誤算
我が故郷富山市でのクライムストーリーです。
終点の岩瀬浜駅で降りた。乗客は俺の田に数人。買い物帰りらしい老夫婦、ビジネススーツを着た会社員、子供連れの女性らがいた。下車した後は各々の行き先に歩いていく。俺も足を進めた。
海が見たかった。幼少期の記憶を頼りに、電車でここまでやって来た。もっとも俺が子供の時分は電車のッ名称が『ポートラム』といった洒落たものではなかったが。
四月半ば、平日の昼下がり。人通りがなく、車がたまに通り過ぎていく閑散とした町並み。曇り空で肌寒い気候だったが、乾いた空気のせいか喉を潤したかった。駅周辺にはコンビニやスーパーといった気の利いた店などなかった。理容店が一軒あるだけだ。俺は目についた自動販売機で子供のころから大好きなホットココアを買う。それを懐炉代わりにジャンパーのポケットに入れ、また歩いた。
案内掲示板に沿って歩いていると、潮の香りが漂ってきて、海が見えてきた。心が騒いだ。逸る気持ちに比例するかのように早足になった。駐車場を通り抜け、松林をくぐる。岩瀬浜にはいい思い出があった。親父とお袋、そして一人息子の俺の三人で海水浴に訪れたことがある。七月末の夏真っ盛りの日曜日だった。小学一年生だった俺は海の持つ開放感にも煽われて大はしゃぎだった。初めて浮き輪なしで泳ぐことができたのもこの時だ。親父とお袋はそんな俺を見ながら、相好を崩していた。俺の子供時代唯一といってもいいくらいの楽しい思い出…。
今日の海は荒れていた。空と同じ鉛色で、波音が鼓膜に響くくらい高鳴っていた。海と言えば自分の楽しかった思い出と重ね合わせ、太陽に照らされたエメラルドグリーンの輝く浜辺といったイメージしか持っていなかった能天気な俺は失望してしまった。吹きつける潮風も波打ち際に近づけば近づくほど強くなった。のんびり海を眺めながらホットココアを飲もうと思っていたが、そうするのは決して心地よいものではないということも分かり、より心が曇った。
ついてねえな。まったく、ついてない。俺の人生そのものだ。
思い返すと、俺の人生は海水浴の日以降、暗転した。親父が事業に失敗。酒浸りになり、働く意欲を失った。お袋との夫婦喧嘩が頻繁に起こり、ついにお袋は俺たちを置いて出て行った。生活保護を受けての父一人子一人の生活が始まった。俺たちは執拗に迫る借金取りから逃れるように汚いオンボロアパートに移り住んだ。そこは四六時中ネズミがはい回る家屋で、そのせいで俺は同級生から『ディズニー』とあだ名された。毎日が憂鬱だった。俺は学校が面白くなくなり、いつしか不登校になった。親父は学校へ行かぬ俺を酔いに任せて毎日殴る蹴るひっ叩くといった虐待をした。俺は歯を九縛って耐えていた。そうするしか、なす術を知らなかった。
中学までは何とか卒業できた。というより、追い出されたといった感が強いが。それからの人生はさらに加速するように坂道を転がっていった。
生きていくには働かねばならぬ。だが、中卒の十五歳の少年にできる仕事は限られていた。新聞配達。俺はその仕事に就くことにした。住み込みだったので、寮に移り住んだ。何より親父の暴力から逃れられるのが嬉しかった。親父に寮の住所は教えなかった。家出に近い形での旅立ちだった。
それからは、毎朝三時半に起床する生活が始まった。担当地区の配達にはバイクの免許を持っていなかったので、自転車で配り回った。昼間は拡張活動。夕刊を配達して、夜は翌朝に配達する洋館のチラシの仕込み。さらに月末には集金が待っていた。
最初は良かった。働いてお金を得る喜びが大きく、同級生より一足先に大人の仲間入りを果たしたような気がして、毎日が明るい希望に満ち溢れていた。だが慣れてくるにつれて、給金をもらう当初の感激が薄れ、怠惰な生活を送るようになった。新聞店の店長は部数増大に意欲満々で、常に店員を口喧しく尻を叩いていた。職場の人間関係も煩わしくなってきた。小学生時分からイジメを受け、孤独癖が強い俺は人とうまく付き合うことができなかった。早朝起床、長時間労働などが慢性の寝不足に拍車をかけ、軽いノイローゼになった。それで半年後、仕事を辞めた。
手元に少しのお金が残った。しかし、寮を出て行かねばならず、新しい住処の敷金礼金家賃などを払うと底をついてしまい、すぐにまた働かねばならない状況になった。
選んだのは、道路交通警備員。そこも半年で辞めた。雪の降る夜が最悪だったからだ。それから、職を次々に替えた。郵便配達員、ホテル警備員、駐車場警備員、日雇い人夫、沖仲仕、漁師見習い、倉庫見張り番、コンビニ店員、スーパー店員、テレフォンアポインター、教材販売員…。覚えているだけでもこれだけあり、まだ他にもある。ここ数年は労働者派遣会社に登録して、主に製造業の作業員として働いていた。先日まではアルミサッシの製造工場で働いていたのであるが、期日満了を理由に、契約を打ち切られた。体のいいクビだった。不器用でドン臭く、おべんちゃらの一つも言えない不愛想な俺は常に人員整理候補の筆頭に名が挙がっていたことだろう。そして今、こうして居場所を求めて、かつていい思い出のある海に来たのだった。
俺はいつしか二十歳を超え、二年前に三十路も超えた。だが、俺は何者でもなく、無学無力のまま何も進歩していなかった。そして、おそらくこれからも…。いや、これからは老いとともに退化していく一方ではないか。俺は自分に突き付けられている現実という壁に慄いていた。もう、ここまでにしようか。自死の考えが俺の頭の中で渦巻いていた。学歴は中卒、容姿は普通以下、際立った特技資格なし、年中貧乏。こんな俺に将来の夢や希望などない。せいぜい低賃金で牛馬のようにこき使われるか、このまま職にもありつけずに、あの世へ逝ってしまうのが関の山だろう。
入水自殺を図る。それも海まで来た理由の一つだった。今、まだ若いうちに人生を終わらせよう。まだ綺麗なうちに、そしてこれ以上恥を上塗りしないうちに、世を去ろう。俺が死んでも誰も悲しんだりしない。お袋は出て行ったきりで消息不明だし、親父は俺が二十三歳の時酒の飲み過ぎの為、肝硬変で死んでしまった。俺は無職の孤独な男だ。例え俺が死んでも、誰も迷惑をかけないのだ。
人気のない浜辺。高鳴る波音。俺は波打ち際に近寄った。海は俺を誘っているかのように見える。今なら誰もいない。と思って、辺りを見渡した。
誰もいない、と思っていたが、いた。子供が一人。学校に行き始めたばかりぐらいか。男の子だ。十メートル右後方に。浜辺に、俺と同じくポツンと一人いた。こっちを見ている。
じっと見つめ返すと、駆け寄ってきた。犬にでも追いかけられているみたいだ。砂に足を取られるのか、たどたどしい。それでも確実に近寄ってくる。三メートルぐらい手前で転んだ。
「わあっ」
転んだ拍子に、叫び声を上げた。全身服もろとも砂だらけになった。起き上がる。膝を擦りむいたようだ。目に涙を浮かべている。
俺は近づき、少年の服についた砂を払ってやった。普段はそんなことしないのだが、間の前の少年を見ていると、自分の不憫だった幼少期を思い出し、そんな気になった。
「困った人には親切にしましょう」
小学校で、担任の先生が念仏のように唱えていた教えを思い出した。もっとも年中困っていた俺に手を差し伸べてくれる者など少なく、皆先生の教えを実践していないのだなと思ったりしていた。
少年はグッと泣くのを堪えているようだ。
「ボウズ、どこから来た?」
俺は優しく訊いた。
「あっち」
そう言って、少年は来た方向を指差した。その時、思い出した。この子はさっきの電車で女性と一緒にいた少年だ。ただ、女性の姿はない。追いかけてくる気配すら感じない。少年の指差す方向にも誰もいない。松林の陰にでも隠れているのだろうか。広い浜辺には、俺と少年がいるだけだ。あとは、波の音。
「お母さんは?」
さっき一緒にいたのは、お母さんだろう。そう思って、さらに訊いた。だが、少年は首を横に振るばかりである。お母さんじゃないみたいだ。
「一緒に電車に乗ってきた女の人は誰なの?」
「お手伝いの新子さん」
そうか、お手伝いさんか。その時、俺は気づいた。この少年が仕立てのいい服を着ていることに。おまけに生意気にも子供用の腕時計まではめている。お手伝いさんと一緒だったところを見ると、いいところのお坊ちゃまか。
「ボウズ、名前は?」
「黒田翔太郎」
「何年生だ?」
「一年生」
「学校はどうした?」
「今日はもう終わった」
ふと、少年お顔に小学生時代の同級生の面影がピッタリ重なった。もしや…。
「お父さんの名前は何て言う?」
「黒田義治」
やはりそうだ。この少年の父親は、俺の小学生時代の同級生だ。その同級生とは俺に『ディズニー』というあだ名をつけ、気の弱い俺を散々揶揄していた張本人だ。一族が富山でも有数の蒲鉾工場を経営する、恵まれた家庭で生まれ育った鼻持ちならない野郎だった。
どこからともなく、怒りが込み上げてきた。俺が仕事を転々とし、結婚もできず、不遇の身でいるというのに、奴は結婚して子供までいる。今でもお手伝いを雇うほど裕福なのだ。思わず拳を握りしめた。
さぞかし楽しい人生を送っているのだろうな。そう思った時、俺の脳裏にある考えが浮かんだ。良心に従い打ち消そうとしたが、こびりついて離れなかった。
こいつは金になるのではないか。
翔太郎が駆けてきた方向を見つめしばらく待ったが、相変わらず誰も追いかけてこない。呼びかける声もない。今なら、この子をさらうことができる。これは何をやってもうだつの上がらない俺への天の恵みなのかもしれない。
「翔太郎、これ飲むか?」
俺はジャンパーのポケットからホットココアを取り出した。この子を手なずけようと思った。
「うん」
翔太郎は元気よく返事した。栓を抜いて、感を渡した。ホットココアはジャンパーのポケットの中で程よい温かさになっていた。
翔太郎は喉が渇いていたのか、ごくごく飲む。穢れを知らない澄んだ瞳をしている。俺とは大違いだ。今の俺の心の内を知ったら、どう思うだろう。
翔太郎は息継ぎした。
「おいしい」
と呟く。
「俺にもくれ」
俺は翔太郎から缶を受け取り、残りを一気に飲み干した。口移しだったが、汚いなんて思わない。そんな俺の姿を見て、翔太郎はフフフ、と嬉しそうな顔をした。それから俺は空になった缶を海に投げ捨てた。
「あはははは」
と、翔太郎は高笑いした。同じ缶のホットココアを回し飲みしたことで親近感を覚えたらしく、おれにまとわりついてくる。
俺はズボンのポケットから自分のスマホを取り出した。
「これも捨てちゃえ」
海に投げ捨てた。これから俺は誘拐犯という犯罪者になる。それに対するためらいも同時に捨てる、決意の行為だった。犯罪者にとって、自分の身元を証明する物は邪魔になるだけだ。スマホにはGPS機能がある。居場所を特定できるのだ。中卒の俺でもそれくらい知っている。そんな物、いらない。
翔太郎を誘拐する。そして、身代金を強奪する。俺は覚悟を決めた。そうなるのに、さほど時間はかからなかった。やってやろう。もうやるしかない。金持ちから金を奪ってやるのだ。それも子供時分俺を揶揄した奴から。これは根の深い復讐でもある。今までの俺は搾取される側の人間だった。だが、これからは搾取する立場の人間として生きよう。今回はその為の第一歩だ。自殺をしようとまで思いつめたのだ。死んだ気になって、人生を一発逆転させたい。
まずはこの場所から立ち去ることにした。誰かが翔太郎を迎えに来る前に。ここは人通りが少ないので、目立ち過ぎる。平日の昼下がり、労務者風の男が子供連れ。誰かに見られたら、すぐに記憶されてしまいそうだ。
とりあえず、富山駅に行くことにした。人を隠すには人の多いところに限る。これからの夕方時、往来の絶えない富山駅は格好の隠れ場所だ。地の利を生かしたい。親子連れに見える俺たちを気に泊める者などほとんどいないだろう。
俺は歩き出した。翔太郎がついてくる。
「どこ行くの?」
不安そうに、翔太郎が訊いてきた。
「翔太郎、家はどこだ?」
俺は質問に答えず、まっすぐ前を向いて訊き返した。
「ええとねえ、大泉の…」
翔太郎は自宅の住所を口にした。黒田家の住所は以前と変わっていないようだ。庭に大きな銀杏の木があるお屋敷だ。二、三度行ったことがあった。
「おじさんと一緒におうちに帰ろう」
俺は安心させるように言った。あながち嘘ではない。ただ、翔太郎が家に帰る時は俺の懐に大金が入る予定だ。
「電車に乗るの?」
翔太郎は顔を輝かせた。手をつなぐ。
「ああ。翔太郎、電車は好きか?」
「うん。大好き。僕、大きくなったら電車の運転士になりたいんだ」
俺たちはすっかり打ち解けた雰囲気になった。翔太郎は楽しそうだ。傍目から見れば、親子のように映るだろうか。俺は機嫌を損なうことの無いよう、引き続き気を配った。
「翔太郎はどうしてここまで来た?」
「分からないけど、新子さんに連れられて来た」
「その新子さんはどうした?」
「…………」
翔太郎は答えない。何か事情があるのだろうか。まあ、いい。辺りを見渡しても、人影はない。
岩瀬浜駅に着いた。しばらく待っていると、『ポートラム』がやって来た。岩瀬浜駅は富山ライトレールの終着駅だ。乗客を降ろし、また富山駅方面にく゚人間を乗せ、出発する。
『ポートラム』に乗ったのは、俺たちの他には一人の老婆だけだった。座席に着く。翔太郎は興奮しているのか、落ち着かない。目をキョロキョロさせている。
「翔太郎、おうちの電話番号って分かるか?」
俺は極めて重要なことをさりげなく訊いた。
「うん。僕、知っているよ。424…」
暗記しているのか、自宅の電話番号を諳んじた。正直そうな翔太郎の言うことだから、まず間違いないだろう。俺は七桁の数字を自分の脳に叩き込んだ。故人情報保護の今の時代、調べるのにひと苦労するところだった。
『ポートラム』がゆっくり動き出した。俺はこれからについて考える。突然の思いつきで始めたが、成功を収めるためには緻密な計画が必要だ。富山駅に着く。それからどうする? 翔太郎を連れて駅周辺をうろうろしていては不審に思われる可能性が高い。駅の南側には交番もある。できるだけ速やかに翔太郎をどこかの場所に軟禁したい。大事な金づるだ。かといって、郊外にある自分のボロアパートに連れ込むのは愚の骨頂だ。誰に目撃されるか分からない。ではどうする? 富山駅前のビジネスホテルを利用しよう。乏しい所持金から出費をするのは惜しい気がするが、ここは先行投資だと思い、割り切るしかない。後で大金が入るのだから。できるだけ繁盛しているホテルを選びたい。その方が顔や容姿を覚えられるリスクが少ないと思うからだ。利用者が多いと、従業員にの頃印象も薄くなるだろう。本当はフロントが無人のラブホテルが良いと思うが、生憎富山駅前にはそんなものはない。
ビジネスホテルはチェックイン時に会計を済ますところが多い。フロントで怪しまれないようにしなければ。どこのホテルも今どきは防犯カメラを設置しているだろうから…。
と、その時、不意に思いついた。そうだ、防犯カメラだ。この『ポートラム』も最新式の車種だから、防犯カメラが設置されているに違いない。俺と翔太郎の姿もバッチリ映っているだろう。まずい。
恐るべし、現代社会! 俺たちは何をするにしても監視されているというわけだ。気を落ち着かせようと深呼吸をする。タバコでも吸いたい気分だった。大丈夫、大丈夫だ。まだ俺は誘拐犯ではない。身代金を要求する電話をかけていない。子供を引率している只の労務者にすぎない。それに、今となってはどうしようもない。車内で狼狽えていると、余計不審者に見えるだろう。途中下車するのもおかしい。計画通り、終点の富山駅まで行くべきだ。迂闊な行動は取れない。
「おじさん、どうしたの?」
翔太郎も俺の小さな異変に気付いたのか、きょとんとした目を向けてくる。
「何でもないよ」
俺は翔太郎の頭を撫でながら言った。そうさ、何でもない。これくらいのことで動揺していては到底誘拐を実行し、成功させることはできないだろう。俺は改めて決意を固めた。
再び、思考に入る。身代金はいくらにする? どれくらいが妥当だろうか? 五千万、いや一億。金持ちの工場経営者なら、それくらいすぐに用意できるだろう。勿論警察へは通報させない。通報すれば、息子の命はないと脅す。脅すことは脅すが、できればこの可愛い翔太郎は手にかけなくない。犯罪者への道を一歩踏み出した俺だが、人殺しまで堕ちたくない。金さえ奪うことができればいいのだ。
金は使い古しの紙幣で、ボストンバッグに入れさせる。義治に持って来させる。年を取ったが、大体の顔の面影で本人かどうか分かるだろう。万が一金を持って来たのが別の人間だったとしたら、即座に取引は中止とする。刑事が張り込んでいないか、何度か金の受け取り場所を変更するのも一つの手だ。慎重に、念には念を入れて行わなければ失敗する。金の受け取り場所はやはり人の往来が激しい富山駅構内がいいだろう。受け取り時間を新幹線などの発着時間に合わせればいい。時刻表を調べる必要があるな。
金を受け取った後の逃走ルートも確保しなければならない。人込みに紛れて鉄道に乗るか、はたまたタクシーを使うか。自在に使える車があればいいが、レンタカーを借りておくか。いや、そこから足がつく可能性が高いからやめておこう。
計画はだいたいこんな感じだ。後は実際の局面で臨機応変に動くことだ。何が起こるか分からないから、直感を研ぎ澄まさせておくことも必要だ。できる。必ず成功する。俺は自分自身に言い聞かせた。
『ポートラム』が富山駅に着いた。周りに不審人物だと怪しまれないよう、大人一人子供一人の料金を払って、そそくさと降りた。
南口に出よう。そちらの方がビジネスホテルなどがたくさんあるし、俺たち二人連れが人混みに紛れやすいだろう。
地下へ降り、富山駅の南北を繋げる通路を、南口の出口に向けて足を進める。
「もう一つ、電車に乗るんだよね」
歩きながら、翔太郎が言う。
「ああ。ただその前におうちに電話しないとな」
嘘ではなかった。誘拐実行の手始めとして、黒田宅に身代金要求の電話をかけるのだ。ビジネスホテルにチェックインする前に、まず公衆電話を使い、犯行声明をするつもりでいた。俺は周囲に気を配りながら歩いた。この時期、学校帰りの学生や仕事終わりのサラリーマンが結構多い。やはり、狙い目は今の時間帯だ。明日のこの時間に決行だ。
注意して見ていると、公衆電話がまだ至る所にある。携帯電話の普及で大半が撤収されたのではないかと思っていたが、駅周辺ではまだ利用者が多いのか、点在している。北口のタクシー乗り場前に電話ボックスが一台あった。地下通路へ降りた階段の角にも、ボックスではないが一台あった。南口に出て少し東に行った先にコンビニがあり、その前にも電話ボックスがある。そこから黒田宅へ電話するつもりだった。電話ボックスの方が外の雑音が聞こえにくく、どこからかけているのか特定が難しいだろうと考えたのだ。
南1の出口で地上に出た。陽が暮れて、薄暗くなっていた。
「翔太郎、腹減らないか?」
俺は機嫌を取るかのように翔太郎に尋ねた。
「うん、減った」
「コンビニへ行こう」
「やったーッ」
翔太郎が明るい笑顔で叫ぶ。自分が今置かれている状況を、そしてこの俺が今何をしようとしているのか、怪しむそぶりを見せていない。少し良心が痛んだ。
コンビニで菓子パンを買い、翔太郎に与えた。翔太郎は即座に菓子パンにかぶりつく。
「おうちに電話するから、それを食べて待っててな」
いよいよ決行の時だ。俺は翔太郎を外に立たせ、電話ボックスの中に入った。黒田宅の電話番号は記憶している。
受話器を取り、硬貨を入れた。呼び出し音が鳴る。俺の心臓の鼓動も高鳴る。出た。
「はい、黒田ですが」
女の声だ。翔太郎の母親か。
「もしもし…」
俺の声はかすれた。
「あなた、あなたですね! 翔太郎は、翔太郎は無事なんですか1」
「!」
いきなり泣き叫ばれた。おいおい、どういうことだ。
「翔太郎の声を聞かせて下さい1」
意外な展開に、俺は戸惑った。もう誘拐したことが発覚したのだろうか。なぜだ? 俺はまだ何も言ってないぞ。お子さんを誘拐したとは一言も語っていない。
「もしもし、もしもし、翔太郎は、翔太郎は…」
なおも受話器の向こうの声が泣き叫ぶ。
俺は受話器をそっと置いた。しばし宙を見つめる。
誘拐がすでに発覚したと考えてよいのではないか。そう思っていた方が良いだろう。もう後には引けない。このまま成り行き任せで続行するか? 考えろ。冷静になって考えろ。暑くもないのに汗が背中を伝った。
隠れるんだ。翔太郎と一緒にいるところをこれ以上人目にさらすのは危険だ。身の破滅につながる。当初の計画通り、ビジネスホテルにチェックインして、身を隠そう。ホテルの一室で、今後の計画を練り直すのだ。
電話ボックスの外を見た。翔太郎の存在を確かめようと思った。が、いない。いたはずの翔太郎がいない。まずい。俺は電話ボックスを出た。辺りを見渡す。どこへ行った? 逃げたのか? 日が暮れて、視界が狭くなっている。目を凝らしてみるが、翔太郎の姿は見当たらない。コンビニの中に戻ったか? 俺は再びコンビニの中に入り、探した。だが、そこにもいなかった。どこだ? どこへ行った? このままでは計画がおじゃんだ。俺は人質に逃げられた間抜けな誘拐犯になる。
来た道を戻った。翔太郎の行きそうな場所はどこだ? 交番に駆け込んだか? いや、翔太郎は自分が誘拐されていると自覚していないはずだ。では、どこだ?
ふと、閃いた。翔太郎は富山駅からもう一つ電車に乗ると言っていた。自宅は大泉にある。ならば…。
俺は地鉄乗り場への階段を駆け上がった。翔太郎はここに来ているはずだ。確信があった。階段を昇り切り、翔太郎の姿を探す。
いた。翔太郎がいた。やっぱりここだった。切符売り場の前でぼんやり立っていた。
「翔太郎!」
思わず、俺は声を掛けた。駆け寄る。その時、遅れてもう一人、別の方向から駆け寄る男がいた。
「あ、パパ!」
翔太郎の笑顔が弾けた。
男は翔太郎の父親で、俺の小学生時代の同級生でもある黒田義治だった。
「翔太郎、無事だったか、大丈夫だったか」
義治は立ち尽くす俺を尻目に翔太郎を抱きしめ、頬ずりした。涙声である。それから我に返り、
「おまえは…」
と俺の顔を見つめる。昔、俺を蔑んでいた時と同じ目で。
「おまえは『ディズニー』…、小学生の時同級生だった堀部学君じゃないか」
一発で正体を見破られた。俺は観念した。
「何でおまえが翔太郎と一緒にいるんだ? まさか、おまえが誘拐したんじゃないよな。気の弱かったおまえがそんなことするわけないよな」
俺は言葉を口にすることができなかった。すると、翔太郎が叫んだ。
「このおじちゃんはいい人だよ。ココアを飲ませてくれたし、パンも買ってくれた。電車でここまで連れて来てくれたんだよ。僕、このおじちゃん大好き!」
「そうか、そうか。翔太郎を誘拐犯から救い出してくれたんだな。君は昔からいい奴だった。小学死の時イジメて悪かったな。ありがとう。本当にありがとう」
翔太郎の言葉を聞き、義治はしきりに感謝する。気づくと、いつの間にか五人の男が俺たちの周りを囲んでいた。そのうちの年かさの一人が警察の者だと名乗り、言った。
「黒田さん、たった今署から連絡が入りまして、誘拐犯の深町新子が自首して来たそうです。お子さんも無事保護されましたし、これで事件は一件落着ですね」
俺は訳が分からず、呆然とその場所に突っ立っていた。
後に、真相を知った。
翔太郎は誘拐された。いや、正しくは誘拐されていた。俺が実行する前に、家政婦の深町新子が元夫にそそのかされて、アジトである岩瀬浜の元夫のアパートに翔太郎を連れ込んだ。そして、元夫は誘拐の犯行声明の電話を近所の公衆電話から俺が電話する前に黒田宅へかけた。その間、深町新子は翔太郎を見張っていたのだが、罪の意識に苛まれて、隙を見て逃げ出したことにして、翔太郎を離したそうだ。翔太郎は事情が分からなかったが、深町新子が怖い形相で追い払うので、浜辺まで逃げだしたらしい。そこで俺と遭遇したのであった。だから、俺は誘拐されていた翔太郎を、さらに誘拐しようとした人間ということになる。
いや、俺は何もやっていない。ただ翔太郎を、自宅までの帰路途中にある富山駅まで引率しただけだ。黒田宅に電話をかけたが、用件を言わず切った。犯行声明をしていない。未遂に終わっている。俺はあくまで善意の第三者だ。小学生時代の同級生の息子を保護した、心優しい男ということになる。誘拐を企てていたということは、誰にも言うまい。墓場まで持っていくつもりだ。それにしても、一つ腑に落ちないことがあった。
「どうして俺と翔太郎が富山駅にいるって分かったんだい? 偶然身代金の受け渡し場所だったからかい?」
俺は義治に訊いた。
「翔太郎のはめている腕時計にGPS機能が仕込んでるのさ」
納得した。技術の進歩はすさまじい。
「ところで堀部、今仕事は何をやっているんだい?」
俺は恥ずかしながら無職であることを打ち明けた。
「だったら、うちの会社で働かないか。君は同級生だし、誘拐犯から翔太郎を救い出してくれた恩人でもある。翔太郎も懐いているみたいだし、蒲鉾工場だけど、どうだい? 優遇するよ。月給の他に、年二回の賞与も保証する。有休休暇も取れるようにするよ。イジメた過去の罪滅ぼしをさせてくれ」
俺はその申し出に飛びついた。過去のことなど、この際きれいさっぱり忘れて人生の再スタートを切ることにしよう。
無色でうだつの上がらない男だった俺は、誘拐を企て、大金を得ようとした。ただ、何とか犯罪者となる一戦は越えず、踏みとどまった。そのおかげで、今回優良企業の正社員という安定した身分を手に入れることができた。
嬉しい誤算だった。
一寸の虫にも五分の魂というやつでした。