1話
香坂裕太の朝の慣習と言えば、それはジョギングだ。
朝起きて、顔洗ってストレッチして、着替えて、それから玄関を飛び出す。後は飛び出した勢いのまま、街を走り回る。
特定のルートは決まっていない。生まれてから高校生になるまでの17年間、ずっと同じ街で育って来た裕太にとっては、どの道も目を瞑ったままでも歩く事が出来る程度には慣れ親しんでいる。裕太は毎日走るルートを気分によって変えている。どんな道でも全て網羅している裕太はまず迷う事はない。
住宅街を通り抜け、交差点を抜け、大きな公園まで速度を保ち続けて走る。生来、特別運動が得意と言う訳ではないが、同時に出来ない訳でも無い裕太は、小学生低学年の頃からずっとこの慣習を続けている御陰か、運動神経は他の人間よりかは幾分優れていた。それでもやはり才能という二文字の壁は大きくそびえ立つが、そもそも運動が好きで好きでたまらない訳ではない裕太にとっては運動は出来ても出来なくてもどうでも良い事だ。
(あ、犬…猫もいる)
朝の清々しいぴしりと張った空気を頬に感じながら、裕太は横目で相変わらずの街の景色を眺める。時折犬を連れて散歩をしている人と挨拶を交わしたり、猫と視線を交わしつつ走り続ける。
(何時まで経っても全く変わらない街だよな、ここって。まあ、それが良いんだが)
基本的にのんびりマイペースを保っていたい性格である裕太は、小学生の頃から一つも変わらないこの街には少なからず好感を持っている。急かしく進む都会の雰囲気と比べたら、田舎であるが長閑で牧歌的な雰囲気に包まれたこの街の方が何倍もマシだ。
さて、朝だからと言う割りに、裕太の額には数滴ほどの汗がにじみ始めている。それも当たり前で、先日終業式を終えて、今日から夏休みに突入したこの時期、朝の幾分かはひんやりとした空気はそれでも運動すれば汗ばむ程度には暖かかった。
天気も晴天で清々しい。雲一つない青空は天高く澄み渡り、裕太はそれを見上げて気持ち良さそうに目を細めた。一つ間違えればまた寝てしまいそうな、そんな暖かな日差しに包まれる中、自然の緑を適度に取り込んで設計されている公園の舗装を走るのはとても心地いい。
「今日は公園を選んで正解だったな」
思わず独り言ちする裕太は、汗はかきつつも息もペースも乱さずに走り続ける。公園では、裕太と同じ様に朝のジョギングやウォーキングをしていたおじさんやおばさん達が朝の挨拶を交わしていたり、子供達がラジオ体操の曲に合わせてぐねぐねと身体を曲げていたりしていた。そんな風景も、裕太が生まれて17年間、ずっと見てきた光景だ。
静かな気持ちで風を切る。そろそろ息も切れ始めた。
予定していたルートの丁度半分辺りの距離を裕太が走りきり、公園の道が終わり再度交差点が見えてきた頃、朝の静かな空気を破壊するかのような着信音が公園に鳴り響いた。
「って、俺かよ」
朝っぱらから雰囲気ぶち壊しだなと一瞬怪訝に思って、すぐにそれが自分のポケットに入れておいた携帯から鳴ったものだと気付いた裕太は、隠れる様に道の端に移動して携帯に耳を当てた。
『よ、相棒!今日も清々しい一日が始まりそうだな!いい晴れ空だ!はっはっは!』
瞬間、つんざく挨拶に耳を貫かれた。
「そんな清々しい一日が朝一で壊された俺に謝れこの野郎」
雰囲気大事、自分の時間守るべしの裕太にとって、この悪友の携帯越しでもやかましい挨拶の割り込みは、裕太の心を萎えさせるには充分過ぎた。
『何訳分かんない事言ってんだ?こんな曇り一つない青空の日の朝に、そんな挨拶はねえってもんだぜ?』
「悪かったよ。おはよう、光樹」
『よっす、相棒!』
改めて挨拶をし、元気のいい声をお返しに耳に受ける裕太。その頬は軽く引くついている。『朝なのに男にモーニングコールとは悪趣味だな、彼女は作らないのか』という言葉が口につこうとしたので、咄嗟に隠す。
電話の主は裕太の幼馴染みであり悪友でもある、神崎光樹である。またの名を『変態王』、座右の銘は『女の子は全員俺のもの』。実際は彼女いない暦=年齢の寂しいただの馬鹿であるが、そこを悪く言えば同じ身分に身をやつしている裕太にもブーメランが返ってきかねない。なので、こう言ううざったい場面でもそう言った返しは出来ないのが裕太と光樹の妙に安定した親友関係を形作っているのだった。
多分、どちらか一方に彼女が出来れば一瞬で破綻する。そんな関係だった。裕太はその事を充分に理解していた。ああ、何とも悲しい関係であろうか。
ちなみに光樹は裕太の事を、親しみを込めて『相棒』と呼ぶ。あだ名の様なものだ。
「で?何の用だよ、こんな朝っぱらから」
ジョギングを一旦中断して、近くにあったベンチに腰掛けて足を組み尋ねる。
『何の用って、おいおい、忘れたのかよ、相棒。今日はFMOで一狩り行くって約束だっただろ?』
と、電話の向こうでは若干楽しそうな声色で言う光樹。
「あー、そういやそんな約束してたっけなー…」
対して、裕太の反応は芳しく無い。実際今の今まで忘れていた事だった。
『おいおい、親友との約束を普通忘れるかぁ?俺は悲しいぞ、裕太!』
「うるせい。大体、FMOなら他のパーティー友達がいるんだから、そっちと遊べば良いって何度も言ってるだろ?」
『ばっかやろう!お前がいないと何も始まんねえだろうが!』
こっちにまで唾が飛びそうな勢いで光樹が言う。裕太は軽く携帯を耳から離しつつ、小さくため息を吐いた。
『お前、忘れたのかよ…!FMOを初めて買って、二人同時で初めてVRの世界へ降り立ったあの時の感動を!モンスターを倒した時のあの興奮を!』
「いや、そりゃまあ確かに、最初は楽しかったけど…」
『じゃあどうして、最近FMOにめっきり来なくなっちまったんだよ!パーティーの皆、寂しがってんだぜぃ!?』
「あー…うーん…なんと言いますか…」
FMO。公式の名前を『ファンタジー・マジック・オンライン』。略してFMO。
10年前程からぽつぽつと出始めていた新たなゲームジャンル、VRゲーム。一目見れば近未来的で楽しそうなジャンルではあるが、最初はとにかく酷いものだった。フィールドは小さい、リアリティーは無い、操作性も爽快感も無い。加えて専用ハードウェアは場所をとる程デカい。加えてVRゲームなのにグラフィックが90年代もののポリゴン風のものしか無いとくれば、その哀れな程の不人気っぷりは納得の行く結果であっただろう。
そんな、VRゲームの発展に暗雲が立ちこめ始めていた4年前。ふっと現れたのが、専用機と同時に販売されたファンタジー・マジック・オンラインであった。発売されて、一気にVRゲームというジャンルごとその名を世界中に知らしめるに至った、古いゲームでありながら現在も人気No.1にランキングされる最も有名で最も大規模なVRMMORPGの代表格である。
当時発売されていた従来のVRゲームとは比べ物にならない程のグラフィック、設定、ゲーム性、そして何よりも自由度。その時までテニスコート程だった活動可能範囲が、当時の時点で島一つ分。今では拡張が成されて、日本の領土分の範囲となっている。グラフィックも設定も自由度も、発売されて4年経った今でも尚進化し続けており、その上限は未だ見られない。FMOの発売に引火されたかの様に似たようなVRMMORPGが多く発売されたにもかかわらず、その地位を不動のものとし続けるFMOは、日本だけでなく、世界中から愛され続けている大人気のVRゲームなのだ。
勿論、その頃中学生だった裕太も、FMOに魅了された人々の内の一人だった。魔法、剣などが扱えると自ら謳うFMOに光樹とともにすぐさま興味を抱き、発売日に二人で協力してVR専用の機体とカセットを入手、サービスが始まった瞬間に二人同時でその世界へとダイブした。
FMOの世界には、まさしく夢が詰まっていた。
剣、魔法、その他様々な要素。その全てが幼い裕太と光樹の少年心をくすぐり、育み、冒険へと駆り立てた。元来よりゲームを愛して止まない光樹は特にその入れ込み様は顕著で、中学3年生の頃は光樹の将来を思って、普段温厚で自由主義な光樹の親がFMOを強く禁止した程だった。
朝学校へ行き、夕方は家へ帰って、すぐにFMOの世界へ。それから夜中までずっと冒険して、を繰り返す毎日は、裕太と光樹の中学校時代を確かに彩っていた。中では可愛い女の子達とも出会えるし、何よりもコントローラー無しで、自分たちの足で冒険出来る。まさしく、FMOの世界にはロマンが詰まっていた。
そんな生活を続ける事4年。裕太と光樹が高校へ入学し、2度目の夏休みが訪れた頃。
はっきり言って、裕太は熱が冷めていた。有り体に言うとFMOに飽きていた。
それも当たり前で、今では裕太と光樹はとあるパーティーを立ち上げ最強にまで上り詰め、その名をFMOの世界に轟かせる程の実力者にまで育ちきっていた。裕太は剣士、光樹は弓使いで、レベルは既にカンストしており、スキルもほぼとれるものはとったし、体験出来る事はした。もう既に、裕太にとってFMOの世界は惰性に過ごすしか出来無い場所だった。
高校生になった裕太は割とやりたい事は多かった。バイトもそうだし、勉強もしたい。部活には一応美術部部員なので、その活動にも参加したい。将来の事を考える時間だって欲しいし、実は彼女だって本気で作りたいと思っている。だらだらFMOの世界で惰性に過ごすくらいなら、現実世界でバイトに明け暮れた方がマシだと思う様になってしまっていたのだ。
その旨を光樹に話すと、光樹は泣きながら裕太を引き止めた。光樹にとっては裕太は『相棒』であり、FMOの世界を共に駆け抜けた戦友でもある。そんな裕太がFMOから離れる事を一番に案じたのが光樹だったのだ。
そんな光樹に涙ながらに訴えられて、裕太はついつい、夏休みに入ったらちょくちょくFMOに顔を出す、という約束を取り付けられてしまったのだった。
どう取り繕ってもやはり親友には甘い裕太だった。
だが、そんな約束をしても尚、裕太の反応は良く無い。寧ろ悪い方向に傾いていってしまっている。
『何だよ何だよ相棒!俺たちの仲は、結局はそんな程度だったっていうのかよ!』
そう感じた光樹は、また電話越しに声を荒げた。少し震えていて、ちょっと涙目になっている事を伺わせる声色だった。
「待て待て!行かないとは言ってないだろ!」
そんな光樹の雰囲気を察して、慌てて弁明する裕太。
『何っ!?本当か!?本当に来てくれるのか!?』
「ああ、行く。行く行く!」
『ありがとおおおおお!相棒はやっぱり最高の親友だぜええええ!』
号泣とはこの事か、という程電話越しで泣き叫ぶ光樹。この愛すべき馬鹿を何故裕太が憎めないでいられるか、その理由は光樹の素直に、真っすぐに感情を表してくるこの態度にあるのだろう。本人同士は自覚無しだが。
「はあ…ったく、仕方ねえな。何なら朝一から顔出してやるから、とりあえず涙吹け馬鹿野郎」
『おうっ!恩に着るぜ、相棒!』
一体どこの辺りに感謝しているのか裕太には分からなかったが、とりあえず笑って返す。
『じゃあ、朝の8時に中央広場に集合な!』
「おう!って、あ?」
元気よく電話越しに頷いた、丁度その時だった。
裕太は、運良く、いや、運悪く、一人の少女の不審な挙動を見つけてしまった。
少女は、先ほど公園の広場で朝のラジオ体操をしていた小学生の集団のうちの1人のようだった。ピンクを基調にした、いかにも小学生らしい可愛らしい服装をしている。背丈や雰囲気からして、3、4年生ほどと見た目から推測出来た。
そんな少女が、今まさに、赤信号の横断歩道へと無防備に走り出していた。
思わず立ち上がり、携帯はそのままに駆け出す裕太。
『?ーーおい、どうしたってんだ、あいぼーーー』
「おい、そこの君っ!」
裕太が大きく叫び呼び止める。朝に似合わない荒げた声が張りつめていた空気を乱暴に叩き付け、ラジオ体操で付き添いで来た数人の大人達が何事かと声の発生源へ振り向いた。
怪訝な顔がちらちらと視界の端でちらついて、裕太は何を悠長な!と力一杯に地面を蹴った。
「へっーーーー?」
裕太に呼び止められて振り返る少女は、次の瞬間、唖然と背筋を凍らせた。
一台のトラックが、猛烈な速さで一直線で少女へと迫っていたのだ。
「ーーーーっ!?」
一瞬裕太へとやった視線をすぐにトラックへと移し、そのまま口を開けて凍り付く少女。
トラックは依然として速度を落とす気配はなく、ただただ冷たい鉄の凶器と化して、無情に少女へと迫り来る。
そんな二者を目の前にして、裕太は全力で駆けた。何故速度を落とさないだとか、なぜ道路へと駆け出ただとか、疑問が湧いては消えてを繰り返し、これから起こりえる残虐な光景を伴って脳を切り裂く。頼んでもいないのに頭が勝手にこんがらがる。
だが、そんな混乱する裕太とは関係なく、身体は一歩、また一歩と前へと進みでる。
口を開いてぽかんとする児童達を追い抜いて。
叫ぶ直前で固まる大人達も追い抜いて。
阻む様に隔てるガードレールを飛び越えて。
そして、裕太は一切の躊躇も無く、ただ運へと任せて少女を対向車線へと強く突き飛ばした。
「きゃっーーー」
少女は嘘みたいにボールの様に吹っ飛び、軽い放射線を描いて宙を飛ぶ。やけにゆっくりした速度で落下し、そのままトラックの車線から飛び出て不格好にお尻から着地した。
(対向車線は確か車の通行量は少ない筈だ。特に朝は)
自身に迫り来るトラックから目を逸らし、ただ気にするのは、少女の安否だけ。
ーーーどうやら、向こうの車線を走る車は一つもないらしい。少女は車に引かれずに済むだろう。
酷い勢いで突き飛ばしたからもしかしたら怪我をしているかもしれないが、命があるだけ儲け物だと思って我慢して欲しい。
だが、少女の安全は最低限確保出来た。
そう確認出来たとき、ここまでの何の考えもない無謀な行動を忘れ、裕太はただただ安心し、心中で胸を撫で下ろしていた。
(良かった。この娘はどうやら無事にーーーー)
ーーーー次の瞬間、背後でタイヤが地面を削る音が大きく響き渡った。途端に後ろから、圧倒的な圧迫感を感じて、五臓六腑がきゅっと締まる。
(そういや、トラックがすぐそこまで来てるんだっけ?)
背後で鳴るトラックの唸り声に、背筋が凍る。一瞬顔を覗かせた安心感は既に消え去り、代わりに膨大な程の恐怖心が裕太の頭を支配する。
だが、心ない鉄の塊は、ただただ容赦無く。
「あーーー」
ーーーー振り返る刹那も与えず、裕太を背後から勢い良く撥ね飛ばした。
堅いものと堅いものとが激しくぶつかり合う音が頭蓋骨に直接に響き、一瞬ノイズが響き、裕太の視界はブラックアウトした。
『おいっ!おいっ、相棒!!一体何があったんだ!』
やかましい悪友の声を目覚ましに、裕太はゆっくりと目を開けた。
(…あれ?俺、どうなったんだ…?)
まるで一日中、いや、一週間、眠り続けたような感覚がする。
死にそうな程の倦怠感の中、裕太は目覚めた。どうやらまだあの交差点にいるようだ。
(何が起こって…?)
身体に力が入らない。何の感覚もしない。だが、今はそんな事はどうでも良い。
少女はどうなった。無謀にも助けようとして、全力で突き飛ばしてしまった少女の行方は。
ゆっくりと何とか首を曲げて、少女の姿を探す。すると、かなり離れた方で、ピンク色の服を着た小さな人影が泣きわめいているのが見えた。
その手には、ラジオ体操をした時に貰える判子用のカードを、震える手で握っていた。
(良かった…無事だったのか…)
『おいっ、おい相棒!返事をしろ!おいっ!』
少女の無事な姿を確認して心底安心する裕太の頭を殴りつけるかの様に、携帯の向こうで怒鳴り散らす光樹。咄嗟に返事を返そうとして、裕太は掠れたうめき声を吐き出した。
(あ、れ…?声が…思う様に出ない…?)
『相棒!?どうした、何があったんだよ!?なあ、相棒!?』
「あ…う…」
声が出ない。身体も動かない。感覚がない。
そんな事実を目の前に、裕太はただただ何の感情もなく、自分の身体に視線をやった。
血が、溢れている。
裕太の腹は無惨にも割け内蔵をアスファルトへとぶちまけ、そこから血を溢れ出している。足はひん曲がり、腕はあらぬ方向へと折れてしまっている。真っ白い骨が飛び出て顔を覗かせている部位もあった。既に裕太は、見るも無惨に挽肉にされていた。
自分の一部がどんどんと出て行ってしまう喪失感と共に、血の池が、ゆっくりと広がっていく。
裕太はその瞬間理解した。
(…ああ、俺、死ぬのか)
これが、自分の『死』なのだと。これで終わるのだと。
(猛速度のトラックに撥ねられた。出てる血の量からしても、もう助からない)
血がどんどんと出て行き冷めていく頭で、冷静にそう考える。
『なあ、返事してくれよ、相棒!裕太!ゆうーーー』
涙声で叫び続ける光樹の声が頭の中で乱反射を繰り返し、心地よく脳を揺する。それに必死で応えようと裕太は口を開くが、ぱくぱくと金魚の様に唇が開くだけで声は出ない。
(…わるい、こうき…。もう、だめっぽいわ…)
どんどん光樹の声が遠くなっていく。視界もそれに伴い暗くなっていく。
足りない血が脳の活動を許さない。次第に思考もぼんやりしていって、裕太はまるでゆりかごに包まれて眠る様な感覚に襲われた。
これが『死』か。裕太は特に何の根拠もなくそう理解した。
『死』は母親の羊水の様に裕太を優しく包みこみ、そしてゆっくりと考える力を裕太から奪い取っていく。底の無い水の中へと沈んでいくような感覚に裕太は抵抗もなく身を任せーーーー
ーーーーそして、裕太は死んだ。消えて居なくなった、筈だった。
もし、風が吹かなければ。少女のラジオ体操の判子カードは飛ばされる事はなかっただろう。
もし、判子カードが道路に出なければ、少女は飛び出さなかっただろう。
もし、夏のこの季節の朝が穏やかな気候に包まれていなければ、トラックの運転手は眠らずに済んだだろう。
もし、裕太がこの時間、ジョギングなんてしなければ。
もし、裕太がこのルートを選んでいなければ。
もし、裕太が光樹の電話で足止めを食らわなければ。
もし、裕太が少女を見つけられなければ。
もし、裕太に少女を助けるまでの運動神経がなければ。
裕太は、死ななかっただろう。
その日、1人の少年が亡くなった。1人の少女を助ける為に、代わりにトラックに引かれて死んだのだ。
少女は風に煽られて飛んでいったラジオ体操用の判子カードを無我夢中で追いかけて、道路へと飛び出してしまったらしい。
トラックの運転手は、夜も寝ずに運転していた事もあり、陽気で長閑な街の風景と気候にすっかり油断し、一瞬の間だが気を失う様に眠ってしまったのだと言う。
付き添いの教師や地元の大人達は雑談に夢中になっていて、少女の不審な行動に気付くのに遅れてしまった。
不幸が幾つも折り重なってその事故は起き、少年は死んだ。少女を救おうと果敢に行動し、そして死んだのだ。
少年、香坂裕太の人生はそこで終わった。終わった筈だった。死に、そして裕太という存在は消えた筈だった。
だが、裕太の死は、新たな生の始まりでもあった。
そう、裕太の本当の物語は、これから始まるのだーーーーーー。