第二話:創造主の理(ことわり)
ネロに導かれるまま、おぼつかない足取りで森を進む。頭の中に流れ込んできた、ゴブリンのものと思しき知識が、奇妙な確信となってルシアンの足を動かしていた。
やがて、ごつごつとした岩場に囲まれた、小さな泉にたどり着く。澄んだ水が絶え間なく湧き出ており、周囲には魔物の気配が一切ない。ゴブリンの記憶にあった、安全な水場だ。
「はぁ……はぁ……助かった……」
泉に顔を突っ込むようにして水を飲むと、乾ききった体に命が染み渡っていくのを感じた。だが、喉の渇きが癒えると同時に、腹の底から燃え上がるような、強烈な空腹が彼を襲った。もう丸一日以上、何も口にしていない。
(何か……何か食べないと……)
ふらつく体で周囲を見渡すが、食べられそうなものは見当たらない。その時、脳裏にふと、ブレンナが市場でたまに買ってきてくれた、甘酸っぱいリンゴのような果実の味が浮かんだ。あの味が食べたい。腹の底から、そう願った。
その瞬間、彼の掌が、再び淡い光を放った。
「え……?」
光はゆっくりと収束し、その手の中には、見覚えのない、しかしどこか懐かしい、艶やかな赤い果実が一つ、鎮座していた。リンゴに似ているが、それ以上に完璧で、甘い香りを放っている。
成功に驚愕するが、代償として立っていられないほどの虚脱感に襲われる。まるで、体中の生命力を根こそぎ吸い取られたかのようだ。
(そうか……この力は……何かを無から創り出すのは、とんでもなく消耗するんだ……)
朦朧とする意識の中、彼はそばにあった大樹に、倒れ込むように手をついた。
その時だった。
「――っ!?」
手のひらから、樹木が持つ、温かく穏やかな生命エネルギーが、自分の中に流れ込んでくるのを感じた。乾いた大地が水を吸うように、彼の体は貪欲にその力を吸収していく。虚脱感が和らぎ、空っぽだった器が、ゆっくりと満たされていく。
(俺は……草木から、魔力のようなものを吸収できるのか……?)
それは、彼の力の根源に関わる、重大な発見だった。
「にゃあ」
足元で、心配そうに見上げていたネロが、小さな声で鳴いた。その口には、土のついた木の根が一本、咥えられている。ルシアンが果実を創造したことに驚きつつも、消耗した彼を心配し、ゴブリンの知識を元に見つけた薬草を差し出してくれたのだ。
「……ありがとう、ネロ」
ルシアンは木の根を受け取ると、ネロの頭を優しく撫でた。
ある程度力が回復し、冷静さを取り戻したルシアンは、この得体の知れない力を、一つ一つ確かめていくことを決意した。
まずは、力の回復についてだ。彼は再び大樹に触れ、意識を集中する。ゆっくりと、しかし確実に、力が体に戻ってくる。だが、一時間ほど続けたところで、ピタリと力の流入が止まった。
(もう、入らない……? まるで、器が満杯になったみたいだ)
どうやら、一度に吸収できる量には上限があるらしい。そして、その回復にはかなりの時間がかかる。この力は、決して万能ではないのだ。
(俺自身の生命力が、この器の大きさなのかもしれない。もっと強くなれば、もっと多くの力を蓄えられるように……)
次に、目の前の小さな若木に触れ、「成長しろ」と念じる。すると、果実を創った時とは比べ物にならないほど少ない消耗で、若木は瞬く間に大人の背丈ほどに成長した。
(既にある自然物を成長させる方が、遥かに効率が良い……!)
さらに彼は、自然現象そのものへの干渉を試みた。泉の水をすくい、「凍れ」と念じてみるが、何も起こらない。だが、吐く息が白くなる夜に同じことを試すと、水は薄い氷の膜を張った。
(無から自然現象は起こせない。でも、既にあるものを『強く』することはできるのか……)
そよ風を強風に、火種を大火にすることも可能かもしれない。ルシアンは、自分の能力の「理」を、一つ、また一つと掴んでいった。
そして、彼は最大の謎に挑んだ。ネロの存在だ。
(俺は、ネロを創った。なら、もう一度……)
彼は、手のひらに意識を集中し、小さな鳥をイメージした。だが、いくら力を込めても、光は生まれず、何も起こらない。それどころか、体から力が抜けていく感覚すらない。
(だめだ……できない……? どうして……)
ネロの誕生は、あの死の淵で、怒りと絶望と祈りが混ざり合った、奇跡のような瞬間だったのかもしれない。今の自分には、生命そのものを無から創造することはできない。ルシアンは、ネロという存在が、いかに特別で、かけがえのないものであるかを痛感した。
もう一つ、ネロ自身の能力だ。あの不思議な現象、ゴブリンの知識が流れ込んできたあれは何なのか……
確認をするため再びゴブリンを探した。今度は、最初のような苦戦はしない。ルシアンが植物の罠で動きを封じ、ネロが的確に喉笛を掻き切る。連携は、既に手慣れたものだった。
だが、ゴブリンが息絶えても、何も起こらなかった。ネロの体は光らず、ルシアンの頭に新しい知識が流れ込んでくることもない。
(だめか……。同じ魔物じゃ、意味がないのか? それとも、何か条件が違うのか……? いや、待てよ。だとしたら……)
一つの仮説が、彼の頭に浮かんだ。
(――新しい種類の魔物を倒せば、ネロは、俺に新しい力をくれるんじゃないか?)
その仮説を証明するため、彼は危険な賭けに出ることにした。ゴブリンの知識の中にあった、この森で最も厄介な魔物の一体。夜に現れるという人狼の討伐だ。
月が森を青白く照らす頃、ルシアンとネロは息を潜めていた。
昼間のうちに、植物操作の能力を駆使して、獣道の至る所に巧妙な罠を仕掛けてある。
やがて、遠吠えと共に、屈強な体躯を持つ人狼が姿を現した。その鋭い爪と牙は、ゴブリンとは比較にならないほどの脅威を放っている。
闘いが始まった。ネロが囮となって注意を引きつけ、ルシアンが次々と罠を発動させる。蔦が足に絡みつき、鋭い枝がその体を傷つける。だが、人狼の生命力は凄まじく、決定打には至らない。
(隙を作り、決定打を入れるタイミングが必要だ。多少無理してでもっ……!)
自ら相手の懐に飛び込む。人狼の爪が、ルシアンの肩を浅く引き裂いた。激痛が走るが、彼は歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
「今だ、ネロ!!」
人狼が怯んだ一瞬の隙を、ネロは見逃さなかった。弾丸のように飛び出し、その喉笛に深々と牙を突き立てる。断末魔の叫びと共に、巨体が地を揺らして倒れた。
……そして、仮説を証明する時が来た。
人狼の亡骸にネロが近づくと、その体は、ゴブリンの時とは比べ物にならないほど、強い光を放った。
「ネロ!」
光がネロの体を包み込み、そして――ルシアンの脳を直接、何かが貫いた。
その瞬間、今まで月明かりでぼんやりとしか見えなかった森の景色が、まるで真昼のように、鮮明に、はっきりと見えるようになったのだ。木の葉一枚一枚の葉脈まで、地面を這う小さな虫の動きまで、全てが手に取るように分かる。
(これは……夜目が利くようになったのか……? そうだ、間違いない!)
ルシアンは確信した。
新しい種類の魔物を倒すことで、ネロは、その魔物の特性を自分に与えてくれるのだ、と。
この新たな力――【夜間視力】を得たルシアンだが、脳裏に、痩せ細り、死の淵をさまよっていたブレンナの姿が、鮮明に蘇った。
(そうだ……母さんには、時間がないんだ……!)
あれから何日経っているだろうか。この間にも、彼女の命の灯火は消えかけているかもしれない。一刻の猶予もない。焦燥感が、彼の心を焼き付けた。
だが、今の自分には確信がある。
最初に得たゴブリンの【地理知識】と、今手に入れた人狼の【夜間視力】。この二つが合わされば、魔物が最も活発になるこの夜の森でも、速く移動できる。早く、街に戻るんだ……!
「待ってて、母さん……今、戻るよ!!」