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第八話:最初の依頼、森の主

冒険者ギルドの壁を埋め尽くす依頼書クエストボードの前で、ルシアンは腕を組んでいた。彼は数ある依頼の中から、一枚の羊皮紙を剥がした。

「『薬草採取』か……」

「えー? もっとこう、魔物退治みたいな派手なやつがいいなー」

エリアナが不満げに頬を膨らませる。

「最初は、こんなもんだ」

ルシアンは短く答えた。エリアナの初陣で、いきなり実戦は危険すぎる。それが、彼がこの依頼を選んだ理由だった。


二人が宿屋に戻り、依頼の内容をブレンナに報告すると、彼女は厳しい顔で言った。

「待ちなさい。その格好で森へ行くつもりですか?」

ブレンナの視線は、普段着のままの二人、特に護身用のナイフしか持たないエリアナに向けられていた。

「森を甘く見てはいけません。薬草がある場所には、それを狙う魔物や獣がいるのが道理です。王都の騎士団ですら、森に入る時は必ず革鎧の一つも身に着けるものよ。今のあなたたちでは、木の枝で体をかすめただけでも大怪我に繋がるわ」

その言葉には、ただの心配だけではない、確かな経験に裏打ちされた重みがあった。

「……分かった。何か装備を整えよう」

ルシアンは、母の助言に素直に従った。


クロスロードの武具通りは、活気と鉄の匂いに満ちていた。きらびやかなショーウィンドウに最新の武具を並べる店もあれば、路地に所狭しと中古品を並べる店もある。

「うわー、かっこいい剣! ねぇルシアン、これなんてどうかな?」

エリアナが目を輝かせるが、値札に書かれた「銀貨50枚(5万G)」の文字を見て、ルシアンは静かに首を振った。それは、彼らの全財産の20分の1に相当する額だ。初仕事も終えていない今、そんな贅沢は許されない。

彼らが入ったのは、使い古された武具や革製品を扱う、実用本位の店だった。店主と交渉し、二人はなんとか最低限の装備を揃えた。


ルシアンは、体の重要な部分を守る、シンプルな革の胸当て(8,000G)。エリアナは、華美な装飾はないが、軽くて扱いやすそうなショートソード(6,000G)。その他、傷薬や解毒薬、頑丈なロープといった消耗品を合わせて、支払いは銀貨15枚(15,000G)を超えた。

ギルドの登録料と合わせ、まだ何も稼いでいないうちから大きな出費が続く。二人は、最初の依頼を必ず成功させなければならないというプレッシャーを、ずしりと感じていた。


ブレンナに見送られ、二人はクロスロード郊外の森へと足を踏み入れた。

クロスロードの森は、故郷の森とは全く違う表情を見せていた。見たこともない、鮮やかな青色に光るキノコや、人の顔ほどもある巨大な花々。

「わ、見てルシアン! このお花、すっごく綺麗! でも、なんだか甘い匂いがしすぎて、ちょっと気持ち悪いかも……」

「触るな、エリアナ。毒があるかもしれない」

無邪気にはしゃぐエリアナと、常に周囲への警戒を怠らないルシアン。その対照的な姿は、どこか奇妙で、しかし不思議なバランスを保っていた。ネロは、そんな二人の間を気ままに歩き回っている。穏やかな木漏れ日の中、初めての「冒険」は、まるでピクニックのようで、森での薬草採取は、順調そのものだった。

「あ、これじゃない? ブレンナが言ってた、葉っぱの裏が銀色に光る草!」

エリアナは持ち前の明るさで、退屈な作業を楽しみながらこなしていく。



森の少し開けた場所で、目的の薬草の群生地を見つけた。葉の裏が、月の光のように銀色に輝いている。

「やった! あったよ、ルシアン! これで依頼達成ね!」

エリアナは、一番大きく育った薬草に駆け寄り、その場にしゃがみ込んだ。楽しい時間はあっという間だ。早くこれを持ち帰って、ブレンナを安心させてあげたい。そんなことを考えながら、彼女が薬草に手を伸ばした、その瞬間だった。


空気が、凍った。


ザシュッ!


今まで聞こえていた鳥の声も、風の音も、全てが消え失せる。エリアナの目の前の地面が、まるで悪夢のように擬態を解き、巨大な鎌が彼女の喉元を狙って振り下ろされた。

枯れ葉と同じ色をしていたそれは、巨大なカマキリに似た虫型モンスター「グレイブ・マンティス」だったのだ。

「きゃっ!」

エリアナは反射的に後ろへ飛びのき、剃刀のような一撃を紙一重で回避する。だが、敵の殺意に満ちた複眼が、次の獲物として彼女を捉えていた。

ヒュッ、ヒュッ、と空気を切り裂く音が連続する。マンティスの両鎌が、恐るべき速さで繰り出される。エリアナは持ち前の運動能力でそれを必死に避けるが、防戦一方で反撃の糸口すら掴めない。頭が真っ白になり、手足が震える。これが、本物の殺意。本物の、死の恐怖。


「エリアナ!」

ルシアンの声が飛ぶ。同時に、地面から数本の蔦が蛇のように伸び、マンティスの足に絡みついた。動きを鈍らせ、巨大な鎌の振りを封じる。その隙を、黒い影が駆け抜けた。ネロだ。彼の俊敏さは、魔物をも翻弄し、その意識をルシアンから逸らした。

好機だった。ルシアンとネロが、絶好の機会を作ってくれた。

だが、エリアナの体は動かなかった。

(戦わなきゃ……! 剣を、抜いて……!)

頭では分かっている。でも、腰のショートソードに手を伸ばすことすらできない。目の前で蠢く、異形の怪物。その圧倒的な存在感が、彼女の思考を麻痺させていた。


「エリアナ、今だ! やれっ!」


ルシアンの、腹の底からの叫び声が、彼女の耳を突き刺した。

その声に、金縛りが解けた。恐怖は消えない。だが、ルシアンの声が、彼女の心に一本の芯を通した。

(私が、やらなきゃ……! ルシアンに、守られてるだけじゃダメだ!)

彼女は震える手で、もつれるようにショートソードを抜き放った。構えも、狙いも、何もあったものではない。ただ、がむしゃらに。

「うあああああああっ!」

雄叫びにも似た声を上げ、蔦に拘束されてもがくマンティスの、硬い外殻の隙間――関節部分に、無我夢中で剣を突き立てた。


ギチィッ、という骨が砕けるような嫌な音と共に、マンティスは緑色の体液を撒き散らして激しく痙攣し、やがて完全に動かなくなった。


「はぁ……はぁ……っ……あ……」

初めて自らの手で魔物を倒した達成感よりも、命を奪った生々しい感触と、まだ残る恐怖に、エリアナはその場にへたり込んだ。


そんな彼女の横を、ネロが静かに通り過ぎ、マンティスの亡骸に近づいた。そして、その頭部に小さな口を押し当てる。

すると、信じられない光景が広がった。

マンティスの硬い外殻が、まるで砂のようにサラサラと崩れ始め、その存在そのものが淡い光の粒子となって、ネロの体へと吸い込まれていく。

「な……なに、あれ……?」

エリアナは、目の前の超常現象に言葉を失った。


光が収まると、ネロは満足げに「にゃあ」と鳴いた。ルシアンが、そんなネロを見ながら、静かに口を開く。

「ネロは……ただの猫じゃない。俺の、もう半分の魂みたいなものだ」

「もう半分……?」

「ああ。俺には創り出す力がある。そして、ネロには……奪い取る力があるんだ」

その言葉と同時に、ルシアンの脳裏に、新たな感覚が流れ込んできた。それは、マンティスが持っていた、鋭く、効率的に敵を切り裂くための、無駄のない動きの知識。まるで、舞うように敵を斬り刻む、恐るべき斬撃の技術だった。


【スキル:ブレードダンスを獲得】



エリアナが、ネロの起こした現象とルシアンの言葉の意味を理解できずにいる、その時だった。


ドクン。


不意に、心臓が大きく跳ねた。いや、違う。地面が、ほんのわずかに、しかし確かに、脈打ったのだ。

風が止み、鳥の声が消える。さっきまでの静寂とは違う、まるで森全体が息を殺して何かに怯えているかのような、不気味な沈黙が支配した。


ズン……。


今度は、もっとはっきりと。地面が揺れ、遠くの木々がざわめく。何かが、こちらに近づいてくる。ゆっくりと、しかし着実に。それは、獲物をいたぶるように、逃げ場のない恐怖をじわじわと浴びせかけてくる、絶対的な強者の歩みだった。


エリアナの顔から、血の気が引いていく。マンティスとの死闘で張り詰めていた糸が、新たな恐怖によって、ぷつりと音を立てて切れた。

「……いや……」

木々の向こう、影が蠢く。それは、もはや魔物という個体ではない。森そのものが、巨大な絶望となって、彼女に迫ってくるようだった。


ズウン……!


木々をなぎ倒し、ついにその巨体が姿を現した。

巨大なクマ型モンスター「レイジ・ベア」。その体躯はマンティスの比ではなく、全身が傷だらけで、片目は潰れている。だが、その絶望的な威圧感の前では、そんな傷すらも歴戦の勲章のように見えた。銅ランクの冒険者が遭遇して、生きて帰れるレベルを遥かに超えている。


「あ……あ……」

エリアナの瞳から光が消え、その体は糸が切れた人形のように、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。


「エリアナ!」

ルシアンが叫ぶが、彼女はもう答えない。レイジ・ベアは、そんな小さな獲物には目もくれず、ただルシアンだけを、その憎悪に満ちた瞳で捉えていた。

ルシアンが気を引きつけている、そのわずかな隙に、ネロが動いた。気絶したエリアナの服を口で咥え、引きずるようにして、なんとか近くの木の影へと運び込む。


「……ネロ、助かった」

ルシアンは、エリアナが無事なことを確認すると、レイジ・ベアと真っ直ぐに向き合った。

グオオオオォォッ!

雄叫びと共に、死闘の火蓋が切られた。


ルシアンは【星命創造】の力で地面から無数の鋭い木の槍を突き出させる。だが、レイジ・ベアはそれを意にも介さず、強靭な毛皮で弾き飛ばす。ネロがその俊敏さを活かして足元を駆け抜け、注意を引こうとするが、レイジ・ベアは一瞥もくれず、ただルシアンだけを殺そうと爪を振るう。

人狼の力で強化された身体能力を以てしても、攻撃は分厚い脂肪と筋肉に阻まれ、致命傷には至らない。逆に、一撃でも食らえばこちらが即死だ。じりじりと、しかし確実に、ルシアンは追い詰められていた。


その時だった。

「……ルシアン……?」

木の影で、エリアナがうっすらと目を覚ました。そして、目の前の光景に、息をのむ。

傷だらけのルシアンが、巨大な化け物と死闘を繰り広げている。明らかに、追い詰められている。

「ルシアンッ!」

彼女の悲鳴が、森に響き渡った。


その声に、ルシアンの意識が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の方へと向いてしまった。

それが、命取りだった。

レイジ・ベアは、その隙を見逃さなかった。振り下ろされた剛腕が、ルシアンの体を捕らえる。直接的な打撃は避けたものの、巨大な爪が彼の腹部を深く、無慈悲に引き裂いた。


「ぐっ……あ……ぁ……ッ!」

腹部に、焼けるような激痛が走る。視界が赤く染まり、体から急速に熱が失われていくのが分かった。傷口から溢れ出す自分の血が、地面を濡らしていく。立っているのがやっとで、膝が笑い、崩れ落ちそうになる。

(倒れるな……! ここで倒れたら、全員、死ぬ……!)

彼は決して諦めない。歯を食いしばり、ただ敵を睨み続けた。


「いやあああああああああああッ!」

ルシアンが血まみれで倒れる光景を見て、エリアナの中で何かが壊れた。

また、失うのか。やっと会えたのに。今度こそ、隣で戦うと決めたのに。

「いやだ……! ルシアンを、死なせないッ!」

彼女の絶叫に呼応するように、その体から、制御不能の灼熱が迸った。ゴウッ、と音を立てて、巨大な火の玉がレイジ・ベアに直撃する。

それは、魔力を練り上げた魔法ではない。ただ、感情の爆発が生んだ、純粋な熱量の塊だった。


レイジ・ベアに大きなダメージは与えられない。だが、予期せぬ方向からの攻撃に、その注意は完全にエリアナへと向いた。

その隙を、ルシアンは見逃さなかった。

(……今しかない……!)

霞む意識の中、黒い影が動いた。ネロが、エリアナの落としたショートソードに飛びつき、その小さな体を目一杯しならせる。そして、全身のバネを使って、弾丸のようにそれをルシアンの元へと投げ渡した。


震える手で、宙を舞う剣の柄を掴む。

脳裏に、マンティスから奪ったスキル【ブレードダンス】の知識が流れ込む。敵を切り裂くためだけの、流麗で、冷徹な動き。

最後の生命力を振り絞り、彼は立ち上がった。


レイジ・ベアがエリアナに狙いを定め、振り向いた、その瞬間。

ルシアンの体は、まるで舞うように、その懐へと滑り込んだ。人狼の速さ、マンティスの技、そして、仲間を守るというただ一つの意志。その全てが、ショートソードの切っ先に収束する。


一閃。――。血飛沫が舞い、巨大な影が崩れ落ちる。音は、なかった。


巨大なクマの首が、宙を舞った。


「はぁ……っ……」

森の主が、地響きを立てて崩れ落ちる。それと同時に、ルシアンの体もまた、糸が切れたように地面に崩れ落ちた。


腹部の傷が、焼けるように痛い。どくどくと溢れ出す自分の血で、地面が濡れていくのが分かった。

(……まだだ……まだ、終われない……)

彼は、最後の力を振り絞り、傷口に自らの手を置いた。手のひらが、淡い緑色の光を放つ。星命創造の力を使った、応急処置。傷口からの出血はいくらか緩やかになったが、裂けた筋肉と内臓までは塞がらない。自身の生命力を使い果たし、これ以上の治癒は望めなかった。

彼は、そばに生える草木に手を伸ばし、生命力を吸収しようと試みる。だが、森から得られる力は、焼け石に水。消耗した力の、百分の一も満たせない。

「……ルシアンッ!」

意識を取り戻したエリアナが、泣きながら駆け寄ってくる。

「大丈夫だ……エリアナ……心配、するな……」

彼は、彼女を安心させようと微笑もうとしたが、その唇はかすかに痙攣するだけだった。そして、ついに彼の意識は、深い闇へと沈んでいった。


エリアナが、血の気を失いぐったりとしたルシアンの体を抱きしめ、ただ泣き叫ぶことしかできずにいる、その背後。

ネロは、主人の危機を救うことができなかった自らの無力さに、静かに憤怒していた。彼は、ゆっくりとレイジ・ベアの亡骸に近づくと、その巨体に小さな口を押し当てる。森の主が持つ、圧倒的なまでの生命力と、その魂。その全てを、一滴残らず喰らい尽くすために。だが、その超常の光景に気づく者は、誰もいなかった。



絶望が二人を包み込もうとした、その時だった。

「おい、なんだありゃ……。すげえ血の匂いだぞ」

森の奥から、複数の男女の声が聞こえた。やがて、木々の間から現れたのは、ルシアンたちと同じ、冒険者のグループだった。屈強な戦士、俊敏そうな斥候、そしてローブをまとった癒し手。その出で立ちは、明らかに新人ではない。


彼らは、凄惨な戦闘の跡地と、倒れている巨大なレイジ・ベア、そして血まみれの少年を抱きしめて泣きじゃくる少女を見て、絶句した。

「おいおい、嘘だろ……。こいつら、レイジ・ベアを仕留めたのか……? どう見ても、ガキじゃねえか」

「リーダー、あの子、息があるか分からないわ!」

癒し手の女性が叫ぶ。

リーダー格の戦士は、一瞬ためらった後、決断した。

「……見過ごせねえ。助けるぞ! 急いで街の治癒院に運ぶんだ!」


エリアナは、差し伸べられた救いの手に、ただ頷くことしかできなかった。

屈強な戦士の背に担がれる、意識のないルシアン。その顔は、死人のように白い。

運命の気まぐれか、それとも必然か。規格外の新人たちの初仕事は、絶望的な勝利と、予期せぬ出会いと共に、幕を下ろした。


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