3話
【裕太:0歳】
(異世界転…かあ…)
暗鬱とした気持ちを抱えつつ、裕太は可愛らしいベビーボディーを丸めて女性の腕に抱かれていた。
裕太がこの世界で目を覚まし、既に1ヶ月。信じられない事態をようやく受け入れ始め、裕太はやっと冷静な思考を取り戻していた。
異世界転生。文字通り、異世界で新しい生として生まれ変わる事を意味している。
確かそう言う設定の小説がネットで多く出回っていた筈だ。裕太は余り興味がなかったので読んだ事はないが、光樹が楽しそうに語っているのを黙って聞いていたので概念だけは知っていた。
多くの場合は前世の記憶を持ち越しており、チートな力や才能を最大限に生かして異世界で富を築いたり、異性に囲まれてハーレムを形成するのだ。モンスター、ドラゴン、亜人族なんかも存在する、RPG要素の多いファンタジー世界が舞台設定に選ばれる事が多い。文明は中世ヨーロッパ辺りだろうか。殆どの場合は魔法が存在するので、電気などを使った機械の技術は余り発展していなかった筈だ。
光樹曰く、男のロマンが詰まっている、らしい。確かに絶大な力をして、強力な敵を屈服させ、美しい女性に群がられるのは男のロマンだと言っても過言ではない。裕太も少なからずそう言った事には惹かれない事もない。だって健全な男子高校生。頭の中は何時だってピンク色で染まっているものだ。
だが、妄想して気持ちを馳せるのと、こうして実際に経験するのとでは話が違う。
ああいう類いは妄想出来るからこそ楽しいのであって、実際に自分がなっても胸の内に渡来するのは困惑の二文字だけだろう。実際裕太は目を覚ましてからの1ヶ月、茫然自失と時間が過ぎるのを眺めていたのだ。余りにも泣かな過ぎた為、全く泣かない裕太に対して女性が青い顔をして心配する程だった。言葉も通じないのに心配されていると分かるくらいの女性の狼狽っぷりを見て、1ヶ月にしてようやく落ち着きを取り戻したのが、今現在の裕太の様子であった。
いつまでもぼおっとしていては埒があかない。それにそろそろ赤ちゃんっぽい演技をしないと女性が狼狽しすぎて死んでしまうかもしれない。名前も知らない女性だが、青い顔をして裕太を眺めるその姿を見るのが、裕太は何故か我慢出来なかったのだ。
今では適度に泣いて普通の赤ちゃんの演技をしている。まあ演技と言っても、身体が勝手に赤ちゃんらしい動きをしてくれるのでそれほど苦ではないが。
授乳に関しては、裕太は余り記憶に無い。どうやら裕太は寝ている時に無意識に泣いているらしく、その時におっぱいを飲む、という形で栄養を摂取しているらしい。これに関しては吉報だ。男子高校生、キスも未だ経験のない童貞様には、綺麗で美しい女性の胸をちゅっちゅ吸うのは少しばかり困難すぎる。
さて、そう言う訳で裕太は落ち着きを取り戻した訳だが、落ち着きを取り戻した分、今度は裕太は湧いては消える疑問の波に向き合うはめになった。
どうして転生なんかしてしまったのか。ここはどこなのか。自分は一体どういう環境のもと生まれたのか。親は誰なのか…etc。
数えきれない疑問の量は、裕太の抱える不安の量へと直結する。当たり前だ。唐突に死ぬことになってしまって唐突に転生、など凡人たる裕太の脳は既にキャパオーパーでオーバーヒートを起こしている。少女を助けた自分の判断に後悔はないが、転生してしまった事への結果については納得ができない、というか理解が出来ないでいた。
(というか、転生って最初に神様に事情を聞けたりするもんじゃなかったのかよ)
光樹から聞いた話では、主人公は死んだ後神様から事情を聞かされる事になるらしい。だが、実際は死んでそのままの転生だ。聞いていた話と全く違う。
(それに気になるのは、俺が普通に『転生』してきたのか、それともーーー)
ーーこの身体に本来宿っていた魂を追い出して、代わりに『転生』。つまり、『憑依転生』をしたのか。それも裕太が懸念すべき種の一つであろう。
もし『憑依転生』だった場合、裕太は結果的に人を1人殺し、そして自分が転生した、ということになるのだ。そうではないと切に願いたいが、確かめようが無い事も事実である。
確かめようもない事と言えば、何故転生なんてしてしまったのか、という疑問もそうだろう。裕太は死んだ後から目覚める以前の記憶は無いので幾ら考えても答えなどでないだろう。
神様があわれに思って転生させたのか。それとも世界に最初から定められた、道理にかなった転生なのか。仮説は幾らでも立てられるが、それらは仮説の域を決して出る事はない。
考えても無駄な事は考えない方が良い。どうしてもちらつくこれらの疑問を、裕太は無理矢理に頭から引きはがす。
(今は分からない事を考えるな。分かる事から先に考えていこう)
指針と表現するには余りにも曖昧だが、とりあえずの目標みたいなものは出来た。
そう、まずは。自分の事、そして世界の事について、情報を収集する。
それが、裕太の出した結論だった。
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あれから更に半年程過ぎ、赤ん坊生活もそろそろ慣れ始めた今日この頃。
寝返りやはいはいが出来る様になっても、裕太は相変わらず思考を巡らせていた。
裕太が赤ん坊になって半年の間で、裕太は3人の人間に出会っている。
一人目は、一番最初に出会った、子守唄を歌ってくれたあの女性だ。その女性は今でも裕太を大事そうに抱いて歌を歌っている。雰囲気的に言って母親だろうが、今は名前すら知らない、言っては悪いが他人である。幸せそうに微笑みを向けてくるその女性の姿を見ると、そう思ってしまう自分に微かではあるが罪悪感は感じざるを得ない。
そして二人目は、イケメンの男性である。きゅっと引き締まった長身は服の上から見ても鍛えていると分かるナイスガイだ。目は青色、髪は黒くオールバックにしている。甘いマスクと言うよりも、力強い野性的な顔つきをしている。裕太に対する態度から、裕太の今世の父親である可能性が高い。
三人目は、そばかすの印象的な中年の女性である。少し小太りで、目の色は黒く、黒と茶色の混ざった髪の毛を後ろで団子にしてまとめている。頭を飾る白くフリルのついたカチューシャに、こちらもフリルのついた白いエプロンドレスを着ている。所謂使用人の恰好だ。
母親(仮)と父親(仮)の身なりの良さと、そばかすの女性の恰好から推測して裕太は結構身分の良い家の下生まれたらしい。奴隷の子供となっていた可能性も充分にあった裕太にとって、とても運が良かった事だろう。生まれながらに奴隷という環境で生きるなど、清潔に生きる現代の日本人である裕太にはとてもじゃないが耐えきれる自身がない。
母親は何時も裕太の側にくっついて世話を焼いてくれるし、そばかすの女性はそれをサポートしている。父親は仕事で忙しいのか分からないが、朝と夜からしか顔を見せてくれない。
この時点で、大凡の人間関係は把握出来たと言っても過言ではなかった。
「ーーーー、ーーーーーー」
「ーーーーー」
だが、依然として会話の内容は聞き取れる事はない。
それも当たり前で、幾ら赤ん坊の柔らかい頭があろうとも、半年の間で一つの言語を覚える事なぞ出来る筈もない。単語と単語の区切りや文と文の区切りなんかは分かるようになってきたが、単語一つも覚える事は出来ない。未だ会話による情報収集は不可能でいた。
ただ、分かった事もある。
まず、裕太の今世の名前である。母親や父親は、裕太に何かを話しかける時、必ずと言っていい程『マリア』という単語を口にする。イントネーションや言葉の響きからして、多分それが裕太、否、子供に付けた名前なのだろう。
裕太は死んだ。ならば、これからは男性と女性の、新しい命として生きていかなければならない。そろそろ裕太という名前は捨て、マリアとして生きていく覚悟も必要だろう。
だが、それにしたってマリアはちょっと女々しすぎる。どうせ付けられるのならもっと男らしい名前の方が良かった、と心の隅っこで愚痴を言ったのは、裕太だけの秘密である。
それから、はいはいが出来る様になって活動範囲が広まってから、この家の事、そして、現在の技術力についても詳細に分かる様になってきた。
まず、裕太の住む家についてだ。家は3階建て、庭は小さい公園程の敷地がある。大きいが、それほど豪華という訳ではない、そんな家だ。一階はキッチン、風呂場、トイレ、リビングルームになっている。二階は殆ど行った事がないのでまだ分からない。そして、裕太がいる部屋は三階にある。三階は母親と父親の自室や、書斎になっているらしい。
窓の外から眺める景色は、牧歌的な集落の風景だった。レンガ造りの家がいくつか立ち並び、奥には小麦畑がこれでもかと言う程広がっている。街というより村と表現した方が適切であろうか。時折、鍬やスコップなどの農作業用の道具を担いだ男達が、畑に向かって歩いているのを見る。
「ーーーー」
「うー?」
窓から顔を覗かせていた裕太は、母親に優しく抱きかかえてベビーベッドへと連れ戻された。どうやら窓には余り近づいて欲しく無かったらしい。ちょっと語尾を強くされて説教をされる。
その後、何か泣いてしまったのは裕太の軽い黒歴史である。子供の爆発する感情って恐ろしい。そう裕太は改めて思った。
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【裕太:1歳】
さらに一年程経った。裕太は1人で立つ、歩く、などの簡単な動作が行える様になり、それに伴い、会話の意味が分かり、簡単にだが喋る事も出来る様になっていた。
「まりあー。おいで、おいでー」
野性的なフェイスがだるんだるんに崩れ、鼻の下を伸ばしながら手を叩く父親の元へ、マリアはたどたどしく歩いていく。
(よっ、ほっ…は)
よたよたと足を一歩ずつ前へと出す。最初の内は2、3歩でこけていたが、今では9・10mほどまでに距離を伸ばしていた。
てとてとと歩いていって、裕太は何とか父親の元へ辿り着く事が出来た。
「おお、偉い!偉いぞマリア!」
辿り着いたマリアを、父親は持ち上げて頬ずりする。男にそんな事をされて嬉しがるような趣味は生憎と裕太は持ち合わせていないが、何故か父親と触れ合う事に関しては嫌な気分はしない。寧ろ構ってもらってとても嬉しく感じる。
それは、裕太が子供で彼が父親だからなのか。それとも子供だからまだそう言う気持ちがないのか。多分、前者だろうな、とは思う。
だけど、頬ずりされると髭が擦れてしょりしょりしてて痛いから止めて欲しい。
「あなた。お髭でマリアが痛がっていますよ」
「なにっ。す、すまなかったマリア。大丈夫か、痛く無いか?」
「うー」
明らかに顔が青くなった父親に、にこやかに返事をする。すると父親は感極まったようにマリアを抱き、そして抱っこして持ち上げた。
「マリアは、マリアは優しいなあ!世界一優しいぞ、きっと!」
「ふふふ。マリアはきっと美人さんに育ってくれますよ」
有頂天になる父親に、静かに首を頷かせる母親。
実は、裕太はこの時点で、母親とそばかすの女性の名前しか知らずにいた。
母親の名前はリリアで、そばかすの女性はクリチナだ。リリアの方は父親がそう呼ぶのを何度か聞いてやっと分かった事で、クリチナはリリアが『クリチナー』と呼んだら必ずやってくるのでそう判断した。
だが、父親の名前はまだ知らない。リリアは父親の事を『あなた』と呼ぶし、クリチナは『旦那様』と呼ぶ。名前で呼ばずに二人称で呼ぶのだ。一時期はその二人称が名前なのかと勘違いしていたが、違和感を覚えて、名前ではないと勘づいた。
そんな、実はまだ名前すら知られていない父親は、マリアを大事そうに再度頬ずりした後、リリアにマリアを渡す。
時刻は朝。そろそろ父親は外に出る時間帯だった。
「それじゃ、リリア。マリア。行ってくる」
「行ってらっしゃい、あなた。頑張ってきてくださいね」
会話が分かる様になってから、裕太は出来るだけ母親の言葉を一字一句逃さず聞く様にしている。流石赤ん坊の脳は柔らかいのか、からからに乾いたスポンジの様に言葉を、知識を飲み込んでいってくれる。一回聞いた言葉は大抵忘れる事はないのだ。
そんな風に、日々会話を聞いていて、父親が普段どんな仕事をしているのかも既に把握している。
父親は元は騎士の出で、過去の功績の褒美としてこの村へと移り住んできたらしい。村に着たのは5年程前で、今では領主の仕事と自警団の団長の仕事の両方を兼任しているのだという。
流石はベビーボディーと言った所か。中学生から高校生にかけての大凡5年間ですら英語を覚えきれなかった裕太にしてみれば、ある意味驚きの言語習得力である。
「それじゃ、マリア。絵本を読んであげましょう」
「えほんー?」
リリアに連れられ、ベッドに座らされる。
最近、リリアから絵本を読み聞かせされる事が増えてきた。それが純粋にマリアを楽しませようとしているのか、それとも発育に必要だと考えての事なのかは分からないが、どちらにしろ裕太にとってもこの時間は貴重だ。
文字や言葉は早めに覚えておいた方が良い。知識は無くて困る事はあっても、あって困る事はないのだから。
「それじゃあ、今日は『ゴブリンとおんなのこ』を読むわね」
「はーい」
本を持ってきたリリアに、膝に移されてそう告げられる。裕太は元気よく手を挙げて応えた。
「ふふ。じゃあ、読むわよ…『むかーし、むかーし、あるところに…』」
『ゴブリンとおんなのこ』。簡単な文字でしか書かれていない、子供用の絵本だ。
内容はゴブリンというモンスターと、女の子の友情を描いたものらしい。
ゴブリンは本来、モンスターと言う種類にカテゴライズされている事からも、人間に対して害を生む存在だ。絵本に出てきたゴブリンはそれとは真逆に、人間になるのが夢だったらしい。女の子は純真無垢な心でゴブリンに接したが、他の大人達はそれをよしとしなかったし、仲間からも反発をくらう。それ以来そのゴブリンはすっかり落ち込んで暗くなってしまった。毎日毎日遠くから少女の笑顔を眺める毎日。そんな生活がどんどんと過ぎ去っていく中、何と唐突に他のゴブリン達が少女の家を急襲した。ゴブリン達は家の家具を壊し、めちゃくちゃにしてしまう。人間になりたかったゴブリンは、自分の友達である女の子の家を同族が荒らしているのをみて、すぐに駆けつけた。そして人間達を、同族達から決死に守ったのだ。
それから、そのゴブリンは人間達に良いゴブリンだと認められ、女の子の近くにいる事を許されたのであった。ちなみに、他のゴブリン達が何故家を急襲したかと言うと、余りのそのゴブリンの落ち込み様に情が動かされたのだと言う。
なんと言うか、『泣いた赤鬼』にどことなく似た絵本だった。
この世界での文字、いや、もしくはこの地域の文字だろうか、は文字の形態が2種類に分かれている。一つ目は構成が簡単な母音を司る文字とそれを元に派生した子音の文字だ。日本語で言う所のひらがなに近い。二つ目は、構成が難しい、それ一つで意味が幾つもある文字だ。こちらは簡単、日本語で言う漢字と全く同じだ。文章は、この二つの文字を組み合わせて構成されている。
イントネーションについては英語に近いが、文章の構成については完全に日本語の文章の形態で、主語・目的語・動詞の順で並んでいる。英語の単語を使って日本語を話す、という感覚と言えば分かるだろうか。単語についてはこれから地道に覚えていかないと仕方無いが、文法が日本語に近くて本当に助かったと感じる。変に異なっていれば、覚えるのに障害になるだろうからだ。
それにしても、モンスターか。裕太はリリアに次の本をせがみつつ心の中で呟く。
絵本には、他にも気になる単語が幾つか登場した。
まず、魔法。そしてドラゴンであったり、妖精であったり、勇者であったり。獣人族やエルフが出てくる絵本もあった。様々な種類の絵本があったが、一貫して言えるのは、どれも元の世界での本のジャンル『ファンタジー系』に分類されるような物語ばかりであったことだろうか。
これらから考察するに、この世界にはモンスターがいる。魔法が存在する。ドラゴンや、妖精、亜人族が存在する。この3つが結論として言えるだろう。
(うーん…何と言うか、典型的な異世界だなぁ)
FMOの世界に少し似ているかもしれない。そんな感想を心の中で呟く。
「『そして、勇者はドラゴンの全身を聖なる剣で貫き、倒したのでした。世界は平和になり、勇者は魔法使いと結婚して、末永く幸せな日々を送ったのでした…めでたしめでたし』」
最後に勇者のドラゴンを大分酷い方法で殺すまでの道のりを簡略して子供用にしたような絵本『光の勇者の伝説』で締めくくると、リリアは既に7冊も重ねた絵本の山の上にもう一冊追加して、ふう、と息を吐き出した。流石に連続で8冊も読みつづけるのは辛かったらしい。
だが、絵本による文字習得と語彙習得は重要なのだ。申し訳ないとは思うが、成長するのが赤ちゃんの特権である。ありがたく甘え続けさせていただこう。
絵本を読んで、遊んで、リリアに甘えて。そんな風に、裕太の異世界生活は緩やかに進んでいった。