魔獣になった娘
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ひとの気持ちは変わる。
だから、これは仕方のないことだ。
そう言い聞かせながら、マリーは一日かけてやってきた町の神殿の門をくぐる。
三年前には天から日が差しているように感じた神殿は、今は陰鬱な影に沈んでいる。
「離婚の申請を」
差し出された申請書に、名前を書き血印を押す。これで離婚申請の問い合わせが、彼に届く。あとは彼が同意すれば、離婚は成立だ。
神官に渡した書類は、しばらく経ったあとに困惑とともに返された。
「離婚はできません」
「どうしてですか?」
「婚姻の届が受理されていないからです。婚姻していない方は、離婚もできません」
一瞬なにを言われたかわからなかった。
「そんなはず……! 三年前にちゃんと二人で」
「はい。三年前に一度、マリー・ワーズさんの婚姻の届が出されていますが、すぐ翌日に夫にあたる方から取り下げの申し出があったので、受理されていません」
「翌日に、取り下げ……?」
「取り下げの時にお名前をいただいています。アッシュ・ベイリーさんですね」
示された箇所に記された夫、いや、夫と思っていた人の名前。見慣れた筆跡。
マリーはそれを静かに見つめた。
「あの、それでですね、受理されなかったのは別の理由もありまして」
そんな前置きのあとに、おずおずと続けられた神官の言葉に、マリーは立ち尽くした。
神官の「大丈夫ですか」との声に我に返ったマリーは「お騒がせしました」と頭を下げて神殿を出た。気遣うような神官の視線が、ひどく堪えた。
気持ちが変わったんじゃ、ない。
初めからなにもかも嘘だったのだと、マリーはようやく知った。
◇◇◇
冒険者を名乗るアッシュが、マリーの住む村に現れたのは、四年前。まだ雪が残る寒い日だった。
村はかなり山の奥深い田舎に位置しているけれども、体に良いとされる熱い湯のわく泉があり、湯治客で賑わっている。客は冒険者や引退した騎士がほとんどだが、ときには貴族もやってくるため、名高い商会が営む豪奢な宿も建てられていた。
マリーはこの村で、薬を作り、それを売って暮らしている。祖母に叩き込まれた薬作りの腕は確かで、くだんの貴族向けの宿を経営する商会が優先的に買い付けてくれる契約を結んでいるため、暮らしに事欠くことはなかった。
周囲は山だ。材料の調達は容易であったし、祖母の残した薬草園や温室で、山では取れない薬草も育てている。
マリーは、この村から離れたことがない。せいぜい村で手に入らない物を買いに、近くの町に出るくらい。
物心つく頃には、この村で祖母と暮らしていた。両親は冒険者だったという。彼らは祖母にマリーを預けたまま、戻らなかった。
その祖母も先年亡くなり、マリーはひとりで暮らしていた。
その寒い冬の日もマリーは、店で薬を作っていた。
傷薬や腹の調子を整える薬は、どれだけあっても買い取ってもらえる。
ときたま店まで訪れる客には、詳しく話をうかがい、それぞれの不調に合わせて薬を作ることもあった。
アッシュは、そうした客のひとりだった。
「邪魔するよ」
ちりりんとドアにつけたベルの音とともに現れた男に、マリーは目を細めた。
明るい茶色の髪に、紺の瞳。顔立ちは、かなりよいほうに入るだろう。それよりも、マリーが気になったのは、ぎこちなく動く右腕。動かす時に、不自然に力が入る。どこかに痛みがある証拠だ。
果たして、男は痛み止めの処方を希望した。
痛み止めの処方は難しい。痛みの種類によるのはもちろん、必要量に個人差が大きく、細かい調整が必要だ。量が過ぎると、怠さやめまいなど副作用が強くなる。
「右肩をさわってもいいですか?」
「……どうして右肩だと思ったの?」
マリーの問いに、男は警戒したように低い声でたずねる。
「そういう動かし方をしています」
男は無言で、右腕を差し出す。
マリーは男を椅子に座らせると、「痛かったら教えてください」と言ってから、男の腕を押さえたり動かしたりして、痛みの原因を探った。
「痛みって、びりびりした感じですか?」
「そう。一ヶ月前に右肩を魔獣にやられたんだ。傷は治ったが、痛みがとれない」
「それは神経――痛みを伝える線が傷ついているからです。一般的に筋肉よりもその線のほうが治りが遅いです」
男は何度か瞬きすると「治るかな」とたずねた。
「回復の可能性はありますが、断言はできません。この手の痛みには、痛み止めもあまり効きません。温浴のほうが痛みをやわらげるのに効果があるかもしれません」
マリーが正直に答えると、男が真面目にうなずいた。
「わかった。湯につかってみる」
出て行こうとした男に「あの!」と声をかける。
振り向いた男の視線が鋭い。
「もし、よかったらなんですが、治験をさせていただけませんか?」
「ちけん?」
「薬を試してみることです。もちろん安全性は保証します! なにかあったら責任をもって治療します! 前からそんな痛みに効く薬が作れないかと考えていて。そんな真新しい傷は珍しくて、だから、あの……協力してもらえませんか?」
アッシュはしばらくじっとマリーを見つめたあと、左の口角だけを上げた。
「じゃあ、そのちけんとやらが終わるまで、君の家に泊めてくれない? 手持ちが少なくてね。困ってたんだ」
マリーは、すぐにうなずいた。被験者がそばにいるほうが観察が容易だ。幸いこの家はそれなりに広く、部屋も余っている。なんなら祖母が使っていた部屋を提供してもよい。
こうして二人は暮らし始めた。
一日数回湯につかりにいく以外は決まった用事のないアッシュは、マリーが薬を作る様子をよくじっと見ていた。
「思ったより、たくさん仕事があるんだね」
山から採ってきた薬草を乾燥させているマリーに、アッシュが話しかける。
「そうですね。全部自分でするので、やることがたくさんありますね」
「俺も手伝おうか?」
「気持ちはありがたいですが。間違えるわけにはいきませんので」
ふうんともらしてから「弟子はとらないの?」とアッシュが首をかしげる。
「条件に合う人がいなくて。薬の作り方は教えられますが、できるかどうかは別問題なので」
「条件って?」
「目や鼻がよくないとだめです。薬草のかすかな色の違いを見分けたり、ほぼ無臭にちかい匂いをかぎわけたり。こればかりは教えてどうなるものでもありませんから」
「わからないやつには、何度言ってもわからない、か」
納得したようにうなずくアッシュから、マリーは目をそらした。
日に透けるアッシュの髪がきれいだと思ったのが最初だったか、紺色の瞳がやわらかく細まるのに見惚れたのが先だったか。彼といるとはねる心臓を、なにかの病気かと疑ったこともあった。
痛み止め用の薬草をすりつぶしながら、彼の右肩がよくならなければいいと思うようになる頃には、自分の気持ちをマリーは理解していた。
その日の夜も、ようやく完成した痛み止めを布に染み込ませ、マリーはアッシュの肩に巻いていた。
「皮膚が赤くなってくるようであれば教えてください」
「ありがとう。マリーのおかげでずいぶん良くなったよ」
「……それは、よかったです」
離れようとしたマリーの髪の一房を、アッシュがすくいあげるとくいと引っ張った。
「マリーは俺が好き?」
上目遣いでの問いかけに、マリーはかちりと固まった。「ええと」とか「あう」とか言葉にならない声をもらしていると、アッシュが立ち上がって、マリーの体を抱きよせた。
「俺はマリーが好きだよ。こんなに親切にしてもらったのは人生で初めてだ。君が愛しい。愛しているよ、マリー」
口づけを落とされ混乱する頭の中で、ちかちかと光るように思い出したのは、祖母の教えだった。
祖母はマリーにたくさんのことを厳しく教えた。人体の仕組み、薬が効く仕組み、それから日常生活の注意事項まで。籍を入れるまで男に肌を許すなというのは、その中のひとつだ。
アッシュにおずおずとそれを告げると、それなら籍を入れようと言われた。
頭が真っ白になる。自分が誰かと添い遂げるとは、考えてもいなかった。アッシュに対しても恋を自覚していても、どうこうなるつもりはなかった。いつかケガが治れば去っていく人のはずだった。両親も祖母も大切なのはいつもマリーではない誰かで、マリーを本当の意味で大事にする人は一人もいなかったから。
アッシュの言葉が本気だとわかると、彼の腕の中でマリーは泣いた。嬉し涙だった。
晴れわたる冬の日に、近くの町にある神殿を二人で訪れ、婚姻の届けを出した。
ささやかな祝杯をあげたその夜、二人は結ばれた。
◇◇◇
二人の間に子どもが産まれたのは、その一年後。マリーによく似た女の子だ。
アッシュはそれまでもよく村から出て仕事に行くことがあったが、子どもが産まれた後は、さらに村を離れることが多くなった。
マリーが暮らす村には、めったに魔獣は出ない。魔獣狩りは危険な分、身入りの良い仕事だ。アッシュは、どこかで仕事をしなければならなかった。村でも力仕事などを請け負っていたようだが、たいした稼ぎにはならない。その頃には、アッシュの肩もずいぶんとよくなっていた。
「行ってくる」
「お守りは持っている?」
「ああ、ちゃんとここに。頑張って稼いでくるよ。君たちのために」
懐をたたくアッシュに、マリーは「無理はしないで」と微笑んだ。
名残惜しそうに抱きしめて額に口づけるアッシュを、マリーはいつも村で見送った。
たまに帰ってきては、村を去っていくアッシュを何度も見送り、何ヶ月も彼の姿を見ない日々を過ごしたあとに、辺境の警備隊に採用されたと手紙が来た。
公式な身分に採用されるのは、それなりに年齢のいった冒険者には、破格の待遇だ。冒険者は働けなくなったら終わり。肩を壊したアッシュが困窮していたのも、そのせいだ。警備隊であれば給料も出るし、働けなくなっても、わずかだが褒賞や年金が出る。アッシュには、その重要性がよくわかっているだろう。
辺境に現れた魔獣の群れを撃退する際に、ひときわ功績をあげたことによる措置だという。
踊るような字で書かれた手紙。
アッシュは冒険者にしては、所作が美しかったし、文字を読むことも書くこともできた。その理由をマリーがたずねることはなかった。
手紙は庶民にとっては高級品だ。おそらく家族を呼び寄せるために、特別に許されたものなのだろう。辺境までの路金も同封されていた。
残念ながら迎えにはいけない、マリーたちがこちらに来る日を待っていると綴られた文字を、マリーはそっと指でなぞった。
マリーはこの村を離れては生きていけない。仕事も生活もすべてがここにある。
辺境でも薬の需要はもちろんあるだろうが、生えている草が違う。薬草園も温室も持ってはいけない。なにより、祖母との契約が生きている。
辺境の警備隊に採用されたとしたら、アッシュが村に戻ってくるのは難しいだろう。いくら休暇があったとしても、辺境とこの村はあまりに離れすぎている。
ずっと一緒に生きていきたかったけれど。
アッシュのこれからが、この村にないのなら。
まだ幼い娘をきゅっと抱きしめる。
この子がアッシュの血を引くことには変わりはない。血のつながりは、切れることはない。だけど、会えない家族にとって、公式なつながりは足枷にしかならないだろう。それは契約と一緒だから。
契約に縛られる身だからこそ、マリーはアッシュを手放すことを決めた。
手紙を受け取った翌日、幼い娘を隣人に預け、マリーは町の神殿に向かった。
◇◇◇
「アッシュ・ベイリーが死んだ」
エドワード・トンプソン。たしか商会の三男坊だったか。村で貴族向けの宿を経営する商会の人間だ。毎年更新されるこの商会との薬の取引の契約書に、ここ数年書かれる名前だから覚えている。
商会は情報も扱う。アッシュ宛ての最初で最後の手紙も、この商会に託した。
だからだろうか。金も払っていないのに、情報を渡してくれるのは。
「そうですか。――彼はきちんと正式な妻の元に帰れましたか?」
感情を見せずに淡々と返したマリーに、エドワードの顔が歪んだ。
「何匹もの魔獣に執拗に追いかけられて、逃げ切れず噛み殺された。遺体は食い荒らされて、残っていないそうだ」
「それはお気の毒です」
エドワードは何度かためらったあと、言葉を押し出した。
「君が殺したのか?」
「彼は魔獣に殺されたと、あなたがおっしゃったのでは?」
マリーの返答に、エドワードが怯えたように数歩あとずさってから背を向ける。
「お帰りになるまえにひとつだけ。次回の契約は更新しません」
はじかれたようにエドワードが振り返った。
マリーは静かに微笑んだ。
「あなたが彼に依頼したんですよね? 私に子どもを産ませるように。彼の苗字を知っていたことで確信しました」
彼はふだんアッシュとしか名乗らなかった。守るものを持つ人間は、苗字を含む正式な名前を知られないように行動するよう教育されている。勝手に契約を結ばされたりして、悪用されるのを避けるためだ。
だから、村の人間は彼の苗字を知らない。彼の苗字を知っているのは、彼と契約を交わした人間だけ。
「僕は、そんなつもりでは。ただ、子どもができれば、君が後継を育てる気になるかと」
そんなことのために。
安定して薬が供給される。この村が安全な湯治場でいられる。
そんなくだらないことのために。
「大事な娘を後継者――契約に縛られる身にはしません」
マリーは、冒険者の両親に、後継者を探していた祖母へと売られた娘だ。
祖母が愛した人が愛していた故郷を、ただ守るために買われた人間だ。マリーが草の色が見分けられ、匂いを嗅ぎ分けられたから。
神殿で行われた契約によってマリーは祖母の後継者に指定されたから、この村を出ていくことができない。
神殿での契約を反故にすれば、神から見放されたものとして、まっとうに生きていくことは難しくなる。大事な契約はすべて神殿で行うのだから。家を借りるのも、商売の取引も、婚姻の誓いも。――村を守り続ける契約だって。
人間は、神の名のもと、神聖魔法で名前を契約に縛られながら、生きている。
音高く閉められる扉を、マリーは黙って見つめた。
◇◇◇
ひとの気持ちは変わる。
だから、これは仕方のないことだ。
愛した人の死を、マリーが願うことも。
アッシュが村から出かけていくとき、マリーは彼の無事を願った。彼が戻ってくることを。
だから、魔獣よけの草をお守りとしてもたせた。
そのお守りは、辺境での魔獣との戦いに、きっと役立ったことだろう。魔獣はアッシュを避け、別の人間に襲いかかる。魔獣に襲われないことは、混戦の中ではとてつもない優位性となる。
アッシュにマリーではない妻がいると知ったとき、彼ともう二度と顔を合わせないことを願った。
金のために籍を入れるふりまでしてマリーを抱いた彼を、ののしる醜い自分の姿を、誰にも見せたくなかったから。なにより彼自身に。
だから、辺境へと呼び寄せる手紙の返事に、新しいお守りを贈った。魔獣をひきよせる草を、そのお守りに忍ばせて。
マリーが暮らす村には、めったに魔獣は出ない。
マリーは今日も祖母との契約どおり、魔獣よけの草が村の周囲に生えていることを確認し、山深いところに生える薬草を採取するついでに、魔獣が好む草を混ぜた毒餌を撒く。
祖母の残した温室で作った毒餌は、匂いを閉じ込める特別な袋で慎重に持ち運ぶ。人間には感じ取れない、かすかな匂いの違いに、魔獣は敏感に反応する。
そこまで考えて、マリーは理解した。
マリーはきっと魔獣なのだ。人間の姿に似ているから、誰にも気づかれなかっただけで。だって、草のかすかな匂いをかぎわける。そして、愛しいはずの男が、魔獣に食い殺されたと聞いても、胸は痛まない。
「ふ、ふふふ」
久しぶりにマリーは声に出して笑った。
娘が旅に出られるだけの体力がついたら、この村を離れよう。
魔獣に名前はない。だから、契約にも縛られない。安定とはほど遠い生活にはなるだろうけど、旅を続けることくらいはできるだろう。
「ああ、楽しみだわ」
世話をする人間がいなくなれば、魔獣避けの草は、そのうちなくなっていくだろう。
そのとき、温室に植えられた魔獣が好む草は、まだ茂っているだろうか。マリーは温室の扉を開けたまま、ここを去るつもりだ。
村がなくなれば、祖母の契約は意味をなさない。いつか魔獣であるマリーが、人間になる日もあるかもしれない。
両頬に流れる冷たい涙をマリーは拭わない。もうこの世にはいない愛しい人に抱かれても、大事でかわいい娘をこの手に抱いても、手に入れられなかった自由を、マリーはこの時初めて感じていた。
マリーは、自分の手できちんと始末をつける派です。
大好きな『ワーズワースの庭で』という言葉から、箱庭をイメージして。
アッシュサイドの話は、需要があったりするでしょうか。




