第一話 コースケとダッシュ
(あ、これ夢だ)
とコースケは思った。
では、体を動かしてみよう。
まずは顔を下へ向ける。右の二の腕辺りに意識を集めると、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げて、手の平でジャンケンのパーを作った。
そして、閉じたり、開いたりを繰り返す。
どうやら体の自由は利くらしい。
自分の身なりを見下ろすと、見慣れた紺色のブレザーが目に入った。これは学校の制服だ。足元は、なぜだか上履きのままである。
コースケは草原に立っている。
ふと、なだらかな大地を見通す。青々とした草が風で揺れて、さらさらと、きらきらと、太陽の光を浴びて輝いている。空は、広い。抜けるような青天を、白い雲が形を変えながら悠然と流れていく。地の緑と、天の青が、色鮮やかな対比となっていた。一体、ここはどこだろう。
それにしても、と思う。
夢の中で、
「これは夢だ」
と自覚した。しかも、だ。それに気づいても、まだ目覚めない。そのうえ体を自由に動かすことが出来る。生まれてこのかた初めての経験だ。
背後で、がさり、と草をかき分ける音がした。
コースケは振り返った。そして、現れた人物を見て唖然とした。
母の悦子(えつこ)、その人だった。
「かーさん!?」
コースケは頓狂な声で叫んだ。
なんで、母さんがここにいるのか。
なんで、俺の夢に出て来るのか。
それから、なんで、部屋着にエプロン、足元はスリッパなどという締まりのない格好をしているのか。外国張りの大草原には場違いな姿だ。この一面の中、彼女の外貌だけが、ぽっかりと異彩を放っている。
動揺しきりのコースケと反して、母は澄まし顔だった。
「いや、あなたも似たようなものでしょ」
と、冷静に指摘する。
傍目を言えば、確かにそうだ。コースケの制服姿も明らかに周囲から浮いており、人のことを言う立場ではない。棚に上げて、とはこのことだ。
(それよりも)
と、コースケは違和を感じた。ほかならぬ母に対して、である。
この人は本物の母親だろうか。
いや、夢の出来事であるから、本物の、という言い方はおかしい。が、この場合、別の表現が思いつかない。とにかく、そう疑問を抱いたのだ。
「いつまで寝てるの! 早く起きなさい! 朝ご飯を食べなさい!」
やら、
「お風呂に入りなさい!」
やらと、口を開けば、何かにつけてコースケを急かす母である。小うるさいのが常であった。そうではなくても、よく笑い、よく喋る。
それが、目の前に立つ彼女はどうだ。
第一に口数が少ない。第二に、素っ気ない口振りといい、冷たい表情といい、どうもコースケを見下している。馴染み深い母の雰囲気とは違う。
しかし、外見は彼女そのものなのだった。
「母さんなの?」
思わずコースケは尋ねた。
相手は、平然たる態度だ。
「違います」
「それなら、誰?」
「僕は」
と、相手は、その外見とはちぐはぐな一人称を使って答えた。
「あなた自身です」
「俺?」
「そう。……よく分からないでしょ? 大丈夫、僕もです。きっと、こういう場所では、自分を導いてくれる人が必要だと思ったんでしょうね。ほら、漫画ばっかり読んでるから。その影響で」
「誰が?」
「あなたが」
「俺が?」
「僕の存在自体に意味なんてないんです。あなたの心が創り出した、言わば想像の産物、ただのイメージですので。だから、あんまり質問はしないでください。あなたが知ってること以外は僕にも分かりません」
この間、相手はにこりともしない。
その口調が滑らかで、コースケは、思わず納得しそうになる。
「なんで、母さんの姿なの?」
相手がコースケ自身というのなら、その外見も、己のものであるはずだ。
「さっきも言ったでしょ」
と、やはり、相手はコースケを小馬鹿にして話す。
「僕は、あなたの想像力が創り出したもの。無意識に思い描いたということは、この人物が、あなたにとって一番身近なんでしょう」
相手は、母の顔を借りて冷笑を浮かべた。
「お母さんが大好きなんですね」
コースケは首を赤くして黙り込んだ。
「何度も言いますけど、僕の姿はあなたの想像力次第です」
「マジで?」
「マジで」
つまり、夢先案内人の外見はコースケの思いのままだと言う。
では、ここは頑張りどころではないか。
コースケは腕組みをした。目を閉じた。それから、妄想、もとい想像力をフルに発揮して、脳裏にとある人物像を思い浮かべた。
暫時、瞑想にふける。
そっと目を開けた。
目の前に、一人の美女が立っている。
服装が制服なのは仕方ない。私服の姿を見たことがないからだ。
彼女は、同じクラスの水野ルカである。入学式で見かけたおり一目惚れをし、現在に至るまで半年は経ったが、いまだ会話らしい会話を交わしたことがない。つまり完全な片思いだ。
「僕は、山本エイコの方がいいですけど」
「あいつは違うだろ」
山本エイコとは、小学校時代から付き合いのある幼馴染である。見るからに清楚で大人しい水野ルカとは違い、口うるさいだけの粗野な女だ。高校に入ってから始めたテニスのせいで、近頃では全身の肌が黒々と日焼けしている。スコートを履いているところだけが真っ白で、どれほど笑い話の種にしたか分からない。対して、水野ルカは合唱部だ。しかもソプラノだ。何て女らしいのだろう。彼女の方がいい。ずっといい。
それはそうと、水野ルカが目の前にいる。
「うわあ、水野さん……」
こうして一対一で向かい合う機会などなかった。胸から感慨深いものが込み上げて、コースケはまじまじと彼女を見つめた。やはり綺麗だ。
「まあ、結構、美化してますけどね」
と、相手は相変わらず一言余計だ。
見た目は変貌しても中身が変わらない、というのはネックである。何と言っても萎える。この人物はコースケ自身だと自称していたが、ということは、今は女性の体に男性の意識が入っているようなものなのだ。
今更めく、水野ルカに申し訳なく思う。
コースケは、相手の姿を自分自身へと変えた。
「結構、美化してますね」
と、今度はむしろ、感嘆するように相手は言った。
逐一、言い返すのも面倒だ。コースケは聞き流した。
「それで、ええと、……お前のこと、何で呼んだらいいかな」
「やっぱり『コースケ』が一番しっくり来ます」
それはそうだろうが、ややこしい。同じ名前が二人になってしまう。
ふと、いい名前を思いついた。「ダッシュ」はどうか。数学で、類似するものを表す記号である。つまり、「コースケ・ダッシュ」は「コースケに似ている者」、転じて、「コースケの分身」というわけだ。
「それで、どうしますか」
と、ダッシュは聞いた。
何が、とコースケは首を傾げた。自分と同じ顔と向き合うというのは、なかなか、不思議な感覚だ。双子とはこういうものだろうか。
「夢の中にいるんですよ。何か、やってみたいことはないんですか?」
2010年6月