10 忠実な宦官と大切な侍女
部屋に戻った慧雪に、小鈴は頭を下げ出迎える。
「おかえりなさいませ、慧雪さま。お食事の用意が整っております」
慧雪は席につき箸をとると、先程小鈴がつまみ食いをした料理に手を伸ばした。慧雪の横で、小鈴は吹き出しそうになるのをこらえている。他の侍女たちも口元に笑いを刻んでいる。
明らかに皿の料理には、誰かが手をつけた形跡があった。それでも慧雪は、気づかないふりをし、無言で食事をとり続ける。
文句は言わない。今は少しでも力を蓄えておきたい。食事も食べられる時に食べなければ。この先、いつどうなるか分からないのだから。
「雪答応さま、お酒もどうぞ」
小鈴は自分が口をつけた酒杯を慧雪にすすめる。
酒杯を手にした慧雪は、扉の向こうで唇を噛みしめながら佇む燕子の姿を見る。
「おまえたち、下がっていいわ」
「ですが……」
「下がりなさいと言ったの」
小鈴はムッとしたように唇を尖らせる。
「分かりました!」
不遜な態度で小鈴たちが出て行くのを見届け、慧雪は燕子に手招きをして呼び寄せる。
「雪答応さま、申し訳ございません」
燕子は深々と頭を下げる。
「なぜ、謝るの?」
「今召し上がっているその皿は……だから、雪答応さまに、新しい食事を用意したいと思い御膳房に行ったのですが……」
けんもほろろに御膳房で断られたのだろう。それだけではない。よく見れば、燕子の頬が赤黒く腫れ、口の端に血が滲んでいた。おそらく、御膳房でひと悶着を起こし、他の太監たちに暴力を受けたのだ。
慧雪は立ち上がった。棚から小瓶を取り出し、燕子に差し出す。
「腫れが引く薬よ、よく塗り込んで。それからこれは痛み止め」
「いいえ……大丈夫です。このくらいたいしたことではありませんから」
たかが奴婢ごときに薬は不相応だと思っているのだ。
「いいから受け取りなさい」
頑なに拒否をする燕子の手に、慧雪は小瓶を押し込んだ。
「申し訳……もっと私の要領がよければ」
「いいえ、私が不甲斐ないからだわ」
燕子は激しく首を横に振る。
「違います! 雪答応さまは決して、不甲斐ないなんてことはないです!」
慧雪は笑った。
この後宮で、こんなにも心が真っ直ぐで素直な者がいるとは貴重だ。
「燕子、あなたに頼みがあるの」
「はい! なんなりとお申し付けください」
「御膳房に行って桂花糕を作ってもらいたいの。頼めるかしら」
「かしこまりました。今度こそ用意いたします!」
慧雪は二つの銀子を燕子に渡す。
「一つは御膳房の太監に渡しなさい。そして、もう一つはあなたによ。迷惑をかけてしまうわ」
しかし、燕子は自分の分の銀子を返してきた。
「雪答応さまのお心遣いに感謝いたします。ですが、私は褒美をいただかなくても、雪答応さまに忠誠を誓う所存です。これからも、答応さまに尽くすよう精一杯努力いたします」
ひざまずく燕子を、慧雪は見下ろした。
演技でもなんでもなく、彼の忠誠は本物だと信じていい。
「燕子、顔をあげて」
「はい」
「桂花糕が用意できたら、あなたに付き合ってもらいたいところがあるの。頼めるかしら」
「かしこまりました。ですが、これから雨が降ります。冷たい風に当たられてはお身体によくありません」
慧雪は空を見上げる。確かに、雲行きが怪しくなってきた。
「用事はすぐに終わるわ」
「では、急いで御膳房に行って参ります!」
―――――― ‥―― ‥――‥
周りの音を消すくらい、激しい雨が降っている。すでに夜遅い時間だ。みな寝静まり辺りはしんとしていた。
なのに、一人だけ暗闇の中、雨に打たれ雑務をこなす下女がいる。
再び辛者庫を訪れた慧雪は、淡々と仕事をこなす常夜の姿を見る。
先日、常夜に差し入れを渡した時も雨が降っていた。
いいえ、思えば幼い頃、あなたと初めて出会った時も雨が降っていたわね。
「あの方に、この桂花糕をお渡しすればいいのですね」
余計なことは聞かず、そして言わず、燕子は命じたことに従う。
燕子の後に慧雪も続く。
こちらの気配に気づいた常夜は仕事の手を止め、その場にひざまずいた。
「顔を上げて」
慧雪は常夜を立たせようと手を伸ばす。しかし、常夜が首を振り身を引いた。
「私のような卑しい者に触れてはいけません。それに、きれいな衣が汚れてしまいます」
常夜の着ている服は汚れていた。鼻をつく饐えた臭いもする。それでもかまわず慧雪は常夜の手を取り立たせた。
常夜は恐縮したように頭を下げ顔を伏せる。
「雪答応さまですね。先日は菓子と食事をありがとうございました。感謝の言葉もありません。ですが、辛者庫は高貴な方が来るような場所ではありません。どうかお引き取りを。それに、夜も遅い時間です。後宮内とはいえ、何があってもおかしくないですから」
そう言って常夜は燕子を見る。
「はやく、答応さまを宮殿に送ってさしあげなさい。何かあってからでは済まないのよ」
はい、と燕子は頷き、手にした提盆を常夜に渡す。
「雪答応さまからです」
提盆の蓋をあけ、中身が自分の好物だと知ったものの、常夜は不思議そうに眉根を寄せる。
「雪答応さまのご厚意に感謝いたします。ですが、見ず知らずの私にここまでしてくださる理由が分かりません」
見ず知らずではないのだ。
「雪答応さま?」
慧雪は泣きそうになった。
子どもの頃から、姉妹同然に育ってきた常夜。
常夜、あなたは幼い頃からともに育った大切な侍女。いいえ、妹だと思っている。
明夜がいない今、あなたまで失うわけにはいかない。
「常夜、今まで辛い思いをしてきたわね。けれど、辛者庫での務めは終わりよ」
「はい?」
「今日から暁月宮の、私の女官として働きなさい」
「え? ですが……私は罪人です」
「あなたが罪人だと私は思っていないわ。それとも私の宮に来るのは嫌?」
「と、とんでもございません! 私などでいいのでしょうか」
「もちろん」
常夜はその場にひれ伏した。
「雪答応さまに感謝いたします」
慧雪はそっと荒れた常夜の手をなでる。
慧雪の流した涙が、常夜の手の甲に落ちた。




