読殺、あるいは永遠の幸せ
※この物語はメタフィクションです。
作中に登場する「あなた」は、今この文章を読んでいるあなたと大いに関係があります。
※「読殺」はそのまま「どくさつ」とお読みください。
作者の造語です。
まず最初に、あなたはこの小説が二人称で書かれていることを承知しなければならない。
これは、虚構と現実が渾然一体となった世界。現実のあなたは、否が応でも虚構の世界に身を投じなければならないのだ……。
――そこは、狭いが小綺麗な病室だった。
窓際のベッドに横たわるのは、まだ二十歳そこそこの若い女。その脇には、淡いグレーのスーツを着た同年代の男が座っている。
病室には、このふたりの他に誰もいない。
いや、敢えて挙げるならもうひとり。姿なき傍観者――すなわち、あなたがいることになるだろう。
「恵美」
男は女の名前を呼ぶと、懐から小さな箱を取り出した。目の前でそっと蓋を開ける。女は、箱の中で燦然と輝く指輪を見て、目を大きく見開いた。
「孝志さん、これ……」
「恵美、俺と結婚してくれ」
男は恥ずかしそうに女の顔を見つめ、緊張した声でプロポーズの言葉を紡いだ。
それは、どこにでも転がっていそうな、なんの変哲もない恋の物語。
だが、あなたは知っている。この女が難病に冒され、すでに余命幾ばくもないことを。哀れな死を描いて感動を押し売りする映画のように、あなたはそれを陳腐な設定だと感じたはずだ。
「でも孝志さん、私はあと三ヶ月で……」
「それだけあれば問題ない。結婚式に新婚旅行、子作り以外のことなら大抵できるさ」
男は冗談めかして言ったが、その表情は深い憂いを帯びていた。
「バカね、無理しちゃって」
「否定はしないよ。だから、そんなバカと結婚してくれないか?」
弱々しい笑みを浮かべ、男は再度プロポーズの答えを求めた。
すると女は感極まったのか、小刻みに身体を震わせ始めた。その頬を一筋の涙が伝い落ちる。
「はい。ふつつか者ですが、よろしく……お願いします」
女はベッドの端に三つ指をつくと、嗚咽しながらそう答えた。
いずれふたりには別れのときが来るだろう。だがこの時点では、最高の幸せを共有していた。そんなふたりの想いを、あなたも感じ取ることができたのではないだろうか。
ふたりは互いの手を握り、黙って見つめ合っていた。
「…………」
そのとき、ふと男が背後を振り返った。白い壁の片隅を一瞥する。そこにはあなたの視点があり、男の鋭い眼差しが、一瞬だけあなたの視線と絡み合った。
「どうしたの孝志さん?」
男の不穏な気配を察して、女がベッドの上でゆっくり上体を起こした。
「いや、なんでもないよ」
男は向き直って答えると、女の華奢な身体を優しく抱きしめた。女が、喜びとも悲しみともつかぬ複雑な表情を浮かべる。
「嬉しいけど、やっぱり怖いかも。だってこの幸せが続くのも、あと三ヶ月だけ――」
「大丈夫、恵美は何も心配する必要はない。俺たちの幸せは永遠に続くんだ!」
女の言葉を途中で遮り、男は確信に満ちた声で言い放った。
窓辺に射し込む赤い西日が、抱き合うふたりを柔らかく照らしていた。
「完」
……これで完結?
あなたはそう思ったが、長い改行のあとに続きがあったので、取り敢えず読み進めることにした。
物語の時間は進んでおり、すでに三ヶ月が経過していた。
シーンも、病室からどこかの墓地に移っている。あなたの視点の先には、墓前で腰を落としている男の姿があった。両手を合わせて、聞き取れないほどの小声でしきりにブツブツ言っている。唇以外は石像のように動かない。
あなたが痺れを切らす頃になって、男はようやく腰を上げた。ゆっくり振り返り、斜め上空を見上げる。そこにはあなたの視点があり、病室と同様、再び視線が絡み合った。だが今度は一瞥ではない。憎しみに煮えたぎる男の眼光が、一直線にあなたを貫いた。
男は、あなたを指さして叫んだ。
「あんたが悪いんだ!」
湧き上がる想いに滂沱の涙を流しながら、男は更に声を荒らげて続けた。
「あのとき、俺は確かに『完』と言った。なのにあんたは読むのをやめようとしなかった。あそこで読み終えていれば、俺たちの時間は止まり、永遠の幸せが得られたはずだった。……分かるか? あんたが読み進めたから恵美の病気は進行したんだ。あんたが恵美を殺したんだ!」
男はあなたを糾弾すると、力なくその場にくずおれた。
読者をワルモノ扱いするとは酷い小説だ。作者に浴びせる罵倒の言葉を考えながら、しかし心優しいあなたは、ふたりの幸せを願ってこう思ったことだろう。
冒頭に戻って再読し、今度こそ「完」で読み終えようと……