人魚のために話すひとつのお話
海とは――すべてのはじまりの母であり――子宮であり――星をおおいつくす命である――。ならば、人魚とは母に愛され、母の庇護下におかれるべくして成った者なのだろう。人魚の歌がうまいのは毎晩母の子守唄を聞いていたお陰であり、人魚の鱗が美しいのは母が丹念に磨きあげたからなのであろう。
母に愛されている人魚はそれ故に海を支配できうる存在であった。母の声を聞き母の愛を受けることができる人魚は正に王と呼ぶに相応しかった。――しかし、海を離れられぬ人魚は陸を知らぬ。所詮母の人形のように大切に宝箱のなかに閉じ込められている。
ある日、おろかな一匹の人魚は知恵を得てしまった。そして陸に興味を持ってしまった。明くる日も、明くる日も陸にこがれた。貝と真珠であしらわれた寝台に乗っても気が晴れるわけなどなかった。深海から覗き見える水面の先の光に、空に、恋をしてしまったのだ。
母にばれぬように人魚は水面の先のことを集めて行く。仔犬と呼ばれる動物のこと、シナモンがかおる砂糖で煮立てられた紅玉からできるアップルパイというもののこと、人魚は海草と海に漂う小さな生き物しか口にいれたことはなかったので、いつもいつも空想の中で想像し続けていた。
生まれてから何度目のおはようをむかえると、とうとう人魚は水面の先に手を伸ばしてしまった。星と月に手を伸ばし、海面から顔を覗かせてしまった。――それから、その人魚は苦しくて、苦しくてたまらなくなり、数秒とたたないうちに海のなかにかおをしずめた。何故って、人魚には肺などなかったからだ。
一瞬とらえた海面の上の景色は恋い焦がれたものよりもどこか陳腐で、キラキラ光って見えた光などは遠すぎて手さえも届かなかった。空想は瓦解し想像は崩壊し、人魚の恋は慣れた海の塩辛さに混じって消えていった。――そして、母はそんな人魚を見て安堵した。
ずいぶん昔のことだ、母の約束に背いた人魚がもう一匹いた。その人魚は陸を生涯とする者に恋をして泡となって消えてしまったのだ。母は人魚に失望すらしたが、矢張、可愛い我が子が恋をした陸の者と花冠をつけて笑い会う姿を見ていたら、人魚の幸せをただ祈ってしまった。それは人魚が笑顔でいたからこその話である。
――だが、人魚は海にとけ泡となり、浮上し、はじけ、跡形もなく消えた。だから、母は海面上の世界に焦がれる人魚が現れてしまったときには、我が子を自分の手にかけてしまおうと決意していた。結果は今の通りで、それもなくなり、母は狂気をしまい我が子を慰めることとした。――愛し子よ泣かないで、唄ってあげましょう、と。
それからその人魚は母の愛に包まれ差し込む光にキスをしながら歌を唄い続けている。陸と空にはもうこがれることもないのだろう。
『人魚のために話すひとつのお話』おしまい
途中の人魚は言わずもがなの人魚姫でした、ちなみにこの主となる人魚の性別は特に決まっていません