第三十二話:王都の夜明け
天を焦がしていたボーモン邸の火災が、徐々に鎮火していく。
夜空は晴れているというのに、どこからともなく現れた煌めく水滴が、屋敷全体に静かに降り注いでいた。それは雨ではない。近くの川から汲み上げられた水が、巧みに操られた風に乗せられ、屋敷全体に降り注いでいる、奇跡のような光景だった。
屋敷の門前には、ユリウスが必死に応急処置を施した、アランをはじめとする負傷者たちが並べられている。幸いにも死者はいないようだが、重傷者も少なくない。
そこへ、一台の豪華な馬車が、救護隊と共に到着した。馬車から現れたのは、シルベリア王国騎士団を束ねる、壮年の騎士団長ガウェイン。そして、その後ろから、心配で駆けつけたエリアナとレン、ネロの姿もあった。
その時、鎮火した屋敷の方から、一人の少年が、意識のないレジナルドをその肩に担ぎ、静かに歩いてきた。ルシアンだった。
「父上!」
負傷者の応急処置をしていたユリウスが、駆け寄ってくる。
ルシアンは、その顔に憐れみの色を浮かべるでもなく、ただ事実だけを告げた。
「死んではいないが、再起は難しいかもしれない。早く手当をする必要がある。救護班に回してくれ」
「……っ、はい」
ユリウスは、無言で涙を溜めながら、父の体を救護班へと運んでいった。
一方、担架で運ばれていたアランが、ガウェインの姿を認め、か細い声で彼を呼んだ。
「団長…報告、が…」
アランは、応急手当てを受けつつも、最後の気力を振り絞り、途切れ途切れに、しかし要点だけを団長に伝えた。その報告を終えると、彼はゆっくりと目を閉じ、救護班によって馬車へと運ばれていった。
ガウェインは、ルシアン、そして呆然と立ち尽くすユリウスとエレオノーラの元へ向かうと、厳粛な、しかし敬意を払った口調で告げた。
「皆様には、詳しい事情をお聞きする必要がある。王城まで、ご同行願いたい」
三人は、その言葉に静かに頷くと、騎士団長の馬車に乗り込み、夜の王都へと出発していった。
「ルシアン…」
エリアナとレンは、声をかけようとしたが、馬車に乗り込む直前の、彼のあまりにも真剣な横顔を見て、その言葉を飲み込んだ。今は、ただ彼の帰りを待つことしかできない。二人は、ネロと共に、静かにその場を後にした。
◇
翌日の昼過ぎ。宿屋の扉が静かに開き、ルシアンが一人で帰ってきた。その顔には深い疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は、嵐が過ぎ去った後の空のように、どこか吹っ切れた様子だった。
「ルシアン!」
心配そうに出迎えるエリアナに、彼は優しく、しかし真剣な眼差しで告げた。
「エリアナにとって、とても大事な話がある。明日、一緒に来てほしい場所があるんだ」
そして、彼はふっと表情を和らげると、エリアナとレンに、悪戯っぽく爽やかに笑いかけた。
「ああ、でも、今日はもう疲れた!」
その、年相応の屈託のない笑顔に、エリアナとレンの胸が、思わず高鳴った、次の瞬間。
ルシアンの体は、糸が切れた人形のように、その場にあったベッドへと倒れ込み、そのまま深い、深い眠りに落ちてしまった。
「「ええっ!?」」
エリアナとレンは、そのあまりの唐突さに驚きつつも、彼がどれほどの重圧と戦ってきたのかを理解し、その健やかな寝顔を見ながら、表情を和らげ、安堵のため息をついた。ネロが、主人の胸の上にそっと飛び乗り、寄り添うように丸くなる。
翌朝。
何とも言えない寝苦しさに、ルシアンはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、自分の両脇で、すやすやと寝息を立てているエリアナとレンの顔。そして、お腹の上には、温かい毛玉の感触。ネロが、気持ちよさそうに丸まっていた。
(……なんだ、この状況は…?)
ルシアンは、全く状況が理解できず、固まった。
すると、レンがすっと静かに目を覚ました。彼女は、ゆっくりと起き上がると、ルシアンのお腹の上で眠るネロを、壊れ物を扱うかのように、そっと持ち上げる。
(可愛い…このまま、すりすりしたい…)
一瞬、その動きを止めて葛藤したが、ゆっくりとベッドの空いている場所にネロを降ろすと、今度は、そのままルシアンの胸の上に、改めて顔を乗せて寝転がった。
そして、真顔のまま、ルシアンの顔を至近距離から覗き込み、静かに告げる。
「おはよう」
ルシアンが、その一連の謎の行動に呆気に取られていると、隣で寝ていたエリアナが、身じろぎしながら目を覚ました。
「ふぁぁ…おは、よ…」
そして、目の前の光景を認識した瞬間、彼女は飛び起きた。
「って! 何やってるのよ、レン!」
エリアナが、慌ててレンをルシアンの胸から引き剥がす。レンは、少しも悪びれる様子なく、淡々と告げた。
「生存確認(心音確認)だ」
朝食の席で、ルシアンが二人に事情を聞くと、こうだった。
ルシアンがあまりに深い眠りに入っていたので、心配になったエリアナが、そばで見守るために一緒に寝ると言い出した。すると、決闘からまだ日の浅いエリアナを一人にはできないと、レンが護衛として一緒に寝ると言い出した。押し問答の末、なし崩し的に、三人(と一匹)で寝ることになったのだという。
「でも!」と、エリアナは頬を膨らませる。「朝のあれは、完全にレンの個人的な行動よ! 約束違反なんだから!」
ルシアンは、よく分からないまま、その騒がしい朝食を終えることにした。
◇
昼過ぎ、ルシアンはエリアナを連れて、王都の中央にそびえる王国騎士団庁舎に来ていた。
通された重厚な応接間には、既に二人の人影があった。一人は、騎士団長ガウェイン。そしてもう一人は、深いケープで顔と体つきを完全に隠した、謎の男性だった。
ガウェインが扉を閉め、部屋に四人だけが残されると、その男性はゆっくりとケープを外した。
現れたのは、高貴な雰囲気を纏う、50歳ほどのロマンスグレーの髪の男性だった。その顔には深い威厳が刻まれ、瞳は、この国の全てを見通しているかのように、静かで、そして力強い。
ガウェインが、その場で厳かに膝をついた。
「こちらは、シルベリア国王、アラルディス陛下にございます」
「――えっ!?」
あまりの驚きに、エリアナは息を呑み、ルシアンもまた、目を見開いた。二人は、慌ててその場に膝をつき、深く頭を下げる。
しかし、国王は穏やかな声で、それを制した。
「面を上げよ。堅苦しいのは抜きだ。皆、椅子にかけてくれ」
国王自らもゆっくりと椅子に腰掛けると、彼は、ルシアンとエリアナをまっすぐに見つめ、静かに、しかしはっきりと告げた。
「この度のこと、シルベリア国王として、まずは謝罪と、そして心からの感謝を伝えたい」
王からの、あまりにも予期せぬ言葉に、二人は再び驚き、言葉を失う。国王は、続けた。
「そして、エリアナ殿。貴殿にも、我らは大きな苦労をかけた」
名指しでかけられた言葉に、エリアナの頭はさらに混乱する。
その様子を見て、ガウェインが事の次第を説明し始めた。
「昨夜、ルシアン殿たちから当日の状況を確認した後、救護班に運ばれたレジナルドは、意識を取り戻した。しかし、なぜか、あれほど強大だった魔法の力は完全に消え失せ、その事実に憔悴しきった彼は、全ての罪を淡々と白状した」
「レジナルド侯爵は、長年に渡り、東のヴァルカス帝国と裏で繋がっていた。帝国から禁制品や違法な魔道具の供与を受ける見返りに、国境付近での密偵活動を黙認し、その裏取引で得た品を、一部の弱小貴族を仲介役として、貧民街のヴァレリウスや、クロスロードのギデオンといった者たちに捌かせ、私腹を肥やしていたのだ」
「そういえば…」と、ルシアンは呟いた。「ヴァレリウスも、ギデオンも、アルバートも、みんな怪しい魔道具を持っていた。全て、帝国から…!」
「その通り」と、ガウェインは頷く。「今回は、アルバートが使った魔道具から、その繋がりが露見した格好だ」
その事実に、ルシアンは驚愕しながらも、改めて怒りを覚えた。王国の有力貴族の腐敗。それによって、ブレンナが、エリアナが、そして名も知らぬ多くの人々が、どれほどの苦しみを味わってきたことか。
◇
「加えて…」
ガウェインは、それまで黙っていたエリアナの方へと、静かに向き直った。
「レジナルド侯爵は、全てを話した。…エリアナ殿、君の父君が、彼であることも」
その言葉に、室内の空気が凍りついた。
貧民街での老夫婦の話から、半ば覚悟はしていた。だが、事実として突きつけられたその言葉は、改めて、重い衝撃となって二人を襲う。
エリアナは、震える声で、絞り出すように尋ねた。
「…もしかしたら、ってのは思っていました。私が拾われた時の経緯を聞きましたから…。それで、本当の、お母さんは…」
ガウェインは、痛ましげに、しかし事実を告げた。
「…ああ。記録上、16年前に第二夫人とその娘が、不慮の事故で亡くなっている。おそらく、それは…」
「私と、お母さん、ね…」
エリアナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。重い、重い空気が、室内を満たす。
しかし、彼女はすぐにその涙を拭うと、顔を上げた。その瞳には、悲しみではなく、強い光が宿っていた。
「でも、もうどうでもいいことです。私には、ルシアンがいる。アステリアで待ってくれている、大切な人たちがいる。今は、目の前の大事な人たちを守ること、それが一番なのです」
その、あまりにも気丈な姿に、国王とガウェインは、静かに感銘を受けていた。
「…分かった」と、ガウェインが切り出す。「ここまでは、この事件の話だ。ここからは、今後の話をしよう。君たちアステリアと、我らシルベリア王国との、未来の話をな」




