第六話:夜明けの逃亡者、まだ見ぬ世界
貧民街の酒場は、いつになく活気に満ちていた。
その喧騒の中心で、エリアナはエールジョッキを運びながら、飛び交う噂話に耳を澄ませていた。話題はたった一つ。二日前に忽然と姿を消した高利貸しヴァレリウスと、彼の組織の呆気ない崩壊について。そして、その全てを成し遂げたという、一人の少年について。
「ルシアンが……」
その名前が唇からこぼれるたび、エリアナの胸は甘く、そしてチリチリと痛んだ。
二年前、奴隷として連れていかれた幼馴染。もう二度と会えないと、泣き腫らした夜もあった。その彼が、英雄として帰ってきたのだ。喜びで叫び出したいほどだった。
しかし、彼女はまだ、ルシアンとまともに話せていなかった。
再会した彼は、あまりにも変わってしまっていた。優しかった面影はそのままに、その瞳の奥には、凍てつくような冬の湖を思わせる静けさと、時折燃え盛る炎のような激しさが宿っていた。二年という月日が、彼から何を奪い、何を与えたのか。今の自分との間にある距離が分からず、気軽に声をかけることができなかったのだ。
(このまま、また……いなくなっちゃうの……?)
ルシアンが母親と共に、近いうちに街を旅立つという噂。それが、エリアナの心を焦燥感で満たしていた。また、彼の手が届かない場所へ行ってしまう。その恐怖が、彼女を一歩も動けなくさせていた。
そんな時だった。店の隅のテーブルで、街へ商品を運びに来たらしい商人たちが、声を潜めて話しているのが聞こえた。
「おい、聞いたか? 王都の騎士団が、こっちに向かってるらしいぜ」
「騎士団が? なんでまた、こんな辺境の貧民街に」
「なんでも、ヴァレリウスの奴が取引してた貴族に、不正の嫌疑がかかったとかでな。その調査だそうだ」
その言葉は、エリアナの心臓を鷲掴みにした。
(騎士団……! ルシアンを捕まえに来るんだ!)
理由は分からない。でも、直感がそう叫んでいた。ヴァレリウスを倒した彼の力が、新たな厄介事を引き寄せたのだと。
悩んでいる暇はなかった。また、彼を失うわけにはいかない。
「ごめんなさい、おじさん! 今日、もう上がらせて!」
エリアナは店主の制止も聞かず、エプロンを脱ぎ捨てて酒場を飛び出した。店の外で薪を割っていた育ての親の老人が、鬼気迫る彼女の表情に驚いて何かを言いかけたが、その声はもう届かない。エリアナはルシアンの家へ、ただ一心に走った。
その必死の形相を見て、老人は全てを悟った。彼は静かに斧を置くと、妻を呼び、エリアナの後を追うようにゆっくりと歩き出した。あの子の覚悟を、後押ししてやるために。
◇
「ルシアン!」
勢いよく扉が開き、息を切らしたエリアナが飛び込んできた。金色のサイドテールが、彼女の動きに合わせて大きく揺れる。
その姿を認め、ルシアンの心臓がかすかに跳ねた。エリアナだ。
貧民街に戻ってきてから、彼女の姿は何度か遠目に見かけていた。昔と変わらない、快活な笑顔。だが、彼は一度も声をかけることができなかった。
何を話せばいい?
怒りのままにヴァレリウスの組織を崩壊させた自分に、昔のように屈託なく笑いかける資格があるのか。二年という時間は、あまりにも長すぎた。自分と彼女の間には、決して埋めることのできない深い溝が横たわっている。そう思うと、足が竦んだのだ。
そんな彼女が今、目の前で肩を喘がせている。
「エリアナ……どうしたんだ、そんなに慌てて」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。
「はぁ……はぁ……騎士団が、来るの! この街に!」
エリアナの切迫した警告に、ルシアンとブレンナの顔色が変わる。
「私も連れて行って!」
唐突な言葉に、ルシアンは目を見開いた。
「な……何を言ってるんだ? 連れて行くって、どういうことだ?」
「お願い、ルシアン……!」
エリアナは、震えながらも強い意志の宿った瞳でルシアンに懇願した。
「このままじゃ、またあなたはいなくなっちゃう! それだけは嫌なの!」
彼女は、自身が孤児であることへの不安、そしてこの街で一人残されることへの恐怖を吐露した。
「あなたの戦う姿を見て、思い出したの。昔から、あなたはいつもそうだった。泣いてる私を、いつも守ってくれた……。今度は、私もあなたの隣で、自分の未来のために戦いたい!」
ルシアンは唇を噛んだ。彼女の言葉が、忘れていた記憶の扉を叩く。だが、感傷に浸っている時間はない。
「駄目だ、エリアナ。お前が考えているような旅じゃない。これは、命がけの逃亡になるんだ」
危険な道に、これ以上誰かを巻き込むわけにはいかなかった。だが、その時、開け放たれた扉の向こうに、エリアナの育ての親である老夫婦が立っていた。
「この子の言う通りです、ルシアンさん」
追いついてきた老人は、静かに、しかし力強く言った。
「あの子が店を飛び出していくのを見て、覚悟を決めたのだと分かりました。この街では、この子の未来は閉ざされたまま……。どうか、この子の未来を、あなたに預けさせてはいただけないでしょうか」
その言葉と重なるように、遠くで複数の馬の蹄の音が響き始めた。街の正門が、にわかに騒がしくなる。もう時間がない。
ルシアンは、エリアナの覚悟と老夫婦の想いを一身に受け止め、腹を括った。
「……分かった。俺から離れるな」
短く、しかし力強く告げると、エリアナの顔がぱあっと輝いた。彼女は老夫婦と最後の抱擁を交わし、溢れる涙を腕で拭うと、決然とルシアンの隣に並んだ。
「行くぞ!」
ルシアンの号令一下、四つの影が動き出す。ルシアン、ブレンナ、エリアナ、そして彼らの足元を滑るように走る黒猫のネロ。彼らは貧民街の住人たちに別れを告げる間もなく、慣れ親しんだ裏道を駆け抜け、夜の闇へとその姿を消した。
◇
ルシアンたちが街から完全に姿を消した、わずか数分後のことだった。
整然とした隊列を組んだ一団が、貧民街の正門に到着した。月光を鈍く反射する鋼の鎧、揺るぎない規律。それは、ルシアンたちが想像していた「追手」そのものの威容だった。住人たちは、ヴァレリウスの私兵とは比較にならない本物の威圧感に、恐怖で身を固くする。
隊列から静かに馬を降りた一人の男が、住人たちの前に進み出た。精悍な顔立ちに、理知的な光を宿す瞳。彼こそが、王国騎士団・特務監査隊を率いる隊長、アラン・フェルザーであった。
「恐れることはない」
アランの声は、見た目とは裏腹に、穏やかで落ち着いていた。
「我々は、高利貸しヴァレリウスの不正行為、及び彼と癒着していた腐敗貴族の調査に来た。危害を加えるつもりはない。ヴァレリウスの行方と、彼の組織について知っていることを話してほしい」
その言葉に、住人たちは顔を見合わせる。彼らの目的は、自分たちを苦しめる悪の排除だったのだ。やがて、一人の男がおずおずと口を開いた。
「ヴァレリウスも、その手下も……もういやしねぇ。全部、ルシアンがやってくれたんだ」
「ルシアン……?」
アランの眉が、わずかに動いた。
「そうだ。たった一人で、あの化け物みてえな組織を、全部……」
アランは、住人たちの証言に静かに耳を傾けると、傍らの副官にだけ聞こえる声で呟いた。
「そうか……報告にあった謎の現象は、全てその少年が……。我々が追っていた腐敗の根は、我々より先に、一人の少年によって断ち切られていたというわけか」
彼は、ルシアンたちが消えた暗い路地の先を見つめ、興味深げに口の端を上げた。
「その少年、ルシアン。どうやら、我々が追う事件の、最重要参考人らしいな」
アランの瞳には、敵意はなかった。ただ、規格外の力を持つ未知の存在に対する、純粋な探求心と、かすかな警戒心が宿っているだけだった。
運命は、まだ彼らを交わらせることなく、静かにすれ違っていった。
◇
街から数日離れた、安全な森の中。パチパチと爆ぜる焚き火の音、湿った土の匂い、夜の森の冷たい空気でそよぐ火が、四人の顔を照らしていた。
「これから、どうするの?」
エリアナの問いに、ルシアンは黙って懐から一枚の羊皮紙を取り出した。ヴァレリウスの組織から財産を回収した際、幹部の隠れ家から見つけ出した、この国一帯の地図だ。旅立ちを決意した時から、彼は次の一手を考えていた。
広げられた地図を、エリアナが身を乗り出して覗き込む。
「へえ、こんなの持ってたんだ。どれどれ……ふむふむ、なるほどね」
彼女は得意げに頷くと、ルシアンに向かって人差し指を立てた。
「いい、ルシアン? あんたより一つ年上のお姉さんが、この世界のことを教えてあげる。酒場で働いてると、いろんな情報が入ってくるんだから」
その少しお姉さんぶった口調は、昔と少しも変わっておらず、ルシアンの口元がかすかに緩んだ。
「まず、私たちがいるのは、このシルベリア王国。でも、騎士団が動いてるなら、もう安全じゃないわ。だから、国境を越えるしかないんだけど……」
エリアナの指が、地図の上を滑る。
「東は、峻険なヴァルカス山脈の向こうにある、武を尊ぶヴァルカス帝国。聞いた話じゃ、軍隊以外は人間扱いされないような国らしいわ。西は、複数の都市が経済で結びついた自由商業圏リベラポリス。こっちは技術は凄いけど、お金がないと生きていけないんだって。南のルナリア公国は……謎ね。森と湖に閉ざされてて、誰も近づかないから、ただの噂話しか聞いたことがない」
彼女はそこで一度言葉を切ると、真面目な顔で続けた。
「それと、お金の話。今、私たちが持ってるのは、大体100万ゴールドくらい。通貨は、今話した国なら大体どこでも使えるみたいだけど……この金額、普通の家族が半年くらい暮らせる程度のものでしかないの。贅沢はできないわよ」
帝国も、商業圏も、公国も、今のルシアンたちにはリスクが高すぎた。
万策尽きたかと思われたその時、エリアナが「あっ」と声を上げた。彼女が指さしたのは、シルベリア王国、ヴァルカス帝国、そしてリベラポリスの三国が接する、ちょうど境界線の中心。
「ここ……自由貿易都市、クロスロード」
それは、どの国の法も完全には及ばない、三国間の緩衝地帯だった。
「無法者の街だって聞いたことがあるわ。でも……どんな人間でも、過去を問われずに受け入れてくれる場所だって……」
無法と自由が混じり合う混沌の街。危険は大きい。しかし、身分を偽り、追手から逃れ、新たな生活を始めるには、そこしかないように思えた。
ルシアンは、地図に記された「クロスロード」の名を、じっと見つめていた。その隣で、ネロが「にゃあ」と小さく鳴き、彼の足にすり寄る。まるで、その決断を後押しするかのように。
ルシアンは、母と、そして隣で固唾を飲んで自分を見つめる幼馴染の顔を見やった。守るべきものが、増えた。もう、自分一人の復讐の旅ではない。
彼は地図から顔を上げ、決意に満ちた声で言った。
「よし、決めた。目指すは、自由都市クロスロードだ」