《弐》脈と硝子
――飛び散ったガラスは冷たい風に流れて二人の顔を切っていった。
「っなんですか…!」
「!?」
割れて外と繋がった窓の枠に手がかかっているのが運転士には見えた。そこからヒョイとバスに入り込んできたのは一人の女だ。割れた窓に手をかけたせいか小さな傷が所々出来て血を流している。
「――いやぁ、外も酷い吹雪。そんでここは……別の世界かい?随分と氷で覆われているようだけど。どちらにせよ寒いね」
アルトに近声、よく通ったノイズの入っていない声が冷えきったレイの体全体に刺さるように伝わった。恐らく運転士にもそう感じただろう。
が、それよりも驚いたのは彼女の姿だ。
(こんな人、見たこと……)
毒々しいような、しかし透明感があるような薄い青紫に、毛先にかけてさらに薄くなり、朝の空を思わせるような水色をした髪。細く縦に伸びた瞳孔に、不自然なカラーコンタクトの色をしていない純粋な赤い瞳。
それだけでも異質な人間だと言うことを表していた。
しかし、異様な色をした彼女の顔立ちは整っており、不思議と綺麗だとレイは感じる。
「ん?なんだい?その子を氷漬けにでもして飾るの?運転士さん」
「…………お前は」
見覚えがあるのか、運転士は知っているような声を出す。だがそれは、ただ知っているような声ではない。
頭痛がするのではないか、というほど歯を食い縛るが、それは彼が彼女に対して敵意を向けているのではなかった。そうと言われればそうなのだが、彼の心は恐怖に染まっていた。
激しい風に髪と腰に縛った白衣を揺らしていた彼女が、わざとらしいような口調で彼を見下ろす。
「ああ、それともこう呼んだ方がよかったのかな?『氷花の麦秋』って通り名の割には矛盾してると思わない?ははは」
渇いた笑いをする彼女に、『氷花の麦秋』と呼ばれた運転士は髪の間から殺すぞと睨むが、彼女は気にも留めずにニコニコと目を細め挑発するように笑うだけだった。
そんな二人の異様な空気に取り残されたレイは呆然と眺めていた。二人を交互に見つめる、焦点が合わない虚ろな金の目は、ふっと暗くなる。
体が重たく後ろに傾く感覚を覚えたレイは氷と共に崩れ、大きな音を立て倒れた。
二人が殺気を放っていた空気が壊れる。
「今度はなんだ」
「あらら」
彼女がバスの席から床へと小さく跳び、足場の悪いゴツゴツした氷の床に立つと早足でレイの元へ駆け寄り手早く脈をとる。
あぁ、うん、生きてる。と感情がこもっていない声で言う。
突然彼女の首にヒヤリとした感覚が走る。
見なくても分かったナイフの感触に怯えることも、抵抗することもせずにレイの状態をテキパキと見続けていた。
ゆらりと、おもむろに立ち上がった彼女は震えているナイフを払い落とし、運転士に「この子持って」と目線でレイを一瞥し顎で指す。
キン、と氷に落とされたナイフの鋭い音が言われるがままの彼の頭にこだました。
バスから降りようと、彼女が運転士の横を通りかかったとき、彼よりも暗く、冷えた声で話しかけた。
「せっかくの『能力』を酷使したね?こんだけの面積を一度に凍らせたんだろう?自分の身体にまで影響が出たんだろうね。手、震えてる。そんなんじゃ首も綺麗に斬れないよ」
もう一度笑い、歩きづらくなったバスを降りる彼女の少し小さな背中を、憎しみのこもった目で見つめる。
ナイフを拾い上げ、レイを荒々しく肩に担ぐ。
だいぶ心が乱れているのか、自然とレイの肩に爪がギリ、と
食い込んだ。
憎むことを嫌う彼は、余裕そうな顔を浮かべていた白衣の彼女だけを昔から憎んでいた。どこにもこの鉛のようなドロドロとした感情を吐き出せもせずに、無意識に彼の歯に力が入る。
カツカツとバスから降りると、数メートル離れたところに彼女は首にマフラーを巻き風に吹かれてじっとしている。
冷たくなったレイの身体は、静かに脈を打っていた。
◆
――懐かしくて、酷い夢を見た。
鉄格子の中で、足に重たい鉄球を付けられて、美味しいご飯をもらって。
割れ物を扱うかのような愛のような愛じゃないものが、ずっと僕にまとわりついていた。
そんな変な生活が、変だと気づいたときにはもう遅かったみたいで、逃げられなかった。
自分の見た目が嫌になったのはいつからだろうか。
金色の眼。
一筋だけ色が銀の入った黒髪。
……小さい頃には既にあった首の変なマーク。
「あなたはお母さんにとって特別な存在なのよ。No.0000」
違う。
そんな名前じゃない。
僕は……。
僕は。
?
◆
「…………っ!」
勢いよく飛び起きたレイの視界に入ったのは見慣れない壁……いや、見たことはあるだろう。この部屋の雰囲気に。
「…………ここ……」
頭の片隅にしまっておいた記憶が蘇る。
(――病院?)
しばらく、働かない頭を放置して、ボーッと彼が虚空を見つめていると、ふいに右の方からドアの開く音が聞こえ、無意識に肩が跳ねる鈴。
「~~♪っあれ、もう起きてたんだ~。おはようワン君」
口笛を小さく吹きながら入ってきたのは、白衣を着た、あの
女だった。
ニコニコと笑顔になる彼女にレイはまたも彼女が持つ色に目を引かれていた。
不思議そうに彼女が目をパチパチとさせながら、「どうしたの?」と聞いて、我に返る。
「あっ、えっと……」
何か、何か言わなくてはと焦る彼をよそ目に、ポス、ともう
一つ隣のベッドに座った彼女は、
「まーまー、焦らずに頭を整理してからね~」
と彼女なりの言葉で落ち着かせようとしていた。
「そうだ、なんなら私から話そう。良いだろう?ね?」
「あ、と、はい。」
うんうんじゃあそうしようねーとまた笑顔になる。
何から話そうと少し悩んだ素振りを見せたあと、そうだと自己紹介を始めた。
「自己紹介してなかったね。私は水国 シノ。見ての通りだけど一応医者だ。……君は?」
「神野……神野、鈴です。鈴って書いて、レイって読みます」
ほうほうほうと手元にあった書類にレイの名前を書き込んでいくシノ。どうやらカルテのようだ。
「あ、年は?」
「17ですけど……何か?」
「んーん。君のカルテをね」
なるほどと頷いた彼の顔をふと見上げた彼女はどこかで見たことがある顔だと思い、じっとそのまま見ていた。
「……君……いや、なんでもないや。ごめんねマジマジと見
ちゃって」
「いえいえ」
(まさかとは思うけど12年前の……流石にそれは……あり得なくもない話だけども)
シノは12年前の新聞の記事を思い出した。
トップ記事で、黒く四角の中に白ぬきされたような大きな見出しが目に留まったことを覚えていた。
――前代未聞 人体実験成功か―
「…………」
彼女が黙りこんでいると、三回、軽くドアをノックする音が聞こえる。「どうぞー」と、顔を上げた彼女は少し間の抜けた返事をドアの方に投げた。
「失礼します。シノ先生今日、は…………」
病室に入ってきた一人の少年が二人を見るなり硬直する。正確に言えば、レイにだ。
レイもまた彼を見て硬直していた。
彼の髪や眼の色がシノのように異質だから、という理由が大きいだろう。
「…………」
「…………」
見つめ合っているようにしか見えないシノはただ不思議な顔をするしかなかった。何となく二人の間の空間を手でヒラヒラと振って遮るも特に反応はない。
「おーい、二人ともー?何?意思疏通してんの?新しいコミュニケーションなの?ねぇ」
「――あっ、いえ、違います。おっ、俺ちょっと点検しに行ってきますね……」
ようやく彼女に気がついた彼はそそくさと病室をあとにした。
「今のは……」
「あぁ、私の…………ん?何て言ったら良いんだ?教え子?教え子でいいのか?んん?研修医?全然違うな……まぁそんな感じ」
「そ、そうですか」
あやふやな言葉で終わらせた彼女にレイは笑って相づちを入れるしかなかったようだ。
それよりも気になったのがあの少年の色だ。
暗い青髪に、水色なのに光の入っていないような眼をしていた。どちらも染めたりはしてなさそうな色に思えた。
「イヤ君、っていってね。人見知りの子だけどいいこだよ」
「そうなんですか」
仲良くなれるかな、と密かに思っていたレイはチラリと彼が出ていったドアを見つめる。
それを察したのか彼女はただ「仲良くしてあげてねー」と一言言っただけだった。
ふと、レイはベッドの隣の引き出しに鏡が置いてあるのに気づいて、自分の顔を覗く。
自分の顔の傷が無いことにさっと頬に触れる。そう、あのとき、割れたガラスが自分の顔を切っていたあの傷がどこにも無い。
(まさかまた……!)
何が起きたかは彼自身しか分からない。
そう思っていたレイはシノに視線を移すが彼女は「何?」という風に首を少し傾げるだけだ。
(…………よかった。バレて……ない、よね?)
「それじゃあ私は戻るから、何かあったら呼んでね~」
ベッドから立ち上がり、レイにそう伝えた彼女はドアの方に歩いていく。
が、数歩手前で彼女の足音は止んだ。
「――ところで、
君の傷の治りが早いのはなぜだろうね?」
安心しきったレイの心臓が、ドクンと大きく音を鳴らした。
嘘がバレた時って心臓の音めっちゃ聞こえません?
2016/12/2 改編