第一話 子宮が痛い男
午後四時十二分。
麻酔科医の三枝悠真は、今日こそ何事もなく帰れると思っていた。
その考えが甘かったことを、彼は五分後に知ることになる。
「三枝先生、救急外来から呼ばれてます」
手術室の前室で記録を閉じた瞬間、看護師の小宮が言った。
三枝は顔を上げた。
「僕ですか?」
「はい」
「麻酔科ですよ?」
「知ってます」
「救急外来ですよね?」
「そうです」
「じゃあ、何かの間違いでは?」
「三枝先生ご指名です」
三枝は黙った。
緊急手術。気道管理。鎮静。
そのあたりならわかる。
少なくとも、このあと予定していた計画よりは、ずっと現実的だ。
ああ、新作プリンが遠ざかっていく。
「患者さん、どんな状態です?」
小宮が一秒だけ目をそらした。
嫌な予感がした。
「六十五歳男性。腹痛で救急搬送。意識清明、会話可能」
「それで?」
「『子宮が痛い』って言ってます」
三枝は記録端末を机に置いた。
「誰が?」
「患者さんが」
「六十五歳男性が?」
「はい」
「子宮が痛い?」
「はい」
「……なんで僕?」
「救急の田島先生が、
『こういうときは麻酔科の三枝を呼べ』って」
「田島先生、僕を何だと思ってるんですか」
「便利な若手」
「医者ですらないじゃないですか」
小宮が笑いをこらえながら肩をすくめる。
「婦人科の先生も一回来たそうです」
「来たんですか?」
「患者さん見て三秒くらい黙ったあと、『これはうちではない』って」
「でしょうね」
「でも患者さんは『子宮が痛い』って」
「強いな」
三枝は白衣を羽織った。
「行ってきます」
「ご武運を」
「戦場なんですか?」
「いま、子宮の所在について揉めてます」
「揉める余地あります?」
「患者さん側に強い主張があるみたいです」
三枝は天井を見た。
人生には、行きたくない場所というものがある。
歯医者。
税務署。
親戚の集まり。
そして今日、新たにひとつ加わった。
六十五歳男性と医療スタッフが子宮の所在について揉めている救急外来。
*
救急外来は夕方特有のざわつきに包まれていた。
田島医師は三枝を見るなり、露骨に安心した顔をした。
「来たか」
「なんで僕なんですか」
「若いから」
「理由になってません」
「柔軟な発想ができそうだから」
「困ったときに使う言葉ですよね、それ」
「まあ見ろ」
田島がカーテンを開ける。
ベッドには、体格のいい六十歳ほどの男性が座っていた。
白髪交じりの短髪。作業着姿。
片手を腹の中央よりやや下に当てている。
三枝は椅子を引いた。
「こんにちは。麻酔科の三枝です」
男性は三枝を見た。
「子宮が痛い」
「……そうですか」
第一声からこれか。
だが、相手は患者だ。
笑ってはいけない。否定から入ってもいけない。
「どのあたりが痛みますか。お腹の上ですか、下ですか?」
「子宮」
「右寄りですか、左寄りですか?」
「子宮」
三枝は一度口を閉じた。
なるほど。
会話はできる。
できるのだが、成立しない。
「お名前は?」
「河原昭夫」
「年齢は?」
「六十五」
「今日は何日かわかります?」
「二十三日」
「惜しいですね。二十五日です」
「じゃあ二十五日」
「修正が軽いな」
横で田島がつぶやいた。
三枝は無視した。
「どこで痛くなりました?」
「駅前」
「何をしていたときです?」
「子宮が痛くなった」
「そこを一回離れましょう」
「子宮から?」
「会話からです」
河原は不満そうに眉を寄せた。
「先生。子宮が痛いんだ」
「それは十分伝わってます」
「じゃあ治してくれ」
三枝は田島を見た。
「診察は?」
「一通りしてる。
今のところ、すぐ大きな処置が必要な所見はない。
必要な確認も進めてる」
「じゃあ僕、いらないですよね」
「でもお前、帰れると思うか?」
三枝は河原を見た。
河原も三枝を見ていた。
「子宮が痛い」
「思いません」
即答した。
「だろ?」
「納得したくないんですが」
看護師がやってきた。
「河原さん、ご家族にはまだ直接つながってません。
ただ、駅前にいたお知り合いから、娘さんへ連絡が回っているそうです」
「娘?」
三枝が聞く。
「いる」
河原が答えた。
「娘さんがいらっしゃるんですね」
「いる」
「連絡して大丈夫ですか?」
「子宮が痛い」
「そこは戻るんですね」
三枝は額に手を当てた。
田島が笑っている。
「先生、笑ってます?」
「笑ってない」
「完全に笑ってますよね」
「お前が真顔だから余計に」
「僕はいま真剣に診療してます」
河原が上体を起こした。
「さっきから誰も信じない」
声の調子が変わった。
怒っているというより、困っている。
三枝は姿勢を正した。
「信じてないわけじゃありません」
「みんな同じ顔をする」
「どんな顔です?」
河原は目を細め、口を半開きにした。
露骨に「何言ってるんだこいつ」という顔だった。
三枝は吹き出しそうになる。
「そんな顔ですか」
「そんな顔だ」
「僕もしました?」
「お前はもっとひどい」
「すみません」
「謝るのか」
「患者さんの訴えに対して、不適切な顔をしたなら」
河原は三枝をじっと見た。
「若いな」
「よく言われます」
「頼りなさそうだ」
「それもよく言われます」
「医者か?」
「そこ疑われると困ります」
田島が横から言った。
「一応医者だ」
「一応は余計です」
三枝は河原の手元を見た。
腹を押さえている。
ただし、痛む場所をかばっているというより、
何かを守るような手つきだった。
「河原さん。救急車はご自分で?」
「呼ばれた」
そばにいた救急隊員が答える。
「通行人からの要請です。
駅前の歩道でしゃがみ込んでいました。
声をかけると『子宮が痛い』と」
「搬送は?」
「最初は嫌がられました。『病院は困る』と」
三枝は河原を見る。
「病院、嫌いですか?」
「嫌いだ」
「でも治してほしい?」
「子宮が痛いからな」
「便利な一文だな」
「何か言ったか?」
「いえ」
看護師が河原の荷物を指した。
「身元確認のため、持ち物を確認してもいいですか?」
河原の体が固くなった。
「触るな」
三枝が顔を上げる。
「持ち物ですか?」
「触るな」
ここまでで、最も明確な拒否だった。
田島の表情も変わる。
三枝は河原の作業着の胸ポケットを見た。
四角いものが入っている。
封筒のように見えた。
「何か見られたくないものがあります?」
「ない」
「では、確認だけ」
「だめだ」
三枝は少し考えた。
「わかりました。無理には見ません」
田島が三枝を見る。
「いいのか?」
「本人が拒否してます。
緊急に取り上げる理由もないでしょう」
河原がほんの少しだけ肩の力を抜いた。
三枝はその変化を見逃さなかった。
「ただ、ひとつ聞かせてください」
「なんだ」
「本当に身体の痛みですか?」
河原の目が鋭くなる。
「子宮が痛い」
「はい。でも僕がさっき場所を聞いても、
右か左か聞いても、答えは同じだった。
触っている場所と、言っている場所も一致しているようには見えません」
河原は黙った。
三枝は続ける。
「痛いからそこを押さえているというより、
何かを守っているように見えるんです」
河原の手が、胸ポケットへ動いた。
そして止まった。
「病院には来たくなかった。
持ち物も見せたくない。
でも帰りたいとも言わない」
「……」
「何か、別のことを伝えようとしてませんか?」
初めてだった。
河原が「子宮が痛い」と返さなかった。
そのとき、カーテンの外から声がした。
「河原昭夫さん、いますか!」
かなり大きい。
河原の顔色が変わった。
「いない!」
三枝は目を瞬いた。
「いますね」
「いない!」
「本人が否定してどうするんですか」
カーテンが勢いよく開く。
四十歳前後の女性が立っていた。肩で息をしている。
「お父さん!」
「違う!」
「何が違うのよ!」
「人違いだ!」
「顔も名前も完全一致よ!」
田島が三枝の肩を軽く叩いた。
「娘、来たな」
「来ましたね」
「俺、他の患者見るわ」
「逃げます?」
「仕事だ」
田島は消えた。
「絶対逃げたな」
三枝がつぶやく。
女性はベッド脇へ来た。
「朝から連絡も出ないで、何してるの!」
「子宮が痛い」
「は?」
三枝は思わず河原を見た。
出た。
最強カード。
「……何が?」
「子宮」
女性は数秒、父を見つめた。
「お父さん」
「なんだ」
「あんたに子宮はない」
「知ってる」
救急外来の空気が一瞬止まった。
三枝はゆっくり河原を見た。
「知ってるんですか?」
「そりゃ知ってる」
「じゃあ今までのやり取り、何だったんです?」
「子宮が痛いんだ」
「いや、そこです!」
三枝はとうとう声を上げた。
「知ってて言ってたんですか!?」
「言ってるだろう」
「前提が崩れたんですよ!」
女性が三枝へ頭を下げた。
「すみません。娘の美紀です。父がご迷惑を」
「迷惑というか、哲学というか」
「先生、父は何か悪いんですか?」
「現時点で、すぐ重大な処置が必要という状況ではないそうです。
ただ、ご本人が腹痛を訴えて搬送されて」
「腹痛?」
「本人は子宮痛と」
「だからないって!」
美紀が河原を見る。
「痛いんだよ」
「どこが!」
「子宮!」
「そこじゃない!」
三枝は思った。
会話が完成している。
意味だけが完全に欠けている。
「今日、何をしていたかご存じですか?」
三枝が美紀に聞く。
美紀の表情が少し変わった。
「今日、母の命日なんです」
三枝は黙った。
「十年前に亡くなりました。
父、毎年この日は一人でどこか行くんです。
墓参りならそう言えばいいのに」
「行った」
河原が言った。
「お墓に?」
「行った」
「じゃあ、なんで駅前にいたのよ」
「用があった」
「何の?」
河原は答えない。
代わりに胸ポケットを押さえた。
美紀がその手を見る。
「お父さん。その封筒、何?」
「何でもない」
「見せて」
「嫌だ」
美紀が手を伸ばしかけた。
三枝が止める。
「娘さん」
「でも先生、この人、隠し事すると昔からそこ押さえるんです」
「そうだとしても、無理やり取るわけにはいきません」
美紀は不満そうに腕を組んだ。
河原が少し得意そうな顔をする。
「ほら」
「河原さんも煽らないでください」
「先生は俺の味方だな」
「味方ではありません」
「じゃあ敵か」
「そういう世界観で診療してないです」
美紀は父をにらんだ。
そして、ふと眉をひそめた。
「その封筒……」
河原の表情が動く。
「母さんの字じゃない?」
少しだけ見えていた封筒の端に、青いインクの文字があった。
河原は黙った。
美紀の怒気が薄れる。
「母さんの手紙?」
「違う」
「今の間で違うは無理があるでしょ」
三枝は何も言わなかった。
しばらくして、河原は観念したように胸ポケットから封筒を取り出した。
古い封筒だった。
角が丸くなり、何度も開いた跡がある。
宛名は「昭夫さんへ」
「母さんから?」
美紀が小さく聞いた。
河原はうなずいた。
「亡くなる前にもらった」
「そんなの持ってたの?」
「ずっと」
「知らなかった」
「言ってない」
河原は封筒を両手で持った。
「今日、読みに行った」
「どこへ?」
「駅前のベンチ」
「なんで駅前?」
「初めて会ったところだ」
美紀が黙った。
「母さんと?」
「ああ」
河原は封筒を見つめる。
「毎年読む。墓の前じゃ読めん」
「どうして?」
「見られてる気がする」
「墓なんだから見てないでしょ」
「気分の問題だ」
三枝は少しだけ笑った。
「それで、今年は?」
「途中で読めなくなった」
「具合が悪くて?」
「違う」
河原は長く息を吐いた。
「書いてあるんだ」
「何が?」
「美紀を頼むって」
娘の表情が止まった。
「私?」
「最後のほうに。
『あの子は強そうに見えて無理するから、
ちゃんと見てて』って」
美紀は何も言わない。
「毎年読んでた。でも今年は腹が立った」
「誰に?」
「母さんに」
「なんで」
「十年も前に死んだくせに、まだ俺に注文してくる」
三枝は黙って聞いた。
「それで、美紀のこと考えた」
河原が娘を見る。
「ちゃんと寝てるのかとか。
仕事ばっかりしてるとか。飯食ってるのかとか」
「食べてる」
「コンビニばっかりだろ」
三枝の胸に少し刺さった。
今日、新作プリンを買って帰る予定だった。
「それで、急に苦しくなった」
河原が言う。
三枝は少し身を乗り出した。
「そのとき、どんな感じでした?」
「どんなって」
「刺すような痛みか、締めつけるような感じか。
動いたら変わりました? 押さえたら楽になりました?」
河原は考えた。
「……そういうんじゃない」
「場所も、ずっと同じじゃない?」
「ああ」
「じゃあ、最初に言っていた『子宮』は、身体の場所そのものじゃない」
河原は黙った。
三枝の頭の中で、いくつかの言葉がつながった。
母の命日。
手紙。
娘を頼む。
十年前。
そして、子宮。
「河原さん。奥さんが亡くなった原因は聞いても?」
美紀が少し身構える。
河原は静かに答えた。
「癌だ」
三枝はそれ以上、病名について掘らなかった。
「入院は長かったですか?」
「長かった」
「河原さん、ずっと付き添ってました?」
「ああ」
三枝は少し間を置いた。
「そのころ、奥さんがよく『子宮が痛い』って言ってませんでした?」
河原の指が止まった。
美紀が父を見る。
「あなた自身の身体の場所を言ってるんじゃない」
「……」
「今日、手紙を読んで奥さんのことを思い出した。
そのときの苦しさと、奥さんが痛がっていた記憶が、一緒になったんじゃないですか」
長い沈黙があった。
救急外来の外では、相変わらず足音と電子音が続いている。
河原がぽつりと言った。
「母ちゃん、よく言ってたんだ」
「はい」
「夜になると。子宮が痛いって」
三枝は口を挟まなかった。
「俺、何もできなかった」
「……」
「背中さするくらいで。水持ってくるくらいで。
医者呼ぶくらいで」
「それは『何も』ではないと思います」
「でも痛いのは止まらんかった」
「そうでしょうね」
「だから今日、手紙読んでたら」
河原は腹に置いていた手を離した。
「俺まで、痛くなった気がした」
「どこが?」
河原は少し迷ったあと、胸を叩いた。
「このへんだ」
三枝はうなずいた。
「それなら最初から、そう言ってください」
「言えるか」
「なぜ」
「恥ずかしいだろ」
「子宮が痛いより?」
河原は黙った。
美紀が顔を覆った。
「お父さん……」
三枝は思った。
人間というものは、本当に不思議だ。
「妻を思い出して胸が苦しい」
と言うことは恥ずかしい。
しかし六十五歳男性が、救急搬送先で「子宮が痛い」と連呼することには耐えられる。
羞恥心の配分がおかしい。
「じゃあ確認します」
三枝は指を一本立てた。
「あなたの言う『子宮が痛い』は、
身体的な場所の話ではなく、奥さんが痛がっていた記憶を思い出して、つらくなった」
「……まあ」
「最初からそう説明していただければ、婦人科の先生は呼ばずに済みました」
河原が目を見開いた。
「婦人科来たのか?」
「来ました」
「なんて?」
「三秒黙って帰りました」
美紀が吹き出した。
河原は眉を寄せる。
「失礼な医者だな」
「あなたが言います?」
*
その後、河原は必要な確認を受けた。
重大な処置を要する状態ではないことが確認された。
三枝が帰ろうとすると、河原が呼び止めた。
「先生」
「はい」
「今日のこれは、病気か?」
三枝は少し考えた。
医学的な意味で、ここで断言する話ではない。
だが、河原が聞きたいのはそこではない気がした。
「十年前に亡くなった奥さんを思い出して、つらくなったことですか?」
「ああ」
「それだけなら、人間として普通なんじゃないですか」
「十年だぞ」
「十年経ったら平気にならないといけない決まり、
あります?」
河原は黙った。
「僕は聞いたことないです」
「医者なのに?」
「医者だからって、人の気持ちに有効期限を設定できませんよ」
河原は手紙を見た。
しばらくして、鼻を一度すすった。
「若いくせに生意気だな」
「頼りなさそうとも言われました」
「それは合ってる」
「帰りますよ僕」
美紀が笑った。
「先生、ありがとうございました」
三枝は軽く頭を下げる。
今度こそ帰る。
今日はまだ、新作プリンに間に合うかもしれない。
廊下へ出たところで、スマートフォンが鳴った。
院内からの呼び出し。
嫌な予感しかしない。
「はい、三枝です」
『先生、まだ病院ですか?』
小宮だった。
「今帰るところです」
『救急から相談です』
「嫌です」
『まだ内容言ってません』
「内容を聞いたら、もっと嫌になる気がします」
『四十八歳女性です』
「はい」
『「自分の影が先に病院に着いた」って言ってます』
三枝は黙った。
『先生?』
廊下の先には出口。
ポケットには財布。
頭の中にはプリン。
背後には救急外来。
三枝はゆっくり天井を見上げた。
「……なんで僕なんですか」
電話の向こうで、小宮が笑った。
『若いからじゃないですか?』
三枝は目を閉じた。
「今行きます」
踵を返す。
その背中に、河原の声が飛んできた。
「先生!」
三枝は振り返った。
「なんです!」
「次はちゃんと場所を聞けよ!」
「あなたにだけは言われたくないです!」
三枝はそのまま、救急外来へ戻っていった。
制作小話はXで。




