9 天と地の差
「まあ、かび臭い所。埃もすごいわ。こんな陽も当たらない部屋で暮らしているなんて、雪蘭、あんたも憐れね。お気の毒さま」
嫌味たっぷりの口調で現れたのは、数名の侍女を引き連れた焔貴人こと、慈桂であった。
口元を手巾で覆い慈桂は、わざとらしく眉根を寄せる。同じ暁月宮で暮らす慈桂は、こうしてことあるごとに慧雪の元にやって来ては絡んできた。
強引に選抜試験を受け、奇跡的に合格し、思いもがけず貴人の位を得た慈桂は、今や陛下の寵妃として後宮内でもっとも勢いに乗り始めている。その証拠に、纏っている衣も身を飾る装飾品も、目を見張る豪華さだ。それもすべて陛下から賜ったもの。
寵妃となった慈桂の後宮生活は華やかで、多くの者がご機嫌伺いに、あるいはごますりに彼女の元に集まり、賑やかであった。
一方、姉妹で同じ時期に後宮に入ったにもかかわらず、慧雪の生活は妃とは思えないほど寂しいものだった。
「まるでここは、冷宮ね」
その言葉に、慈桂の侍女たちは肩を揺らし嗤う。だが、嗤っていたのは彼女たちだけではない。慧雪に仕える侍女たちも、口元に冷ややかな笑いを浮かべていた。
まだ夜伽を命じられていない慧雪は、妃としても位が低く、宮殿の片隅に追いやられ、慈桂の言う通り、日々の暮らしは冷宮にいるかのよう。侍女や太監たちは、慧雪を敬うどころか、あからさまに軽んじている。
「素敵……」
側仕えの侍女の小鈴が、慈桂の簪を見て驚きの声をあげた。
「おまえ! 焔貴人さまをまじまじと見るなんて無礼な女ね!」
「桐梨」
慈桂は笑いながら自分の侍女を止める。
「いいのよ。この簪を見て驚くのも無理はないもの。ふふ、陛下から賜った銀細工よ。陛下は私のことをとても可愛がってくださるの。私が欲しいと言ったものは、何でも与えてくださるわ」
「焔貴人さま、そろそろ参りませんと、遅れてしまいます」
桐梨が呟く。
「あら、もうそんな時間? 久しぶりに義妹とお茶を飲みながら語り合いたいと思っていたけれど、行かなければ。今日は紅貴妃さまから観劇の招待を受けたの。今、都で人気の劇団を招いたそうよ。楽しみだわ」
紅貴妃に気に入られていることを慈桂は自慢する。陛下に寵愛され、さらに紅貴妃と親しい仲となれば、後宮で何も怖いものはない。
「気が向いたら、また来るわ」
衣の裾をさっとひるがえし、慈桂は去って行く。その後ろ姿を見やり、慧雪は苦笑いを浮かべる。
陛下に寵愛されているだけあり、徐家の屋敷にいた頃に比べると、立ち居振る舞いは妃らしくなったように見えた。だが、それは上っ面だけ。滲み出る粗野さは隠せない。
せいぜい、鑑賞中に居眠りをしないことね。
小鈴を始め侍女たちは、慈桂を見送りながらこそこそと言い合う。
「同じ徐家の令嬢に仕えるなら、陛下の寵愛を受け、みんなから一目置かれている焔貴人さまに仕えたかったわ」
「姉妹なのに、天と地ほども差があるものね」
「ほんと、雪答応さまに仕えている限り、私たちも後宮で肩身の狭い思いを抱くだけ」
侍女頭の小鈴でさえ、慧雪に対して明らかにバカにした態度をとり、横柄に振るまうようになった。だがそれも仕方がないこと。後宮内での主の立場が弱ければ、よほど忠義に厚い侍女でない限り従わない。
後宮とはそういうところだ。
ある日、小鈴は御膳房から慧雪の料理を運んできた。それを卓に並べ部屋を見渡す。
「雪答応さまはどこに?」
小鈴の問いかけに、部屋の掃除をしていた別の侍女が首を傾げる。
「さあ、散策に出かけられたのでは」
すると、小鈴はムッとした顔をする。
「せっかく食事を持ってきたのに、冷めちゃうじゃない! あんたたち行き先くらい把握してよ」
「そう言われても」
「私たちも仕事があるし」
「仕事? そんなの適当にやればいいのよ。雪答応さまがあんなんだから、あたしたちもそれなりの仕事でいいの。要領よくやりなさい」
「それもそうね」
慧雪の目の届かない所では、小鈴を始め他の侍女や太監たちも、ここぞとばかりに仕事をサボった。ただひとりを除いて。
「あの……雪答応さまなら、花園の散策にお出かけに……」
まだ少年の面影を残す、一人の太監が、おずおずといった様子で小鈴に告げる。
「一人で?」
「お供をすると申し出たのですが、一人になりたいと断られて……」
つい最近後宮にやって来た宦官見習いで、小柄で整った顔立ちの美少年だ。名を小燕子といい、貧しい家を少しでも助けたいと願い自ら宦官になることを望んだ少年であった。新人だということで周りからいいようにこき使われているが、よく働く真面目な性格だ。
「おまえもクソ真面目に働くなんてバカバカしいぞ」
「そうだ、そうだ。こっちに来て一緒に飲もうぜ。酌をしてくれよ」
先輩太監たちが小燕子を飲みに誘う。
「いえ、私はお酒が飲めませんので」
手を振り、燕子は内務府に行く用事があると言って逃げるようにその場から去って行く。
「ふん!」
小鈴は並べた料理から肉をつまんで口に放り込む。
「つまみぐい!」
「いいじゃない。少しくらい食べたってバレやしないわよ」
口元を歪めて言い、今度は酒杯を取り酒を飲み干す。
「真面目に働いているのがバカらしくなるわ。だいたいあたしらが粗末なものしか食べられないのは、寵愛のない雪答応さまのせい。少しくらいつまみ食いしたところでバチは当たらないでしょ」
「それもそうね。じゃあ、私はこの菓子を食べちゃおう」
「どんどん食べなよ」
「ん! このお菓子、すごくおいしいわ! 底辺でカスな妃でも、あたしらよりはいいものを食べているものね」
「だけど、あたしたちがこんなことをしていてもまったく気づかない雪答応さまも鈍感というか、バカよね」
「しょせん、お嬢さま育ちだから」
「だから扱いやすいのよ」
侍女たちは互いに顔を見渡し嗤った。
「あの者たちは?」
紅貴妃の観劇会に誘われやって来た茗皇貴妃は、偶然目にした光景に眉根を寄せる。
茗皇貴妃の視線の先には、飲み食いをしながらばか騒ぎをしている侍女たちの姿が映っていた。
「お答えします。雪答応さまに仕える侍女と太監です」
そこへ、花園の散策から戻って来た慧雪が、茗皇貴妃に挨拶をする。
「茗皇貴妃さまにご挨拶を」
「顔をあげなさい」
「感謝いたします」
「ところであれは何かしら」
茗皇貴妃は小鈴たちを見る。
「申し訳ございません。私が不甲斐ないせいでお見苦しい所を見せてしまいました。そのことで、茗皇貴妃さまにお願いがあります」
「こんな場所で皇貴妃さまにお願いなど……」
慧雪を窘める侍女であったが、茗皇貴妃に止められ口を噤む。
「お願いとはなにかしら。言ってみなさい」




