第五話:貧民街の夜明け、新たな旅立ち
王都から来た医者の手厚い治療と、ルシアンの献身的な看病により、ブレンナは日に日に回復していった。まだ起き上がることはできないが、その顔には少しずつ血の気が戻り、穏やかな寝息を立てる時間も増えていった。
その療養期間中、ルシアンたちの元へ、恐る恐る訪ねてくる者たちがいた。貧民街の住人たちだ。彼らは、ヴァレリウスを恐れるあまり、ブレンナが虐げられているのを見て見ぬふりをしてしまったこと、中には一緒になって彼女を疎んじてしまった者もいたことを、涙ながらに詫びた。
ルシアンは彼らを責めなかった。ヴァレリウスという絶対的な恐怖の前では、誰もがそうするしかなかったのかもしれない。
そんな住人たちとの会話の中で、ルシアンは新たな問題を知ることになる。
「ヴァレリウス様がいなくなって、せいせいしたと思ったんだがね……今度は、あの方の幹部だった三人が、好き放題やり始めて……」
ヴァレリウス失踪の混乱に乗じて、三人の幹部が組織の財産を持ち逃げし、街で以前にも増して非道な振る舞いをしているというのだ。
(ヴァレリウスがいなくなっても、あの三人がいれば、第二、第三のヴァレリウスが生まれるだけだ。貧民街の苦しみは終わらない。そして、母さんと旅立つための資金も必要だ)
ブレンナの穏やかな寝顔を見ながら、ルシアンは静かに決意を固めた。この街を去る前に、全ての膿を、出し切らねばならない、と。これは復讐ではない。母と、そして自分が育ったこの街の未来のための「清算」だ。
夜の闇が、ルシアンの狩場だった。
最初の標的は、ヴァレリウスの私兵を束ねていた総隊長。巨大な戦斧を振り回し、縄張りを暴力で支配するだけの、単純な獣だ。
男が酒場で酔いどれている隙に、ルシアンは彼の帰り道である薄暗い路地裏に、無数の罠を仕掛けた。
やがて、千鳥足で現れた男の足元で、石畳の隙間から伸びた蔦がその足を絡めとる。
「な、何だぁ!?」
巨体がバランスを崩して前のめりになった瞬間、闇の中から黒い弾丸――ネロが飛び出した。ネロは男の顔面に飛びつくと、その鋭い爪で両目を切り裂く。
「ぐぎゃああああっ!」
視界を奪われ、闇雲に戦斧を振り回す男。だが、その攻撃がルシアンに当たることはない。人狼から得た身体能力で、全ての攻撃を紙一重で見切り、まるで戯れるかのように翻弄する。最後は、背後から音もなく近づき、木槍の石突で両膝の関節を的確に打ち砕いた。
「ぎぃっ……!」
二度と立てなくなった男の前に立ち、ルシアンは彼の自慢の戦斧を拾い上げると、木槍で叩き折る。
「お前の力は、その程度か」
冷たく言い放ち、男が隠し持っていた金貨の袋を回収すると、ルシアンは闇へと消えた。
次の標的は、ヴァレリウスの悪事の数々を計画してきた参謀役の男。狡猾に隠れ家を変え、姿を見せない男だったが、ルシアンの【鷹の目】の前では無意味だった。街を俯瞰し、人の流れの不自然さと金の動きから、娼館の隠し部屋に潜んでいることを特定する。
ネロが小さな通気口から先に忍び込み、部屋のランプを倒して混乱を誘う。悲鳴と共に出てきた娼婦たちに紛れ、ルシアンは音もなく部屋へ侵入。慌てて金庫から財産と、彼の力の源である裏帳簿を持ち出そうとしていた男の背後に、静かに木槍の穂先を突きつけた。
ルシアンは、男から奪った裏帳簿を、彼の目の前で燃やしてしまう。
「お前の浅知恵は、全てお見通しだ」
全ての計画を記した帳簿を失い、男は廃人同様にその場に崩れ落ちた。ルシアンは、金庫に残っていた財産を静かに回収し、去り際に最後の情報を吐かせた。会計役の男の逃亡計画と、その手口を。
最後の標的は、組織の金を管理していた会計役の男。持ち逃げした財産を元手に、街の外の貴族と新たな取引をし、高飛びする算段だった。
取引現場である街の門。屋根の上から【鷹の目】で様子を窺うルシアン。会計役の男が、貴族の代理人らしき男に、装飾の施された木箱を見せている。
(参謀役から聞き出した通りだな。貴族すら偽物の金貨で騙すとは、どこまでも腐っている)
ルシアンは、指先に意識を集中し、黒樫の木槍と同じ材質の、針のように細く硬い木の棘を「創造」した。
次の瞬間、彼は屋根を蹴った。
人狼の力を宿した脚力で、音もなく二人の間に降り立つ。貴族の代理人が剣に手をかけるより早く、ルシアンは木箱から金貨を一枚つまみ上げると、指先の棘で弾いた。
キィン、という甲高い音と共に、金貨の表面が削れ、中から鈍い鉛色が現れる。
「……貴様、俺を騙す気だったのか!」
代理人の怒号が響く。会計役の男は顔面蒼白だ。
護衛たちが会計役の男を取り押さえる混乱の中、ネロが影のように走り、開かれたままの木箱を抱えて闇に消える。
「お前の欲が、お前の身を滅ぼしたな」
ルシアンは、再起不能となった男に冷たい一瞥をくれると、悠々とその場を去った。
回収した莫大な財産を前に、ルシアンは貧民街で唯一信頼できる、ブレンナを診てくれた老人の元を訪れた。
「これで、みんなが腹一杯食える飯屋でも、病人が無料で診てもらえる診療所でも作ってくれ」
財産の一部を託すと、彼はさらに、貧民街の中心にある、汚染されて久しい井戸の前に立った。そして、その濁った水に、そっと手を浸す。
彼の【星命創造】の力が、井戸に注ぎ込まれていく。濁っていた水は、見る見るうちに清らかな輝きを取り戻し、溢れ出した水が周囲の痩せた土地を潤すと、そこには青々とした草が芽吹き始めた。
老人が「神様みたいな真似を……」と呆然とするのに対し、ルシアンは静かに首を振る。
「神様なんかじゃない。ただ、俺はもう、誰かが飢えたり、病気で苦しんだりするのを見たくないだけだ。母さんが安心して暮らせる国を創る。これは、そのための最初の小さな一歩だよ」
完全に回復したブレンナは、ルシアンの成長した姿と、彼が成し遂げたことを知り、涙ながらに彼を誇りに思った。
「もう、十分だよ、ルシアン」
「ううん。まだだよ、母さん」
ルシアンは、残りの財産を旅の資金として袋に詰めると、優しく微笑んだ。
「俺たちの国を、創りに行くんだ」
旅立ちの準備を終え、夜明けと共に街を出ようとするルシアンとブレンナ。貧民街の住人たちが、涙ながらに彼らの門出を祝福してくれていた。
その時、息を切らした少女が、人垣をかき分けて駆け寄ってきた。
ルシアンが奴隷になる前に、よく一緒に遊んでいた快活な少女、エリアナだった。
彼女は、震える声で衝撃の事実を告げる。
「逃げて、ルシアン! ヴァレリウスが取引していた貴族が、あなたを捕まえようとしてる! 会計役の男を捕まえて、あなたのことを聞き出したんだ! もうすぐ、本物の『騎士団』が、この街にやってくる!」
復讐は終わり、全てを清算したはずだった。だが、それは、さらに大きな戦いの始まりに過ぎなかった。
エリアナの言葉に、ブレンナは息を呑む。だが、ルシアンは驚くほど冷静だった。彼は、震えるエリアナの肩にそっと手を置き、まっすぐに彼女の目を見て言った。
「教えてくれて、ありがとう。エリアナ」
その瞳には、恐怖も焦りもない。ただ、次なる「狩り」を見据える、狩人の静かな光が宿っていた。