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第十一話:最初の民

クロスロードの宿屋の一室。窓から差し込む陽の光が、机に広げられた一枚の羊皮紙を照らしていた。カインから託された、広大な土地の権利書。その紙切れ一枚に、50を超える命の未来が懸かっている。


ルシアンは、その重圧に深く息をつくと、隣で心配そうに見つめるエリアナに向き直った。

「なあ、エリアナ。やっぱり、俺たちでもう一度鉱山へ行ってみないか。これは、俺が勝手に決めることじゃない」

「……うん、私もそれがいいと思う」

エリアナは、彼の考えを尊重するように、優しく頷いた。


食料と簡単な医薬品を手に、二人は再び「錬金術師の揺り籠」を訪れた。元凶が消えたとはいえ、陽の光も届かぬ洞窟での生活は、依然として人々の気力を静かに削いでいる。

ルシアンは、はぐれ者たちの代表である老獣人ガルバと、静かに向き合った。

「もし、ここを出て、太陽の下で新たな村を作れるとしたら。それは困難な道になるだろうが…それでも、あなた方は俺についてくる意思があるか?」


その問いに、ガルバは驚いたように目を見開いた。そして、ルシアンが彼らの意思を尊重してくれていることに気づくと、深い感動にその目を潤ませた。

「…我らの命は、あなた様に救われたもの。このまま、ここで朽ち果てることを思えば、いかなる困難も希望にございます。どうか、お導きを…! 我らは、地の果てであろうと、喜んであなた様にお供します!」

ガルバの言葉は、集落にいた全員の総意だった。その確固たる信頼と熱望を受け、ルシアンは初めて、懐から土地の権利書を取り出した。

「約束しよう。必ず、あんた達を太陽の下へ連れて行くと」

その言葉と、示された羊皮紙が意味するものを理解した瞬間、集落は爆発的な歓喜の渦に包まれた。



しかし、街へと戻ったルシアンの表情は、晴れやかではなかった。宿屋の一室で、彼は再び一人、思い詰めていた。歓喜の裏にあった、ガルバの「だが、我らには何も…」という言葉が、重くのしかかる。

その様子に気づいたのは、育ての親であるブレンナだった。彼女は、我が子の隣に優しく座ると、その肩をそっとさすった。

「大変なことを背負っちまったねえ」

専門的な知識はない。だが、我が子が一人で抱え込もうとしていることだけは、痛いほどわかった。

「あんたは一人じゃないんだよ、ルシアン。昔からそうだったじゃないか。辛い時は、周りを頼っていいんだ。あんたにはもう、信頼できる仲間がいるんだろう?」


ブレンナの温かい言葉と、隣で心配そうに頷くエリアナの存在。その二つの光に、ルシアンは心の重圧が和らぐのを感じた。そうだ、一人で全てを背負う必要はない。

気持ちを新たにしたルシアンは、「蒼き隼」の元を訪れた。そして、依頼主として、正式に頭を下げる。

「皆さんにお願いがあります。はぐれ者たちの新天地への護衛と、移住計画の立案に、力を貸してください」

バルトは、その真摯な申し出にニヤリと笑うと、ルシアンの肩を力強く叩いた。

「金の話じゃねえ。命の恩人の頼みだ。任せとけ。俺たちの専門分野だからな」


彼らは、早速その場で移住計画の協議に入った。プロの顔つきになったバルトが、地図を広げる。

「まず隊列だ。はぐれ者たち、特に老人と子供は中央に固める。前衛は俺が、後衛はルシアン、あんたが引き受けてくれ。あんたが後ろにいるだけで、全体の士気と安全性が段違いだ」

続けて、リックが地図の一点を指す。

「問題はルートだ。最短ルートは、この『呻きの沼』を抜ける必要があるが、今の俺たちでは危険すぎる。少し遠回りになるが、丘陵地帯を抜ける道を行くべきだ。ただし、夜間の魔獣の襲撃には警戒が必要になる」

セーラも、医学的な見地から付け加えた。

「道中の体力消耗を考え、休憩は通常より多く取ります。私が調合した栄養剤と、基本的な薬は人数分用意しますが、それでも限界はある。無理は禁物です」

こうして、彼らの専門知識に基づいた、緻密な移住計画が練り上げられていった。



準備を万端に整え、ついに50人を超える民の大移動が始まった。

「蒼き隼」の立てた計画通り、隊列は整然と進む。だが、自然の脅威は予測を超えて牙を剥いた。

三日目の昼過ぎ、一行は大規模な土砂崩れの跡に直面し、完全に道を塞がれてしまったのだ。巨岩と倒木が山のように積み重なり、まるで巨大な壁となって立ちはだかる。

「なんてこった…」リックが顔をしかめる。「これをどかすには、専門の工兵でも数日はかかる。沼地を迂回するしかないか…」

その言葉に、はぐれ者たちの間に絶望の色が広がった。その時だった。


「皆さん、少しだけ下がっていてください」

ルシアンは静かに前に出ると、立ちはだかる岩塊の一つに、ゆっくりと手を触れた。そして、次の瞬間、彼はその身に宿る【レイジ・ベアの膂力】を解放した。

ゴッ! という鈍い音と共に、乗用車ほどの大きさの巨岩に亀裂が走り、ルシアンの拳の一撃で、まるでクッキーのように粉々に砕け散る。


わずか数十分後。彼らの前には、まるで何事もなかったかのように、人や馬車が通れるほどの道が、再び開かれていた。

その光景に、誰もが言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


その夜の野営地。新たな脅威が、闇に紛れて忍び寄っていた。

狡猾なゴブリンの一団が、赤子や老人といった最も弱い者たちを狙い、音もなく包囲網を狭めていたのだ。

「敵襲! 右翼からゴブリンだ!」

リックの叫び声に、キャンプはパニックに陥る。「蒼き隼」が防衛線を張るが、多方向からの襲撃に、どうしても守りに穴が空く。

数匹のゴブリンが、防衛網を突破し、怯える子供たちのすぐそばまで迫った。

その時、ルシアンが静かに目を開いた。彼は、その身から、冷たく、深く、そして絶対的な「死の王の威圧」を解き放った。これはコープス・ロードから得た能力だ。

音もなく、しかし確実に、全ての生命の本能を直接揺さぶる恐怖の波動だった。

「ギッ!?」

子供に襲いかかろうとしていたゴブリンの動きが、まるで金縛りにあったかのように、ピタリと止まる。その卑しい目に、初めて純粋な「恐怖」が宿った。彼らの本能が、目の前の存在が、自分たちとは次元の違う、抗うことすら許されない「捕食者」であると絶叫していたのだ。

恐慌状態に陥ったゴブリンたちは、武器を放り出し、奇声を上げながら、我先にと闇の中へ逃げ帰っていった。

戦わずして、脅威は去った。ルシアンは、ただそこに立つだけで、自らが守ると決めた民の、完璧な守護者となっていた。



幾多の困難を乗り越え、長く険しい道のりの果てに、一行はようやく目的地へと辿り着いた。


視界いっぱいに広がるのは、乾いた大地だった。風が吹き抜けるたびに、黄色みを帯びた草がざわめき、砂塵が舞い上がる。遠くには、ゴツゴツとした岩肌を晒す山脈が、寂しげなシルエットを描いている。空はどこまでも青く澄んでいるが、遮るもののない日差しは容赦なく照りつけ、肌をじりじりと焦がす。


ルシアンは、周囲を見渡した。確かに、カインから示された地図と一致する特徴的な岩山が、遥か彼方に見える。ここが、彼らに与えられた新たな土地なのだろう。


だが、希望に胸を膨らませていたはぐれ者たちの顔には、次第に不安の色が濃くなっていく。見渡す限り、人家はおろか、人の手が入ったような痕跡すら見当たらない。木々はまばらにしか生えておらず、頼りになりそうな水源も見当たらない。


「ここが…私たちの、新たな住処なのか…?」

老獣人ガルバが、乾いた声で呟いた。その声には、隠しきれない落胆の色が滲んでいる。他の者たちも、期待していた緑豊かな土地とはかけ離れた、過酷な現実に言葉を失っていた。


ルシアンも、その厳しい現実に息を飲んだ。肥沃な土地だと聞いていたが、今はただの乾いた荒野に見える。このままでは、雨露を凌ぐ場所すら確保できない。ましてや、作物を育て、人々が安心して暮らせるような環境を築くには、一体どうすればいいのか。


(何か、できることは…俺にできることはないのか…?)


ルシアンは、自身の内に眠る根源的な力【星命創造】を探った。戦うためだけではない、何かを生み出し、育むための力を。

彼はまず、地面に手を触れた。乾ききった土壌の下に、わずかながらも生命の息吹を感じる。微弱な地下水脈の存在を捉えたルシアンは、そこに意識を集中させた。


(もっと深く…もっと豊かに…! 命の源を、ここに!)


彼の体から淡い光が滲み出し、指先を通して大地へと注ぎ込まれる。すると、ゴポゴポという音と共に、乾いた地面が盛り上がり始め、やがて、清らかな水が勢いよく噴き出した。それは、涸れることのない、豊かな泉となった。


「み、水だ…! 水が出たぞ!」

最初に気づいた子供たちの歓声が、荒野に響き渡る。はぐれ者たちは、その奇跡のような光景に我先にと駆け寄り、湧き出す清水に歓喜の声を上げた。

「なんてことだ…水魔法なのか? だが、魔力ゼロのはず…!」

バルトが絶句する隣で、リックは分析を放棄したように首を振る。

エリアナは、皆と同じように驚きに目を見開いたが、すぐにその表情は「ふふん、ルシアンならこれくらい当然よね」と言わんばかりの、誇らしげな笑みに変わっていた。


次に、ルシアンは周囲の痩せた木々に目を向けた。


(もっと強く…もっと大きく…皆が雨風を凌げるように!)


その木々にそっと触れ、再び【星命創造】の力を注ぎ込む。すると、木々は目に見える速さで成長を始めた。枝葉を伸ばし、互いに絡み合い、やがて、いくつもの自然なドーム状の「生きた家」が、荒野の中に現れた。


今度こそ、はぐれ者たちは言葉を失った。そして、誰からともなく、その場にひれ伏し始めた。彼らの目に、ルシアンはもはや救世主ではなく、神そのものとして映っていた。

「生命を…成長させるだけじゃない…意のままに、形を…変えている…? こんな魔法、聞いたことがない…!」

癒し手として植物にも詳しいセーラの声は、畏怖に震えていた。

エリアナは、もう驚かなかった。ただ、次は何を見せてくれるのだろうと、期待に満ちた瞳で、ただじっとルシアンの姿を見つめている。


最後に、彼は足元の乾いた地面に視線を落とした。わずかに生えている草の根に、意識を集中する。


(少しでも…皆の飢えを凌げるように!)


彼の力が加わると、枯れかけていた草はみるみるうちに生い茂り、その根には、小さくも食べられる芋のようなものが実り始めた。

水、住居、そして食料。生きるために不可欠な全てが、何もない荒野に、一人の少年の手によって創造された。


その光景に、バルトは乾いた笑いを漏らした。

「はは…もう何が起きても驚かねえぞ、俺は…」


ルシアンは、荒い息をつきながら、自らが生み出した光景を見渡した。まだ、これで十分とは言えない。本格的な村を作るためには、もっと多くの資材が必要だ。だが、少なくとも、今日を生き延びるための基盤は、何とか作り出すことができた。


奇跡の後の、ひととき。

最初に新しい環境に駆け出したのは、子供たちだった。彼らは、生まれて初めて見るような豊かな泉の周りで、最初はおずおずと、やがて歓声を上げながら遊び始める。

ルシアンは、その光景を、穏やかな表情で見つめていた。彼は、民を率いる「主」としてではなく、ただの一人の若者として、その輪の中へと歩み寄っていく。


彼が近づくと、子供たちは一瞬、身を固くした。神のような奇跡を起こした絶対的な存在。その畏怖が、まだ彼らの心にはあった。

だが、ルシアンはそんな彼らに、ふわりと微笑みかけた。それは、戦いの時に見せる冷徹な表情でも、リーダーとしての厳しい顔でもない。ただ、ひたすらに優しく、温かい笑顔だった。

彼は、近くに生えていた草の葉を一枚ちぎると、息を吹きかけ、不思議な音色を奏でてみせる。その素朴な音に、うさぎの耳を持つ少女が、ピクン、と耳を動かした。ルシアンが笑いかけると、少女も、つられたように小さく笑う。

それがきっかけだった。子供たちは、次々にルシアンの周りに集まり始め、いつしか彼は、獣人の子供たちに囲まれて、一緒になって笑い声を上げていた。


エリアナは、その光景を、少し離れた場所から、胸の奥が温かくなるのを感じながら見守っていた。

その時だった。一番小さな、狼の耳を生やした男の子が、はしゃぎすぎて足をもつれさせ、ころん、と地面に転んでしまった。

「う、うわーん!」

驚きと、少しすりむいた膝の痛みに、男の子は大きな声で泣き出した。


その子の母親が駆け寄るよりも早く、すっとその場に屈み込んだ影があった。ルシアンだった。

彼は、泣きじゃくる男の子を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと優しく抱き上げる。

「よしよし、大丈夫だ。痛いの、痛いの、飛んでいけ」

子供をあやすその声は、エリアナが今まで聞いたこともないほど、優しさに満ちていた。彼は、その子の涙を指で拭うと、すりむいた膝に、そっと自分の手のひらを当てていた。


エリアナは、その光景から目が離せなかった。

鉄のゴーレムを引き裂き、死の王すら蹂躙した、あの圧倒的な力を持つ手。その同じ手が、今は、泣きじゃくる小さな子供を、慈しむように抱き上げている。

絶対的な強さと、海の底よりも深い優しさ。

その、あまりにも大きな振れ幅を持つルシアンの姿に、エリアナの心臓が、ドクン、と大きく脈打った。


(ああ、そっか……)


胸に広がる、この甘い痛み。彼が誰かに優しくするたびに、少しだけ、胸がチクリとするこの感情。

ただの幼馴染だからじゃない。仲間だからでもない。

私は、ルシアンのことが――。

エリアナは、熱くなっていく自分の頬を両手で押さえながら、その恋心の確かな芽生えを、初めてはっきりと感じていた。



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