第二十話:沈黙の扉と最初の火花
ローエンに送られ、ルシアンは一人、目的の祠の前に立っていた。
そこは、時間の流れから取り残されたかのような、静寂に満ちた場所だった。苔むした石造りの小さな祠は、風化し、原型を留めているのが不思議なほど古い。周囲には、奇妙なことに、動物の気配も、鳥の声すらしない。ただ、祠の入り口を塞ぐ一枚岩の扉だけが、まるで光を吸い込むかのように黒く、異様な存在感を放っていた。
扉には、取っ手も、鍵穴も、何の模様もない。ただ、沈黙しているだけ。
(これが…古代の祠…)
ルシアンは、その圧倒的な存在感を前に、ゴクリと喉を鳴らした。
まずは、最も単純な方法を試す。彼は扉の前に立つと、その身に宿る人外の膂力を解放し、渾身の力で扉を押した。
「…ふっ!」
しかし、扉はびくともしない。まるで、巨大な山脈を素手で動かそうとしているかのようだった。衝撃は、全て扉に吸い込まれ、手応えすら感じられない。
(駄目だ…ただの岩じゃない。何か、理の違うものでできている)
次に、彼は【星命創造】の力を試す。扉の周りの岩を隆起させて楔のように打ち込み、地面から無数の蔦を生やして扉に絡みつかせ、こじ開けようと試みる。だが、彼の力が扉に触れる寸前で、見えない壁に阻まれるように、霧散してしまう。
(俺のマナを…弾いているのか?)
力ずくでは開かない。それを悟ったルシアンは、一度距離を取り、冷静に思考を巡らせた。大賢者の言葉が、脳裏に蘇る。
『汝の力は、誰かに教えられるものではない。自ら感じ、目覚めさせるものじゃ』
『ただマナを汲み上げるだけでなく、その声を聞き、流れを読む術を学ぶのじゃ』
(声を聞き、流れを読む…)
彼は、扉を「敵」としてこじ開けるのではなく、「対話」することを試みた。再び扉にそっと手のひらを触れると、今度は力を加えるのではなく、意識を研ぎ澄まし、扉の奥にある「気配」に耳を澄ませる。
すると、扉の石の奥から、まるで星の自転のように、ゆっくりと、しかし雄大なマナの「脈動」を感じ取った。彼は、自分のマナをその脈動に合わせるように、静かに同調させていく。
◇
その頃、シルヴァンヘイムの訓練場では、エリアナが新たな師と向き合っていた。
陽の光を反射して輝く金髪のショートカットが、彼女の活発な印象を際立たせている。その身のこなしには一切の無駄がなく、穏やかなフィアナとは対照的に、常に張り詰めた弓のような緊張感を纏っていた。
「私がレンです。大賢者様の命により、今日からあなたの指導を担当します」
その佇まいだけで、彼女がルナリアでも有数の魔法の使い手として知られるエルフであることが、エリアナにも伝わってきた。
「始める前に、一つだけ聞かせてください。あなたは、なぜ強くなりたいのですか?」
唐突な問いに、エリアナは少し戸惑いながらも、まっすぐに答えた。
「…大切な人を、守れるようになりたいからです。もう、誰かに守られてるだけの自分は、嫌だから」
「結構」と、レンは短く頷いた。「その覚悟、忘れないように」
レンは、エリアナの隣でちょこんと座り、尻尾を揺らしているネロに、一瞬だけ視線を落とした。
(…可愛い…!)
彼女は、内心の動揺を表情に出さぬよう、一つ咳払いをした。
「では、最初の課題です。あの杭の上に置かれた蝋燭に、火を灯してみてください。魔術の基本です」
エリアナは、言われた通りに集中する。魔力を練り上げ、炎をイメージし、それを指先に送る。その流れに、淀みはないように見える。しかし、魔法が発動する寸前で、何かがプツリと途切れるように、魔力は霧散し、小さな火花が散るだけだった。
レンは、その様子を鋭い目で見つめる。(おかしい…。魔力の流れも、イメージの構築も、初心者のそれではない。だが、最後の最後で、何かが邪魔をしている…?)
レンは、方針を変えた。「次は、あなたの守りたい人を、強く思い浮かべなさい」
エリアナの脳裏に、ルシアンの顔が浮かぶ。すると、彼女の手のひらの上に、温かい光の玉が灯った。
「では、その人が、あなたの目の前で消え去る様を想像しなさい!」
レンの非情な言葉に、エリアナの心は激しく揺さぶられる。「嫌っ…!」
その瞬間、エリアナの感情のリミッターが外れた。彼女の手から放たれたのは、小さな光の玉ではなかった。訓練場を揺るがすほどの、巨大な火球だった。火球は蝋燭を遥かに逸れ、レンが咄嗟に展開した風の魔術障壁に激突し、爆散する。
爆風に驚いたネロが、ピョンと飛び上がってレンの足元に隠れた。
(…可愛い…!)
レンは、足元にすり寄る、その小さな温かい毛玉の感触に、再び内心で激しく葛藤していた。(いや、威厳を保たねば…!)
◇
一方、古代の祠の前。
ルシアンが扉のマナとの同調を続けると、それまでただの岩にしか見えなかった扉の表面に、星図のような、古代の紋様が青白い光を放ちながら、ゆっくりと浮かび上がってきた。
光が強まると共に、ルシアンの脳裏に、断片的な映像が流れ込んでくる。見たこともない星空、巨大な建造物、そして、何かを未来へ託そうとする、古代の先人たちの、切なる「祈り」のような感情。
やがて、扉全体がまばゆい光を放ち、一枚岩だったはずの扉が、光の粒子となって静かに消滅していく。目の前には、地下へと続く、深く、静かな闇に包まれた階段が現れた。
ルシアンは、一瞬だけアステリアの方角を振り返ると、覚悟を決めて、その闇の中へと一人、足を踏み入れた。
階段は、ひたすらに真っ直ぐ、地下深くへと続いていた。空気が、地上のものとは明らかに違う。古く、清浄で、そしてどこか懐かしいような匂いがした。
やがて、通路の先に、ほのかな光が見えてくる。
たどり着いたのは、息を呑むほど広大な、継ぎ目のない黒曜石で磨き上げられたかのようなドーム状の空間だった。壁や天井には、星々がまたたく宇宙そのものが描かれ、まるで本物の夜空のように、ゆっくりと動いている。
そして、その中央には、淡い光を放つ、人頭大の黒い球体が、音もなく宙に浮いていた。
ルシアンが、その球体にゆっくりと近づいていくと、再び、あの古代の記憶が、今度はより鮮明な奔流となって、彼の意識の中へと流れ込み始めた。
◇
その頃、訓練場では、エリアナが自分のしでかしたことに顔面蒼白になっていた。「ご、ごめんなさい…!」
レンは、爆風にも動じず、厳しい表情で告げる。「やはり、そうでしたか。あなたの力は、正常なルートでは引き出せない。強い感情という『裏道』を通った時だけ、その奔流が堰を切って溢れ出す」
「どういう…ことですか…?」
「あなたの魔法の発動を見て、確信しました」と、レンは続ける。「あなたの魔力の流れ、そしてイメージの構築、そのどちらにも問題はない。むしろ、並の魔術師より遥かに洗練されている。ですが、その二つが結びつき、現象として現れる、まさにその寸前で、何かが強制的にそれを断ち切っている」
レンは、エリアナの隣で心配そうに彼女を見上げるネロに、チラリと視線を送った。
(…可愛い…)
ネロが、不安げに「にゃあ」と鳴く。
(…なんと健気な…! 可愛すぎる…!)
レンは一つ咳払いをすると、話を続けた。
「大賢者様のおっしゃる通り、あなたの魂には、何か『楔』があるようです」
「楔…?」
「ええ」と、レンは頷く。「大賢者は、『小さな石ころ』と表現されていましたね。あなたの才能の問題ではない。あなたのせいではないのです。あなたの魔法は、何か自分以外の要因によって、阻害されているのかもしれません」
その言葉に、エリアナは愕然とする。自分の才能がないからだと、ずっと、そう思い込んできた。でも、もし、そうじゃないとしたら…?
自分のせいではない「何か」が、ずっと自分を苦しめてきたのだとしたら…?




