない時とか、帰ってきた時とかに私の心を和ませてくれて、もうそういう絵になってるんだから、絶対捨てません! この子は一生うちの子です! あきらめてください!」
あっけに取られた様子の青木くんの背中を押して、外に出す。
「それだけ! はい、帰った帰った。じゃあね、月曜日、遅刻しないように!」
一方的に言ってバタンとドアを閉めると、しばらくして立ち去る足音が聞こえる。
ここ駅チカだし、スマホは持っていたし、まだ電車はあるし、なんとか自分で帰れるでしょう。
足音が聞こえなくなって、大きく息をつく。
「まったく……」
しんと静かになった玄関で、絵は変わらずに私を見てくれている。
「こんなに、素敵なのにね」
何も言ってはくれないけれど。
君のつくったものは、私のかけがえのない生活の一部になっているんだよ。
日々の思い出が染み込んで、もう買った時のまっさらなままじゃない。
「そんなの、捨てられるわけないんだよ……」
週が開けた月曜日ははちゃめちゃにいいお天気で、駅のホームに行ったら青木君がいた。
わわ。びっくりした……。
3駅ほど先が青木君の駅らしいから、できなくもない芸当だけど。
金曜の別れがアレなので、私はなるべく軽い調子で声をかけることにした。
「おっはよ。金曜は帰れた? なんでここにいるの?」
「……っス。帰れました。それで、俺、先輩のこと、待ってました」
私を?
「……絵は捨てないよ?」
警戒して言うと、青木君は苦笑する。
「それはもうあきらめました。あんな猛攻にあうなんて思いませんでしたから」
「そか。ならいいや。……あー、今日、暑くなるってさ。やっぱり、5月過ぎるともう夏ってかんじだよね」
私は普段の調子で世間話に入る。彼が絵を描くのをやめたのなら、もうあの話題には触れない方がいいのだろうから。
「金曜のこと、やっぱり俺――」
せっかく話を変えたのに、自分から蒸し返すな。
私は手をパタパタと振って苦笑いで返す。
「あー、いいよいいよ。もう忘れてくれて。きっと君にも色々あったんだろうし。もう聞かないし、誰にも言わないし。悪かったね。もうあんなことしないから」
思い返すと、あの行動は社会人としてどうかと思う。
玄関までといえども、夜に家に連れ込むなんて、誰かに見られたら、若い子を食っちゃう痛いお局ナンバーワンに認定されてしまう。
なのに、なぜか青木くんは真剣な顔で私のことを見つめるものだから、ドキッと心臓が跳ねた。
朝日を浴びた茶色い瞳が私を射抜く。
「忘れません。――忘れたく、ないです」
視線が絡み合い、数秒。
電車がすぐにきて、慌てて電車に乗る。
……助かった。
吊革を掴みながらも、心臓がバクバクして苦しい。
助かったって、なにが……?
さっきの彼の真剣な目が、頭から離れない。
何だコレ。なんて目で見るんだ……。
勘違いしちゃうから、やめてくれ……。