隠された芽
彼の知る世界は、音だけだった。
一番良く聞こえるのは水音。
こぽ……こぽ……ぼこっ……こぽ……
沸騰するときのように、水の中の空気が上へ動いている音だ。
どくん……どくん……
定期的に聞こえるのは自分の鼓動。
まだ生まれていない彼だったが、彼は自分が『男』に分類することを知っていた。それでいて性器はなく、子孫の残せない個体であることも。
かちゃかちゃとガラスがぶつかり、こすれる音がするのは近くに人間が居るからで、耳をもっとよく澄ませると、衣擦れや足音も聞き取れる。
……静かだった。
音はあふれているけれど、どこか静けさの広がる世界。彼は羊水の中でまどろみながら、この穏やかさがずっと続くと思っていた。
聞き耳を立て始めてから、幾日経った頃だろう。
「リヒト、いる~?」
これまで耳にしたことのないような高い声が、刺激物となって届いた。まだ目を開いたことはない彼は、いろいろな知識は詰め込まれていた。どこか遠く感じる、未だ我が物にできていない知識から、それは女の子の声だとあたりをつけた。
「シャル、ここへは来ないように言ってなかったかい」
それに応えたのは、男とも女ともつかない中性的な、しっとりと落ち着いた声色。
「シャルロットよ。レディの名前を勝手に略さないでよね。……入っちゃダメなのはわかっているわよ。でも、もうすぐ終わるんでしょ。ならいいじゃない」
やさしくたしなめられた方は、女児特有の甲高い声で訂正をいれると、自侭に結論付けた。
「シャル……」
声だけで、途方に暮れたような困惑が窺える。
少女はまったく悪びれず、ぱたぱた軽い足取りで部屋を歩き回っているようだ。
「あら、今回は人型なのね、珍しい。羽根付きとはまた、一目で擬体とわかりそうなものを……」
「一目でわかれば無粋な認可を額につける必要ないだろう」
擬体、とは、擬態をもじった、人の手で作られたイキモノ。人の形をしたものは政府が発行する認可証を額につけなければならない。
即座に知識から引っ張り出してみたけれど、それがどういうものなのか、彼にはわからない。まだ、生まれていないから。目を、開けたこともないから。
「羽根は白なのね。天使なんて出尽くしているけど、黒と組み合わせるとは、ひねくれものよねぇ。……飛べるの?」
その間にも、少女たちの声は続く。
『話し声』が聞こえたのは、初めてのことなので、彼は聞き耳を立てて、注意深く一音一音拾っていく。けれど音を拾うだけで精一杯で、推察・思考するにはまだ経験が足りなかった。
「飛べるよ。君も欲しいかい? 付けてあげようか」
「いらない。この子が持っているから、わたしには必要ないわね」
迷いなく言い切られて、その人は沈黙した。
「……もしかして既に自分のものにする気でいる?」
「え、違うの?」
恐る恐るという風に訊ねると、無邪気に聞き返されてしまった。
「……」
二人の間に初めて、長い長い沈黙が降り注いだ。こぽこぽという水音だけが、空虚に響き渡る。
「いや、いいけどね。代金は君のおじい様につければいいし」
「そそ、出資者がいるんだから細かいことは気にしない!」
その人がどこか虚ろに呟けば、少女は励ますように言う。自分が原因なのに。
ごくごく小さな溜息が、耳をそばだてる彼の元に届いた。
「名前はもう付けたの?」
「いや、まだだよ」
「じゃあ、これはわたしのものだから、わたしが名付けるわ。いいでしょ?」
一応質問の形をとっているけれど、それは彼女の中で決定事項だろう。
「はいはい、我らが女王様」
答える声も、どこか投げやりだった。
「そうね……名前は……」
「そろそろ起こすよ」
柔和でありながら凛とした声が、少女の呟きに重なった。
殻が、開かれる。彼を包んでいた羊水が流れ出す。
彼は――刺激を受けて、目を開けようとする。それによって初めて話題になっていたのが自分のことだとわかった。
「そう……名前は――シン」
光が、飛び込んできた。
淡い光にすら痛みを感じ、瞬くと目から水があふれた。
そうして揺れる視界に映し出されたのは、大きな蒼紫色の瞳を輝かせ、手を差し伸べる小さな少女。
「はじめまして、シン。わたしがあんたの主よ。わたしのことはレディとお呼びなさい!」
目覚めてはじめて見る世界は、夜明けの気配をつれていた。
シンに与えられた衣服は、彼の髪や瞳と同じ、黒。それはあつらえたように、彼に似合っていた。
しかしながら、実はリヒトのお古だということはすぐに判明する。リヒトもまた黒一色をまとい、違いといえばリヒトはずるずると裾を引きずるローヴを着ている事と、首元まできっちり止めていることだ。お陰で露出が極端に少ない。シンは着崩したように前見頃を開けているので、幸いにも、二人の印象はがらりと違った。
シンには、生まれる前からある程度の情報・知識が詰め込まれているが、製作者であるリヒトの情報は、シンの中になかった。
声だけで性別を判断できないリヒトは、見た目まで性別不詳だった。
地に付きそうなほどの長い金髪、薄い青色の瞳はやさしげで、顔立ちも端整だ。身長がほとんどシンと変わらないので、シンは一応、男性であると判断した。
「あ、シン、コレをつけてね。首元が寂しいでしょう。他に色彩もないしね」
シャルロットが、着替えを終えたシンに、深紅のチョーカーを差し出した。ベルトのように見えるそれは、まるで首輪のようだ。
シンは黙って彼女を見下ろした。
十二歳ほどの少女の頭が、彼のウエストの辺りにある。紫がかったピンク色の巻き毛は綺麗に整えられ、零れ落ちそうなくらい大きな瞳が、強い意志を映して輝いている。
ただ突っ立っているシンに、彼女は痺れを切らしたか、シンの羽根を思い切り引っ張った。
「――っ!」
「ほら、屈んで。手が届かないでしょう」
無理やり膝を付かせると、さっさとチョーカーを付けてしまう。
「うん、いい感じ」
痛覚がしっかりある羽根を引っ張られ、非難をこめてシンが顔をしかめていたが、彼女は一人悦に入っている。
「ねぇ、リヒト。この羽根ってしまえる?」
「いや、無理だよ。認可証の代わりだと言ったろう」
「建前はね。あんたが普通のものを作るなんて、誰も思っていないから安心して」
リヒトは肩をすくめて、諦めたように白状する。
「はいはい、術をかけてあるからね。しまえますよ」
「じゃあ、しまって」
シャルロットの命令に、シンは一瞬ためらったが、結局言われた通りにした。どういう原理か、たたまれた羽根が背中に吸い込まれるように消えた。
「じゃ、そっち座って。これからいくつか、テストするから」
見届けてから、椅子に座るよう促した。彼女はまるで、この家の主であるかのように振舞う。シンは再び、一瞬考え込むように停止してから、命令に従った。
リヒトは苦笑しながら、黙って二人の様子を見ていた。
テストの内容はシンの知識を試すものだった。
主に一般常識というもの。挨拶に始まって、家具の使い方、買い物の仕方などなど、日常を送るのに必要なものに重きを置いての問答が繰り返される。
シャルロットの質問に、シンが簡潔に答えていく。
「ふぅん、流石ね。問題点はほとんどないわ。強いて言えば、社会的交流面ね。『会話』に慣れていない感じ。当たり前だけど。……後は実地かしら」
独り言のように呟いたシャルロットに、今まで一切口出ししなかったリヒトが声をかけた。
「それはいいけど、今日はもうダメだよ。君、寄宿舎に戻らないと、外泊手続きまではしていないんだろう?」
「……そうね。寮につれて帰れないのが残念だわ」
本当に残念そうに、帰り支度を始める。と言っても、使用した道具を片付けただけだが。シンはなんとなく、そんな彼女の動きを目で追った。
「また明日来るわ」
「待ってるよ」
漆黒の瞳は静かに彼女を見ていた。
「じゃあね」
どこか硬質で頑なな雰囲気に、密かに溜息をついた少女は手を振ってその場を後にした。
「お、出てきたぞ」
森の中に紛れるようにある、古い砦から現れた一人の少女を双眼鏡で確認したサコバは、目標から目をそらさずに、手探りで相棒の肩をたたいた。
「どれどれ……お、兄ぃ、チャンスですぜ。今行きましょか?」
肩をたたかれて、半分眠りかけていたターレが慌てて双眼鏡を覗き込んだ。
ターレの呼びかけこそ『兄』だが、二人の男の体型も、色彩もかけ離れていた。『兄』とはあだ名で、形式上のことだと知れる。
「魔術技師の結界内でか? 無理無理。それに、見てみろ。護衛が来たぜ」
砦から離れた場所で待機していた護衛の数名が、少女に合流した。
「っくー! 残念!」
「ま、じっくり『条件』がそろうまで待たせてもらうさ。こちとらいつだって忍耐が勝負だ」
「それを違う方向に生かせれば、まともな職にありつけそーなもんですがねぇ」
はっはっは、と空笑いするターレのどてっ腹に、サコバの肘鉄がめり込んだ。
「おめーは一言も二言もよけーなんだよっ」
サコバは自分たちの背後にひっそりと立っている男を意識しながら、拳を握り締めた。
「マイザーの旦那、あの子で間違いないんだな?」
殊更ゆっくり振り向くと、マイザーと呼ばれた男は腕を組んだまま黙している。
サコバは小さく舌打ちした。
(何を気取ってやがる、こん畜生ッ)
苛立ちながら、強気に言う。
「期限は特にないんだろう。俺たちのやり方でやらせてもらうぜ」
「……ああ」
今度は返答があった。
低く、地の底から這い上がってくるような、不吉な響きだった。
サコバが今日はもう無理だと告げると、マイザーは気配を感じさせない足取りでいなくなった。
「うひぃ、薄気味悪い野郎だぜ」
完全に居なくなってから、ターレが鳥肌の立つ腕をさすりながらぼやいた。
「中継ぎがでしゃばりやがって!」
一方サコバは自分が恐れを抱いたことを打ち消すかのように憤った。
依頼は、マイザーの主人が持ってきた。
それが誰なのかはわからないが、依頼には、作戦にマイザーも加わることが条件に加えられていた。
それは単なる見張りか、それとも……。
「………裏がありそうだな。ちょいと調べてみるか」
呟いて。彼らもひとまず、その場を後にした。
少女の姿がなくなると、部屋にはしばらく沈黙が続いた。どちらも用件もないのに自分から喋るような性格ではなかった。
シンは所在無げに、物の位置を変えては戻しているリヒトを見上げた。
「寮、とは?」
シンが初めて自分から口を開いたことに、リヒトは瞠目することで驚きを表現した。どこかわざとらしい、演技だった。
「彼女は全寮制のお嬢様学校に通っているんだ。小さい頃に母親を亡くしてね、彼女を持て余した父親が、そこへ放り込んだのさ。……だったら親権も放棄してしまえばいいのに」
穏やかな口調に、どこか皮肉るような気配を滲ませる。リヒトがシャルロットの父親を、快く思っていないことが伝わってくる。
「おじいさま、とやらは?」
「……聞いていたのか」
何を、とは。シンが生まれ出る直前の会話のことだろう。
シンは素直に首肯した。
「そうか。……まぁ、いくら祖父でも、それだけのことで親権を取り上げることはできないのさ。それよりも……どうして、彼女とは話さなかったんだい?」
リヒトが首を傾げると、真っ直ぐな金髪がさらりと動いた。光の滝のように流れる髪に、シンは少しだけ目を細める。
シャルロットに意見を求められても、彼は何一つ答えなかった。そのたびに、怒れる子猫が騒いだが、頑として述べなかった。
「彼女は君が気に入ったようだよ。君は、どうなんだい?」
全てシャルロットに任せるようで、決して手出ししなかったリヒトに、シンは逆に問いを返した。
「何故、従わなければならない」
心が、あるのに。自分の意志が、あるというのに。
シンは指示されなければ何もできない自動人形とは違う。擬体とは、イキモノだ。
擬似的に与えられた生命だけれども、その能力は原型よりも優れている。
シンは人型だ。人より優れたものとして作られているのに、何故人ごとき――それも、子どもに、従わなければならないのか。
疑問ではない、反発を前に、リヒトは嘆くように天を仰いだ。
「やれやれ、余計なところでぼくに似すぎたな」
台詞とともに、溜息がこぼれた。今度は演技でなく、本当に参っているようだ。リヒトは机にひじを突いて、面白そうにシンを見つめた。
「ある意味、理想だね。自分の意志で判断し、動く擬体はね。世間に出回っているのは……人型に関して言えば、紛い物だ。だって、意志なんてあったら邪魔でしょうがない。支配できないと困るからね。それに――人は、自分たちより優れているものを排除したがるから。特に自分が生み出したものが自分を上回っているというのは、プライドが傷つくそうだよ」
「おまえは違うのか」
嘲笑を滲ませた長広舌が途切れたところで、淡々とした声が割り込む。
「君、なかなか鋭いこと言うね。でもぼくを、そんな者達と一緒にしないでもらいたいな」
一瞬だけのぞかせた剣呑さは、しかし、彼が「これはぼくの希望なんだけどね」と付け加えたときには払拭されていた。刃物を首筋に押し当てられたような感覚に硬直し、青ざめているシンに、リヒトは陽だまりのようにやわらかい笑みを浮かべた。
「君は覚えているはずだ。時間はタップリとあるのだから、考えてみるといい。ぼくが彼女を『女王』と呼んだ――その理由を」
別に彼女の身分が女王というわけではない。
戸惑う瞳を向けられても、リヒトは答えず、はぐらかすように話を変えた。
「そうそう、君の部屋は二階の奥だから。物を適当に除けて、後は好きにしていいよ」
そう言って、彼は地下の研究室へと戻っていった。
次の日の午後、小さな嵐が到来した。
本を読んでいるシンの背後に忍び寄り、背中に思い切り飛びついた。
「――っぐ」
「シャルロット様、再び登場! やっほーシン。よく眠れてる? 早速だけど出かけるわよ。準備して」
自分の膝頭に頭をぶつけそうになったシンは、無言でシャルロットを睨み付けた。
「何読んでるの……って『擬体統計学』ぅ? ま、自分に興味を持つのはいいけど、自分にだけ、っていうところはまだ子どもね」
見た目も行動もまだ子どものシャルロットには言われたくない。そもそも生まれたばかりなのだから、他に興味を持ったところでそこまで手が回らないのが実情であり――
「ほら、何をしているの、早く支度しなさいってば」
女王様はどこまでもマイペースだった。
ぱたんと音を立てて本を閉ざしたシンは、軽やかな足取りで階段を降りる彼女の後についていく。
「じゃあリヒト、行って来るから」
「はい、行ってらっしゃい。遅くならないようにね」
リヒトは何か作業をしながら、片手間に二人を送り出した。
玄関を出たシャルロットは、すぐに歩き出したりしなかった。
「シン、わたしを抱えて飛べる? 邪魔だから護衛をまくわ」
できるかと問われればそれは可能だ。
ここでもし嫌だと言ったらどうなるだろう。深く考えるまでもなく、この少女は自分が納得できるまで理由を問いただすか、何が何でもシンにそうさせるまで弾丸のように喋り通す――。結果が目に見えすぎていて、シンはその背に羽根を広げた。
真っ白くて大きな、力強い翼を。
「何だ、ありゃ? 擬体か?」
今日も今日とて遠くから少女の尾行を続けていた男たち。
シンの背中に、それまでなかった羽根が広がる。翼を広げた青年は、少女を抱きかかえて羽ばたくと、風が彼らを空へと運んでいった。
羽根そのものに、魔術がかけられている。
こんなもの見るのは初めてだった。
人型の擬体で天使を模しているものがあっても、それは飛べないのが普通だ。擬体に魔術は使えない――それが常識であるはずだ。
二人は呆気にとられていたが、サコバは一足先に我に返った。
「チャンスだ、相棒! 上手くすれば『条件付け』ぴったりだ!」
あちらから勝手に厄介な護衛を引き離してくれる。
「護衛の連中よりも先に、あの子を見つけるぞ!」
「おお! やったな、兄ぃ!」
サコバとアーレは乗ってきたバイクを懸命に走らせた。
遠目からは白い鳥に見える彼らは、街に向かってぐんぐん遠ざかっていく。
見失わないように頭上と見上げながら、事故らないよう必死に爆走した。
人に見られないよう建物の陰でシンに羽根を収納させると、シャルロットは何食わぬ顔で路地を歩き出した。
「買い物するわよ。とりあえずはあんたの服ね。他に欲しいものがあったら言いなさい」
財布を握っている、富豪の孫娘が、青年の姿をしたシンにそのようなことを言うと、シンがまるっきり紐――もしくはペット扱いだった。
「それから、シン。考えていることは片っ端から口に出して。あんたが全然喋らないから、そうでもしないと会話の練習にならないのよねー」
意見を訊いてもだんまりだし。と、相手の無反応振りにちょっとめげそうになっていた少女がその言葉を飲み下す。
はぐれないように手を繋いで歩いていると、きっと兄妹のように見えるのだろう。容姿に似たところはないけれど、近所のお兄ちゃんと一緒にお買い物に来たのだろうか、みたいな周囲の眼差しを感じた。
それが少し不愉快で、くすぐったい。
石畳の路地。点在する街灯。古めかしい街並み。
シャルロットはショーウィンドウを覗き込んでは、あれが似合いそうだ、だの、これは自分に欲しいな、とか、しきりに話しかけた。
相槌すらまともに返ってこなかったが、相手は人形ではない。時々意見を求めては、やっぱり無反応で、「だから考えたことは喋りなさいよ、それとも何も考えてないの!?」と、ぷんぷん怒ることもしばしばだったが、彼女は彼女なりに、風変わりな連れとのショッピングを楽しんでいた。
服を買ってからは、目的もなく、ウィンドウショッピングを楽しんだ。荷物は邪魔になるから、全部送り届けてもらうことにしたので、やっぱり手を繋いだまま、彼に色々なものを見せてやろうともくろんでいた。
不意に、シンが立ち止まった。
シャルロットが一方的に振り回すことはあっても、シンが反応を見せるのは珍しい。少女は青年の視線を辿って、軽く蒼紫色の目を見張った。
「あら、猫だわ」
子どもたちがぶちの猫と戯れている。シンが見ているのが子どもか猫かはわからない。
人馴れした猫は甘えるように喉を鳴らして、うっとりと子どもたちに撫でられていた。
「……あんたの名前はね、昔、家に居た黒猫からとったの」
それを口にするつもりはなかったけれど、気が付けば言葉がこぼれていた。
過去を懐かしみながら語り始めた少女は、常の気の強さが鳴りを潜め、どこか頼りなく、小さかった。
「黒猫って、不吉だという迷信があってね……だからかな。シンは誇り高かった。人に媚びない、いい猫だったの」
それは普通可愛くないと言われるものだけど。でも、いい猫だったことに変わりない。
「嫌われものの黒猫で、生き抜くのも厳しかった。栄養状態が悪かったせいか、ナリは小さかった。だけど、餌をやっても絶対受け取らないの。自分がとったものしか口にしない。たまにふらりと家に来ては、何をするでもなく去っていく。気まぐれで、奔放で……王様だった」
その猫の名前をつけられたほうは、初めて心動かされたように、握っていた手に力を込めた。
シャルロットは、シンを見上げて儚く笑った。
「わたしもそうありたいと願ったの。あんたもそうあってほしいと思ってる。そうあることは、とても辛いけど。そのために犠牲にしてしまうものは、必ずあるんだけれど………でも……っ」
でも、の続きは。言葉にできなかった。
突然、後ろから羽交い絞めにされかかった。直前に気配を察して身をよじったが、強い力で腕を掴まれてしまう。
「何よ、あんたらッ!」
視線を走らせるとさっきまでいた子どもがいない。夕方という時間帯のためか、人通りが絶えている。
そう、その一瞬の隙を突いての襲撃。
彼らは三人の男たちに拘束されようとしていた。
シンは、抵抗しなかった。二人がかりで飛び掛られ、頑丈な鎖で拘束される。
シャルロットは彼の無抵抗を、何が起きているのかわからないから、或いはどうすればいいのかわからないからだと受け取った。
「何やってるの、逃げなさいよ!」
金切り声で叫ぶと、男は慌てて口を塞ごうとしたから、その前にすかさず叫ぶ。
「ちょっと、その子は生まれたばかりなのよ! 傷つけないでよッ」
男たちの目的がどちらか知らないが、もし自分のほうだったら、邪魔なシンは壊される可能性がある。鎖を使用したことで、シンが擬体だとばれているようなので、壊されてしまうことを未然に防ぐために、わざと御しやすい、価値ある擬体だと印象付ける。
「へぇ、そりゃあいいや。高く売れそうだな。よし、傷はつけるなよ」
布を押し込んでシャルロットの口を塞いだ男が指示すると、車の荷台に押し込んで手錠もかける。擬体は力も人間より強いことが多いから、用心してしすぎることはない。
シャルロットを縄でぐるぐる巻きにして転がすと、車が発進した。
(どこへ運ぶつもりかしら……)
誘拐犯たちの目的は、どうやらシャルロットのようだ。さるぐつわを噛まされてしまったので、少し息が苦しい。
護衛をまいたのは軽率だったか。
でも、あんな無粋な連中に邪魔されたくなかった。
それでなくとも四六時中見張られているようで気分が悪かったのだ。学校に居るときは学友と名乗る連中やら教師やらが居るし、心休まるのは、リヒトのところに居るときだけだった。リヒトは、気にしないから。自分が気にされたくないから、シャルロットが誰であっても、気にしない。
シンに何もいえないのが辛い。
どうして彼は逃げてくれないのだろう。逃げて、助けを呼んでくれてもいいのに。
雁字搦めに拘束されている彼は、淡々としている。表情はまったく変化なし。
シャルロットは、溜息を吐けるものなら吐きたかった。
することもないので走行距離を頭の中で計算していると、車が止まった。道の状態からして、街を出ている。
「到着~。お姫様方、こちらへどうぞ」
どこか馬鹿にしたように、男が言った。
むっと眉をひそめる。叶うものなら罵詈雑言を撒き散らしてやりたい。
目隠しをされ、荷物のように運ばれる。
その目隠しとさるぐつわがはずされたのは、建物の中でだった。
「ぷはっ! ちょっと、どういうつもりなのよっ!?」
せいぜい、子どもを装ってやるつもりだった。彼らが侮りやすいように、何もわからないふりをする。
「――決まってるだろ、身代金を取るんだよ。お姫様のおじい様から、な」
「……」
そんなことはわかっていた。聞きたいことはそれじゃない。シャルロットはもどかしさに歯噛みしながら、誘拐犯を睨み付けた。シンに逃げるよう命令したいが、一対三では勝ち目がない。
「相棒。世話は任せたぞ」
「あいよ、兄ぃ!」
痩せたのが、太っちょに話しかける。やはりこの男が主犯格のようだ。だけど次の瞬間、迷った。
「旦那はどうする?」
「……ここに、いよう」
低すぎる声色に、ざわっと悪寒が走る。気持ちが悪くなった。
痩せた男が隣の部屋に消えても、少女は苦虫を噛み潰したように顔をゆがめたままだった。
旦那、という呼びかけは微妙だった。加えて、これでは一対二だ。シンを逃がせられない。
誘拐犯は、名を呼び合い、素性をばらすようなへまはしない。
それなりに狡猾であるということは、顔を見られたからといって殺しはしないだろう。
人が居なくなれば、ましてそれが死体になれば、警邏の追求が厳しくなるだけだ。生かしたまま返して、口をつぐまざるを得ないようにすれば、上手くすると、また今度も金をせびることができる。
その方が、やり方としては賢い。
「そろそろお腹すいただろう。夕飯の時間だからね~」
ほよよん、と、話しかけられ、シャルロットは情に訴えかけられそうだと思った。ただし、この『旦那』が居ないときに。
食事はあらかじめ用意してあったのか、すぐにいいにおいがしてきて、皿が運ばれてきた。
メニューは缶詰をいくつかと暖かいスープだった。
スプーンとフォークはついているけれど、縄に拘束されているので手が出せない。男がスプーンにスープをすくって飲ませようとするが、拗ねるように顔を背けた。
「自分で食べられるわよ」
「うーん……」
男は迷ったようだ。そこへ陰気な男が一言。
「縄は、解くな」
「……そうだね。食べさせてあげるよ」
それで結局、赤ん坊のように食べさせてもらうことになってしまった。
(余計なことを)
舌打ちしたいのを堪え、忌々しげに呻いた。
太っちょは根気よく、シャルロットが満足するまで、食事を運んでくれた。
その後で自分も食事をすると、兄ぃ、と声をかけた。
眠そうな顔で現れた男が食事をしながら、今度はおまえが休め、と言った。
見張りも交代で行うらしい。
太っちょが別の部屋に行った。
この相手はやりにくそうだが、寝ぼけ眼の、今がチャンスだ。
ぶち、と縄を切り、残骸を『旦那』に向けて投げつけると、『兄』に殴りかかった。
――バキィッ!
目算が、狂った。いや、男が上手く逃げたのだ。
男の代わりに椅子が大破した。
「うぎゃああっ! バケモノッ!」
「こんな可愛らしいレディに向かって失礼ねッ! 作り物なのは入れ物だけで脳みそは自前よっ」
言いながら、襲ってきた『旦那』の攻撃をかわして距離をとる。
「――でも、あんたは知っていたみたいね」
見張りに残った彼は、初めから。彼女も、警戒していた。
「いいや、……中身が自前とまでは知らなかった」
その言葉で、シャルロットはピンと来た。
「そう、あの人は言わなかったのね、そうよね。その方が、都合がいいものね。……でも、中身が違ったらそれはもう『別の人間』だもの、生き返らせても意味ないってわかってる?」
「それは思い至らなかったな。人の子の親は――おまえの場合は祖父だが、愛するもののためなら盲目になれるのだろう?」
嘲笑しながら、男はシャルロットに襲い掛かる。少女は軽い身のこなしで避けると、寂しげに呟いた。
「どうかしら? おじい様は、能力のない子どもには非情になれるから。お父様も……あの人も懲りないわね。こういうことをするから跡継ぎになれなかったってこと、どうしてわからないのかしら」
「それは少し違うな……今までは自分もそう思っていたが、中身がそなた自身ならば――不老不死に取り付かれた人間の、妬みだ」
視界の端で、騒ぎを聞きつけて現れた太っちょが、おろおろしていた。相棒のところへ床を這うように進んだ痩せっぽちが、突然声を張り上げた。
「旦那! 依頼はなしだ! 契約違反はそっちだからな」
「――何故」
攻撃を繰り返しながら短く問う。
「あんた、この子を殺すつもりだったろう。――あんたの背後を調べさせてもらったぜ。俺らは、殺しはやらねぇ。その手助けもだッ」
言うと、二人組みが部屋から消えた。
一方、シャルロットは焦っていた。
リーチが違うから、少女の攻撃はなかなか当たらない。自分のほうが断然不利なのだ。
「ぼさっとしてないで逃げなさい、シン!」
シンは既に鎖の拘束を自力で解いていた。だけど、動かない。
「レディは、猫のシンのように生きろと言った。命令するのは、矛盾している」
レディと呼べと言ったのは、ただの与太。それを律儀の守るシン。彼がシャルロットのことを呼んだのは初めてだったがそれは瑣末なことだろう。
必死に逃げ回り、舌をかみそうになりながら少女の姿をした擬体は叫ぶ。
「あんたはわたしのものだから、あんたのことはわたしが全ての責任を負っているの!! あんたは逃げなきゃダメなのッ! わたしも子どもだけど、あんただってまだ子どもよ。知識だけはあってもね。保護者が必要でしょ! そしてわたしが保護者なのよっ」
シャルロットはひたすら逃げた。
シンだけが場違いに、凛と立っていた。
「……だから、か」
ひとりごちると、彼は自身を絡めとっていた鎖を、男に投げつけた。
「!!」
予想外の攻撃に、逃れるいとまなく。それは男に巻きつき、動きを止める。
すかさず、シャルロットが当て身を食らわせた。
「あんた……擬体ね」
床に崩れ落ちた男を見下ろして、呆然と呟いた。
擬体の動きについていけるのは擬体だけ。特殊な訓練をした人間ならば可能かもしれないから疑念だったけれど、今ので確信に変わった。
「何でお父様に従っているのかしらないけど、仕える人間は選んだほうがいいわよ」
人の所有物となることが義務付けられ、選択の余地のない擬体に、そんなコトを言う。
「最後のアレは感謝するけどね……どうして逃げないのよ」
腰に手を当てた少女は、シンを見上げて頬を膨らませ、ぷんすか怒った。
「レディを置いて逃げるのは、ダメなんだろう? 常識、というやつで」
「そうだけど……シン、あんたどうしたの?」
シンが、まともに話している。
少女は吃驚しすぎて、その後の言葉を紡げないでいる。
「オレを守ると、言ってくれたから。オレもレディを守ると決めた」
保護者であるということは、そういうことだ。
リヒトからの謎かけを解くために、シンは逃げずにシャルロットを試した。あえて危険を冒した収穫は大きかった。
大きな瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。少女は大いに戸惑いながら、やがて、困り果てたように手を差し出した。
「………………とりあえず、帰ろっか」
「お帰り、遅かったねぇ」
手を繋いで帰ってきた二人に、のんびりと声をかけたリヒトは、観察対象を面白そうに眺めた。
「わたし、もう寝るわ。あ、ちゃんと外泊許可はとってあるからね」
「はいはい。おやすみ~」
「うん。おやすみ、リヒト、シン」
自室と定めた二階の客間に向かいながら手を振る。
「……おやすみ、レディ」
最後にシンの挨拶を耳にして、少女は年相応の、晴れやかな笑顔となった。
実に興味深い。
リヒトは、一足先に届けられた荷物を開けているシンに、微笑んだ。
「その様子だと、答えは見つかったようだね」
青年は答えない。
だけど彼は見つけたのだ。
妬み、恐れながら、何故、人は人型を作るのか。
彼らが欲するのは、不完全で人間に劣る道具か、はるかな高みにいる完全な人間――超越者か。どちらにしろ『対等』はありえない。そもそも人同士でも、『対等』はめったにありえないのだから、完全に種の違う人と擬体とでは、輪をかけて無理だ。
それでも、彼女は自分自身を治める『王』で、擬体たちを理解しようと歩み寄り、愛してくれる、擬体たちの『王』でもあるのだ。
シンは、記憶の中にあるリヒトの『女王』という呼びかけに、投げやりだけれど揶揄ではない、意外に真摯な響きがあったことを思い出して、微かに唇の端を持ち上げた。
リヒトもまた、彼女のそういうところに惹かれている――擬体なのだ。
いや、人間かもしれないが、リヒトはシンと同じイキモノだ。誰かの下につくことをよしとしない。けれども……彼女だけ、例外。
自分たちは快く、彼女に負けるのだ。
今はまだ埋もれているけれど、世界は遅かれ早かれ、彼女の資質に気づく。
荷物を検分しながらシンは、女王様に心酔する下僕たちが、これからも着々と増えるであろう予感を抱いた。
2003年8月31日くらいに発行した同人誌より。手元に本がないので正確な日付はわからないですが……。
友人との合同誌で、お互いが描いたキャラクターを交換して、お話を作るという企画でした。(外見だけで性格付けは各自で行っていました)