4 雪蘭という少女
真夜中。
後宮の外れにある門が開いた。
中からガラガラと音を立て、二人の男が荷車を引きながら現れる。
尸門と呼ばれるその門は、身寄りのない宮女や、罪を犯した妃嬪たちが死んだ後、捨てられる死者の門であった。
門を出ると、目の前には深い森が広がっている。森はぽっかりと暗い口を開け、屍人を誘い飲み込んでいく。
荷車にかけられた藁の敷物がずり落ちた。
荷台には女の遺体が乗せられている。
毒杯によって処刑された雪貴妃の亡骸だ。
雪貴妃を乗せた荷車は森の中を進み、しばらく行ったところで停止した。
立ち止まった男たちの足元に穴が掘られている。
彼らは無言で荷車に積まれた雪貴妃の骸を穴に投げ落とした。雪貴妃の身体が穴の斜面を転がり落ちていく。
男たちは身を乗り出し穴の中を覗きこむ。互いに頷き合うと、来た時と同じく無言で立ち去った。
夜の静寂を震わす風の音。その風に吹かれ木々が揺れ、枝葉が擦れカサカサと音を立てた。
「う、うぅ……」
雪貴妃の唇から呻き声がもれた。
震えるまぶたがゆっくりと開く。
真っ先に目に飛び込んだのは、覆い被さる木々の隙間からのぞく丸い月。月明かりが光の帯となり、穴の底を照らした。
「私、生きている」
目尻から涙が落ちる。
指先を動かすと、何か冷たい感触のものが触れた。
簪であった。
それは李鶯陛下から寵愛の証として下賜された、雪の結晶の形をした簪。
慧雪は簪を月に照らした。
こんなもののために、私は妃嬪たちから恨まれ殺されかけた。こうして助かったのは奇跡。
いいえ。
毒酒を賜ると聞き、幼い頃、薬師の元で薬草の知識を学んだ慧雪は、あらかじめ解毒薬を飲んでいた。
刑吏に呼ばれ、急いで飲み込んだ丸薬がそれだ。とはいえ、毒で身体が弱り危険な状態であることには変わらない。それ以上に、こうして生きていることが皇宮の者たちに知られたら、今度こそ確実に殺される。
はやくここから逃げなければ。
穴から這い上がるため立ち上がる。
鉛のように身体が重い。足の自由がきかない。毒のせいで、めまいと吐き気がする。意識が遠のき、今にも倒れそうだ。倒れたら最後、二度と立ち上がれないだろう。
こんなところで死にたくない。
生きたい。
生きたい!
歯を食いしばり、土を掻き、慧雪は穴の上を目指し這い上がっていく。
それほど深い穴でなかったのが救いだ。
ようやく穴から這い上がった慧雪は、肩で大きく息をした。瞬間、激しく咳き込む。大量の血が吐き出された。
解毒の効果が足りないのだ。毒が回る前にきちんと適切な治療をほどこさなければ、本当に死ぬ。
「何か薬草を……せめて、十薬があれば……」
解毒になる薬草を探そうと歩き出したその時、側の茂みから物音がした。
慧雪はびくりと肩を跳ねる。
宮中の誰かが、自分の死を確認するためにやって来たのか。
再び草木が揺れ、慧雪は身がまえる。
しかし、そこから現れたのは、一人の少女であった。
格好を見ると宮中の者ではない。村の娘だ。
「あなた……」
慧雪は息を飲む。
少女の姿はひどいものであった。着ている衣は血で汚れ、ボロボロ。足元を見ると裸足だ。
「助けて……」
足を引きずり少女が歩み寄ってくる。
前のめりに倒れた少女の身体を、慧雪は咄嗟に支える。
少女の背中に、剣で斬られた傷があった。血だらけなのはそのせいだ。
「大丈夫……!」
さらに、少女の顔を見た慧雪は目を見開く。
その顔に見覚えがあったからだ。
昔、まだ後宮にあがる前、身体の弱かった慧雪は実家を離れ景恵という田舎町で養生していた。そこで出会った少女だ。
名を――。
「雪蘭、あなた雪蘭ね!」
よく覚えている。
難産で身体の弱った母親に飲ませる薬草を探していた雪蘭に、慧雪は滋養に効く薬を分け与えたのだ。
名を呼ばれた雪蘭は薄く目を開けた。
「……慧雪さま?」
消え入りそうな声であった。
「ええ、そうよ」
ああ……と安堵の声をもらし、雪蘭は涙をこぼす。
「最期に慧雪さまにお目にかかれるなんて、私は幸せ者です」
「しっかりして、この傷はどうしたの? 賊に襲われたの?」
だとしたら、賊が追いかけて来る可能性がある。はやくここから離れなければ。
「しっかりして!」
そういう慧雪自身も、一刻もはやく解毒剤を飲まなければ危うい状態だ。
手を伸ばしてきた雪蘭の手を、慧雪は握りしめる。
「医者に連れて行くわ。大丈夫、傷は浅いから助かる。気をしっかり持って!」
しかし、雪蘭は弱々しい笑みを浮かべるだけであった。
「いいのです。これ以上生きていても辛いだけ……」
「いったい、何があったの?」
「母を殺されました。側室に……弱った母を父は少しもかえりみることはなかった。私も義姉に陥れられ……命を狙われる羽目に。もう死んでしまいたい」
母が殺された?
つまり、その昔、雪蘭に滋養の高い薬草を分けたが、結局、助からなかった。
「何を言うの。あきらめてはだめ!」
医者に診せれば雪蘭はまだ助かる見込みがある。一方、自分の命は消えかけようとしている。
目の前がかすむ。息をするのも苦しい。手足に力が入らない。
今の私には、雪蘭を医者の所に連れて行くこともできない。
なんて、もどかしい。
「雪蘭、あなたはまだ助かるわ。きちんと医者に診せて手当を受ければ助かるの。だから希望を持って! あきらめてはだめ!」
慧雪の励ましにも雪蘭は首を横に振るばかり。その目に希望の光が蘇ることはない。生きようとする気力を失っている。
「死んで楽になりたい。来生こそは、人並みに幸せな人生を送りたい……」
彼女の身に何があったのか、詳しいことは慧雪には分からない。
よほど辛い目にあってきたのだろう。こうして命を狙われるほどに。それゆえ、雪蘭は死を願い、楽になることを望んでいる。
この世に絶望し、消えゆく雪蘭の命に慧雪は言う。
「ならば、あなたのその身体を私にちょうだい!」
自分の口からこんな言葉が出るとは思いもしなかった。
驚いたふうもなく、雪蘭は微笑む。
「難産で苦しむ母に薬草を分けてくださった慧雪さまの優しさは、今でも忘れておりません。あの時、受けたご恩は必ず返すと誓いました……私のような者の身体でよければ……慧雪さまに差し上げます。好きに使ってください……」
慧雪は雪蘭の手を握りしめる。
「私が雪蘭の無念をはらしてあげるわ。あなたにひどい仕打ちをしてきた奴ら全員、一人残らず、私が復讐すると約束する!」
「慧雪さまが、私の代わりに復讐を?」
ええ、と慧雪は頷き雪蘭の手をさらにきつく握りしめる。
あなたの身体を私が貰い、代わりに私があなたの無念を晴らす。
そして、私自身の復讐も。
「慧雪さま、ありが……」
瞬間、慧雪の身体がびくりと跳ねた。口から大量の血を吐き出す。
毒が回ったのだ。
もう、この身体は助からない。けれど私の魂は今生に残る。
慧雪の生きるという強い執着が、奇跡を起こす。
私は死なない。
私を陥れた者たちに復讐をするためにも、こんなところで死んだりしない。
必ず生き延びてみせる。
必ず。
・―――――― ‥―― ‥――‥・
――ザッ、ザ……。
誰?
薄れていく意識の中で、何者かがこちらに近寄る足音が聞こえた。
夜も更けた頃、一人の女が尸門に現れた。
宮中の者だ。
真夜中、大の男でも恐れる不吉な場所に、女が一人でやって来るとは肝が据わっている。
女は口元に手巾を当て、眉間に深いしわを刻む。
地面にうつぶせで横たわる雪貴妃の亡骸を、女は足で蹴る。雪貴妃の身体は抵抗なく転がった。
「ふ、もしかしたら、しぶとく生き延びているのではと思って確かめに来たけれど、さすがに死んだようね」
女は雪貴妃の顔をじりじりと足で踏みつける。
「惨めで無様な最期だこと。いい気味だわ!」
女は高らかに声をあげ嗤った。




