3 逃げだした産婆
寝台の上で母が苦しんでいる。
雪の降る季節。炭のない部屋は身が凍えるほど寒く、吐く息は白い。それなのに、母のひたいには汗が浮かんでいた。
母の顔が苦悶に歪む。あまりの苦しみに、目尻から涙が流れ落ちる。
寝台の側に駆けつけた産婆が母の出産を手伝っていた。
苦しむ母の叫びが響く。今まで聞いたことのない母の悲鳴に、雪蘭は身を震わせた。
「母上」
雪蘭はぎゅっと母の手を握った。指が千切れるのではと思うくらい、握り締め返される。だが、その直後、母の呻き声がやんだ。見ると、寝台の上で母が白目を剥き、ぐったりとしていた。
「母上? 母上はどうしたの?」
雪蘭は産婆の腕を掴んで揺すった。
産婆はやれやれと首を振り肩をすくめる。
「母親の体力がなさすぎて、子を産む力がないんだ。これはもうだめだね」
手を洗い、産婆が部屋から出て行こうとする。
「待って、お願い母上を助けて」
雪蘭は床にひざまずき土下座をする。それでも産婆は母の出産を最後まで手伝おうとしない。
雪蘭は懐から銀子を取り出し、産婆の手に握らせた。
「この通りです!」
手の中に押し込められたわずかな銀子に視線を落とし、産婆はため息をつく。
「無理だね。あたしには無理。あきらめな」
「そんなことを言わずに母を助けて、お願いします!」
「どう見たって、おまえの母親も子も助からないよ。あーあ、こんな面倒事になるなら引き受けなきゃよかったよ!」
すがりつく雪蘭の手を、産婆は乱暴に振りほどく。
「行かないでください! 母を見捨てないで」
「どいておくれ!」
雪蘭から銀子を受け取ったものの、産婆は母をかえりみることなく逃げるように部屋から出て行った。
「待って、待ってください!」
雪蘭は白目を剥いたまま、苦しそうに息をする母を見る。
このままでは母も赤子も死んでしまう!
そう思った雪蘭は手を握りしめ、駆け出した。
向かう先は父の政務室だ。
「父上!」
部屋に駆け込もうとした雪蘭を、奴婢たちがこぞって行く手をふさぐ。
「雪蘭さま、なりません」
「勝手に旦那さまの部屋に入っては叱られます」
「どいて! 母上が大変なの」
「雪蘭さまお引き取りを。勝手をされてはわたしどもが旦那さまから罰を受けます」
引き止める使用人たちを振り切り、父の部屋に飛び込んだ。
「父上、母上を助けてください!」
なんだ? というように、黄渓は側に控える家職に視線を向ける。
「実は……」
黄渓の耳元で家職はぽそりと呟く。
黄渓はため息を吐き出した。
「そんなことのために、わざわざ私の部屋にやって来たのか」
そんなこと?
父の言葉が胸に引っかかった。
「ごめんなさい。父上がお忙しいのは分かっています。でも、母上が苦しそうなんです。手伝いに来た産婆も途中で逃げ出しました。誰も母上の出産を手伝ってくれません!」
緩く首を振り、黄渓は再びため息をつく。
「おまえの母親のことは、すべて如琳に任せている。問題があれば彼女に言いなさい」
まるで面倒事は自分に持ち込むなと言わんばかりだ。
母上の出産なのに。
自分の子が生まれるというのに、父は少しも気にかけようとしない。
どうして母上に優しくしてくれないの?
恨みがましい目で父を見上げるが、言葉にすることはできなかった。今は母を助けることを優先しなければ。
父への挨拶もそこそこに、雪蘭は急いで如琳の元へ走った。
「如琳さま助けてください。母が苦しそうなんです」
娘の慈桂とともに談笑しながら菓子を食べていた如琳は、雪蘭を見て不愉快な顔つきになる。
「あら、まだ産まれていないのかい?」
如琳は目を細め、冷ややかな口調で続けて言う。
「ふん、娘の誕辰祝いに産気づくなんて、つくづく嫌味な女だよ」
「ほんと、楽しい気分がだいなしだわ」
慈桂が唇を尖らせる。
「お願いです。医者を呼んでください」
「医者? 産婆がいるでしょう」
「産婆は途中で帰ってしまいました! まだ赤ちゃんが産まれていないのに」
「帰った? あらあら、困ったわねえ」
その口調は困っているようではない。
「難産だって言っていました。もしかしたら、母上もお腹の子も危ないって。だから、この通りです。医者を呼んでください! お願いです。どうか、お願いです!」
雪蘭は如琳の足元にすがりつき懇願する。
「うっとうしい!」
しかし、如琳は雪蘭の頭に足をかけ蹴り飛ばす。
「きゃっ」
「冗談じゃない。なぜ、あたしがあの女のために医者を呼ばなければならないの。とにかく、産むならさっさと産んでちょうだい」
如琳は忌ま忌ましげに言い放ち、雪蘭の懇願を突き放す。
「お願いです」
「いい加減にしておくれ!」
「そうよ、あんたの母親のためにどうして母さまが医者を呼んであげなければいけないの? そんなに医者が必要なら、自分で探してくればいいでしょ」
慈桂は甘い菓子を頬張りながら言う。
自分で医者を探す。
雪蘭は手を握りしめた。
如琳に頼んだのが間違いだった。最初から自分で医者を探しに行けば良かった。そうすれば時間を無駄にすることはなかった。
「分かりました」
雪蘭は如琳と慈桂に背を向け、駆け出した。




