1 雪蘭としての人生
「ここが、徐家」
徐府と書かれた扁額を見上げ、雪蘭は屋敷の門前に立つ。
剣で斬られた傷を背中に負い、血を流しながらも、毅然とした姿で門の向こうに構える屋敷を見据える。
ここから、私の新しい人生が始まる。
雪蘭としての人生を。
屋敷に仕える奴婢の一人が、雪蘭の姿を見つけ声をあげた。
「だ、だ、だ、旦那さま! 雪蘭さまがお帰りになりました!」
「行方不明になったお嬢さまが!」
たちまち屋敷中がざわついた。
奴婢の声を聞き、屋敷中の者がわらわらと門に集まって来る。その中に奴婢とは明らかに違う、着飾った二人の女性が現れた。
一目で高貴な身分の者だと分かる格好だ。
一人は中年の女。もう一人は雪蘭と同じ年頃の少女。
「夫人、雪蘭さまがお戻りに!」
着飾った女の一人は徐家の夫人。
もう一人は、夫人の娘であった。
夫人は口を開け、目を見開く。さらに、夫人の隣にいた少女がひっと悲鳴をあげ、顔を強ばらせた。
雪蘭は目を細め、夫人と少女を交互に睨みつける。
「私が戻ってきて驚いているようね。お義母さま、慈桂お義姉さま」
「ま、まさか、生きていたなんて……」
慈桂と呼ばれた少女の口から、そんな言葉がもれたのを雪蘭は聞き逃さなかった。
雪蘭は口元に笑いを刻み、続けて言う。
「これからは、おまえたちの思い通りにはさせない」
そう言い切った次の瞬間、雪蘭はその場に崩れるように倒れた。
雪蘭――いや、この身体に宿ったのは慧雪の魂。
その慧雪の脳裏に、雪蘭の記憶が流れ込んできた。
・―――――― ‥―― ‥――‥・
濁った灰色の空から、雪がしんしんと舞い落ちる。
寒空の下、雪蘭と雪蘭の母、楊花憐は雪で湿った地面に跪き瑛如琳の怒りが解けるのを待ち続けた。
瑛如琳は徐家の当主である父、黄渓の側女で、雪蘭の母が正妻として嫁ぐ前からこの屋敷にいた。
黄渓と如琳は幼なじみで、二人は子どもの頃から心を寄せ、互いに婚姻の約束をしていた。だが、如琳の生家は貧しく、父親の官位も低いため、名家である徐家の正妻に相応しくないと、当時の徐家の大奥さま(黄渓の母)に婚姻を大反対された。
黄渓は根気よく母親を説得し、結果、徐家の正妻として高官の娘である楊花憐と婚姻を交わすことを条件に、如琳を側女として迎え入れることが許された。
正妻として華々しく婚儀を行った楊花憐に対し、如琳は誰からも祝福を受けることなくひっそりと徐家に嫁いだ。
大奥さまは正妻である楊花憐をかわいがり、一方、側女の如琳はあからさまに虐げた。
それでも如琳は大奥さまに気に入られようと努力したが、それが無駄だと知ると、屋敷内で息をひそめるように、ひっそりと暮らすようになった。
そんなある日、徐家の大奥さまが病で倒れ亡くなった。
そこから、正妻と側女の立場が逆転した。
家柄が卑しいと周りから詰られた如琳だが、彼女は皆が思っていたほど愚かではなかった。
彼女はおとなしく離れの部屋で息をひそめていると思わせ、その実、いつかこの日が来ることに備え徐家のすべてを掌握するため、寝る間も惜しみ屋敷のことを学んでいた。
大奥さまが亡くなったと同時に、正妻である花憐を押しのけ、如琳は屋敷の差配をこなし、多くの使用人たちを従え、逆らう者には罰を与えた。それでも従わない者は人買いに売り飛ばした。
良家の令嬢として、大切に育てられてきた花憐に、徐家の不測の事態を切り盛りする手腕はなく、それが、彼女の命運を分けることになった。
正妻でありながらも花憐は如琳に虐げられ、使用人以下の扱いを受けた。
狭くて暗い部屋に押しやられ、食事も野菜のクズが入った冷めた粥。どんなに寒い冬の日も炭を与えられず、花憐は薄い布団にくるまり寒さをしのいだ。あまりの寒さに風邪をひいても医者に診せてもらえることなく、熱があっても如琳の言いつけで屋敷の仕事を手伝わされた。
ご令嬢である花憐に、屋敷の雑事などできるわけがなく失敗すると如琳に叱られ、使用人たちの見ている前で庭に跪かされることも度々あった。
それだけではない、如琳に逆らえば、棒打ちの処罰を受けることも。
まるでこれまで自分が虐げられた恨みを晴らすかのように、如琳は花憐に辛くあたった。
元々、花憐に愛情を抱いていなかった黄渓は、正妻が如琳に虐げられるのを、見て見ぬ振りを決め込んだ。
今では屋敷の者は如琳を恐れるようになり、憐れんで花憐の肩を持とうものなら、即刻その者は、人買いに売り飛ばされた。
今や如琳は徐家の女主人のように、我が物顔で支配するようになった。
如琳には娘が一人いる。
名を慈桂といい、雪蘭よりも二つ年上の十四歳だ。
彼女もまた母である如琳と同じように、我が儘で横柄な振る舞いをする娘であった。
慈桂は正妻の子である雪蘭をとにかく嫌い、ことあるごとに辛くあたった。




