5 懐かしの暁月宮
まさか、常夜があんな酷い嫌がらせを受けていたとは。
常夜の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
『私のことは何を言われてもかまわない。けれど、雪貴妃さまのことを悪く言うのは絶対に許さない。それに、雪貴妃さまは無実。陛下を裏切るような真似はしていない!』
常夜、私のことを信じてくれていたのね。
泣きそうになるのを堪えるように、慧雪は口元に手巾を当てた。
立ち止まったまま、辛者庫で働く宮女を見つめていた慧雪に、小鈴が首を傾げた。
「雪答応さま、どうかされましたか?」
「あの者は……」
慧雪の視線の先を見て、小鈴がああ……と声を落とす鼻で嗤う。
「あの女はかつての寵妃の侍女だった者ですわ。主が不通の罪をおかし処刑されたため、あの者は辛者庫に送られ、毎日雑務をこなしているんです」
「ずいぶん、ひどい扱いのようだわ」
「当然です。罪人だった妃の侍女だもの。本来なら主とともに処刑されてもおかしくないのに、運がいいことにああして生き延びている。命があっただけでもありがたいと思わなければ。もっとも、あんな扱いを受けるくらいなら、死んだ方がましだったかも。だって、惨めすぎるもの」
小鈴は肩を揺らしてクツクツと嗤う。
「罪人を気にかけても仕方がないですわ。宮中にはそういう処遇の者なんてたくさんいるのだから。あら、雨が降ってきそう。はやく戻りましょうよ、雪答応さま」
小鈴に促され歩き出す。
歩きながら慧雪は振り返り常夜を見る。
待っていて、常夜。
必ず、あなたを迎えにいくから。それまで、もう少しだけ辛抱して。
―――――― ‥―― ‥――‥
慧雪と慈桂は、紅貴妃が暮らす暁月宮に辿り着いた。
慧雪は懐かしむ目で、暁月宮を見渡す。
ここは、私がいた宮殿。
庭の景観も建物の雰囲気も、今の主である紅貴妃の好みに変えられ、昔の面影はほとんど残されていない。それでも漂う雰囲気はあの頃のまま。例えば、陛下から賜った銀木犀の木。池に咲く蓮の花。そこにしつらえた東屋。東屋ではよく、陛下のために舞を舞った。
慧雪は厳しい目で本殿に視線を据える。
かつて私が暮らしていた本殿。
「雪答応さま?」
本殿に視線を向け立ち尽くす慧雪を、小鈴が訝しむ顔で声をかけてきた。
「ええ、なんでもないわ」
「ここがは暁月宮の本殿、紅貴妃さまがいらっしゃる所ですわ。本当に素敵な宮殿ですよね。本殿の右隣の偏殿が焔貴人さまの宮です」
「私はどこかしら」
「その……雪答応さまの宮は」
小鈴は口ごもる。つまり、自分に与えられた部屋は、そんなにひどい場所なのか」
「かまわないわ、案内して」
「はい……こちらです」
案内する小鈴に続く。
そこは暁月宮の外れにある、人も寄りつかなさそうな場所であった。部屋というよりも物置小屋に近い。
部屋に入った慧雪は、ぐるりと周りを見渡した。
「ここが、私の部屋」
慧雪は鼻のあたりを手巾で押さえる。
光の届かない薄暗い部屋は、カビと埃の臭いが充満していた。荒れた室内、染みついた埃と汚れ。天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。調度品も壊れているものがあった。
慧雪は卓の上に積もった埃を指でなぞる。
「ええと、掃除はしたのですが……窓を開けますね」
言い訳がましく小鈴は言い、窓を開け部屋の空気を入れかえる。立て付けの悪い扉が不愉快な音をたてた。
「今すぐ部屋をきれいにして」
「え? 今からですか」
小鈴はあからさまに嫌な顔をする。
「扉の修理も忘れずに。それから内務府に行って新しい布団を。それと、温かい食事と桂花糕を作ってもらって」
「桂花糕ですか? 御膳房に行って作ってもらえと」
「何か問題でも?」
小鈴は苦笑いを浮かべる。
「後宮に入ったばかりの雪答応さまはご存知ないかもしれないですが、御膳房で料理を作ってもらうには、それなりの……」
「それなりの、なに?」
「宮廷では、いろいろしきたりがありまして……」
慧雪は口の端を持ち上げ笑う。
「そうね、私は後宮に来たばかりで、何も知らなかったわ。あなたがいてくれて本当に助かるわね」
そう言って、慧雪は手首から腕輪を外し小鈴に渡す。途端、小鈴は態度をころっと変えた。
「雪答応さまのためですもの、なんとしてでもご用意いたします! あなたたち」
小鈴は後ろに控える侍女や太監たちを見る。
「内務府に行き新しい布団を用意してもらって。それからおまえは、御膳房で桂花糕を作ってもらうように頼んでくるの。雪答応さまがご所望だと言うのよ。残った者はすぐに部屋の掃除を! おまえは」
小鈴は太監を指差す。
「扉の修理よ! 急いで」
侍女頭を気取り、小鈴が指示を出す。
銀子で操れるのなら容易いことだ。信用はできないが、いずれ切り捨てるつもりで扱うのなら後腐れがなくていい。
慧雪は窓辺に寄り、本殿のある方角を見据えた。
いつか私はそこに行く。
必ず、取り戻してみせる。
復讐のために、
そして、愛する人の思い出を取り戻すために――。




