第一話:星の落とし子、闇夜に啼く
それは、遥か古の星々が交わし、永劫の時を経て紡がれた、たった一つの約束だった。
その約束の器として生を受けた少年には、何一つ与えられなかった。
名も、過去も、力さえも。
ただ一つ、貧しい母がくれた温もりだけを胸に、彼は生きていた。
そのささやかな幸せが、理不尽な悪意に踏みにじられ、全てを奪われた時――
少年は、神に祈らなかった。
ただ、己の無力さを呪い、灼けつくような怒りを、星に叫んだ。
その声が、永劫の眠りについていた、星の祈りを揺り動かすとも知らずに。
これは、絶望の淵で神にも等しい「創造」の力を手に入れた少年が、
やがて孤独な星々(仲間)を引き寄せ、
忘れられた者たちのための安息の地(国)を創り上げ、
そして、この星を蝕む、根源的な闇に立ち向かうことになる物語。
彼が創り出すのは、楽園か、それとも新たな地獄か。
濃霧が、世界の輪郭を白く塗りつぶしていた。
その中を、鳥とも獣ともつかぬ、翼を持つ何かが、一つの小さな籠を大切そうに運んでいる。
その何かは、まるで壊れかけの機械のように、途切れ途切れの言葉を呟いていた。
「ヤクサイ……ホシ……コ……アタタカキ……ッ…ナ…ノモト……へ」
やがて、翼持つ何かは、とある王国の、雨に濡れた貧民街の路地裏へと舞い降りる。
そこに籠をゆっくりと置くと、その体は淡い光の粒子となって、霧の中へと静かに霧散していった。
◇
その赤子は、まるで精巧な人形のようだった。
雨に濡れた貧民街の路地裏、汚れた布にくるまれた小さな命は、泣きもせず、笑いもせず、ただ虚空を見つめている。生きているのか死んでいるのかすら分からない、無機質な存在。それが、この世に生を受けたばかりのルシアンの姿だった。
「あらまあ……なんてこったい」
その人形を拾い上げたのは、ブレンナという一人の女だった。活発な赤い髪をポニーテールに揺らし、どんな苦境でも笑顔を絶やさない、貧民街の太陽のような女性。彼女は、そのありえないほど美しい赤子に、人間らしい温もりを与えた最初の存在だった。
「よし、あんたは今日から私の子だよ!名前はルシアンだ」
ブレンナは、感情を見せないルシアンを気味悪がることもなく、普通の子と同じように育てた。
彼女は一日中、ルシアンに話しかけた。固いパンを分け合いながら「美味しいねえ」、穴の空いた天井から見える星を指さしては「綺麗だねえ」と、まるで感情を教え込むように。ルシアンが虚空を見つめていても、ブレンナは彼の瞳の奥にいる「誰か」に向かって、根気強く笑いかけ続けた。
変化が訪れたのは、ルシアンが三歳になった頃だった。
その日、なけなしの金で買った薬をチンピラに奪われ、ブレンナは悔しさのあまり、家の隅で声を殺して泣いていた。その震える背中を、ルシアンはずっと見ていた。
ブレンナの瞳から、キラリと光る雫がこぼれ落ちる。
それを見た瞬間、ルシアンの胸の奥で、今まで感じたことのない奇妙な感覚が生まれた。チクリと痛むような、息が詰まるような、冷たい感覚。
彼は、その正体も分からぬまま、おぼつかない足取りでブレンナに近づき、小さな指でそっと彼女の濡れた頬に触れた。
「……ルシアン?」
驚いて顔を上げたブレンナは、自分をじっと見つめるルシアンの瞳に、初めて確かな「意志」の光が宿っているのを見た。彼女はわっと声を上げて泣き出し、今度は悔し涙ではなく、壊れ物を抱きしめるようにルシアンを強く抱きしめた。
「ああ、ルシアン……優しい子だねえ……」
その温もりに包まれ、ルシアンは胸の奥の冷たい痛みが、ふわりと温かなものに変わっていくのを感じた。これが「悲しみ」であり、これが「優しさ」なのだと、魂で理解した最初の瞬間だった。
それからだ。ルシアンは、ブレンナという太陽の光を浴びる若葉のように、感情を芽吹かせていった。彼女が笑えば自分も温かい気持ちになり、彼女が怒れば自分も胸がざわついた。
ある晩、ランプの油が切れ、部屋が真っ暗になった。ブレンナは慣れた手つきで火打石を打つが、湿っているのか火花が散らない。それを見ていたルシアンは、ブレンナを助けたい一心で、小さな指をランプの芯にそっと近づけた。
この世界では、誰もが体に魔力を宿している。貧民街の住人でも、指先に火を灯したり、汚れた手を洗うための水をちょろちょろと出したりする程度のことはできた。
ルシアンは、ブレンナを助けたくて、小さな指をランプの芯にそっと近づけた。他の子供たちがやっているのを真似て、一生懸命に念じる。だが、何も起こらない。火も、水も、土も、風も、光も、闇も。六属性のどれ一つとして、彼に応えることはなかった。それどころか、まるで彼の指先から逃げるように、ランプの芯に残っていた僅かな火の粉すら、フッと消えてしまった。
「……ごめん、なさい」
その言葉には、かつてないほどの、はっきりとした無力感がこもっていた。
そんなルシアンの頭を、ブレンナの温かい手が優しく撫でた。
「いいんだよ、ルシアン。魔力なんてなくたって、あんたのその優しい気持ちが、母さんにとっては一番の魔法だからね」
だが、そんなささやかな幸せを、快く思わない男がいた。
貧民街の裏を牛耳る商人、ヴァレリウス。彼は、誰に対しても物怖じせず、不正を許せないブレンナの快活さを、ひどく嫌っていた。
十三歳になったある日、事件は起きた。
無理を重ねていたブレンナが、ルシアンの目の前で血を吐いて倒れたのだ。
「母さん! しっかりして!」
パニックになるルシアンを、ブレンナはか細い声で制した。
「大丈夫……ただの、貧血だよ……」
大丈夫なはずがない。彼女の体は火のように熱く、呼吸も浅い。ルシアンは雨の中を飛び出し、貧民街で唯一医学知識がある老人の元へ駆け込んだが、老人は首を横に振り小さく呟いた。
「大病では無いのだが、このままでは危ない。ただ、ここには薬が無い。」
頼る先は他に無かった。万策尽きたルシアンは、震える足で、ヴァレリウスの事務所の扉を叩いた。
「お願いします! 母さんを、母さんを助けてください! なんでもしますから!」
土下座して懇願するルシアンを、ヴァレリウスは冷ややかに見下ろした。そして、まるで慈悲深い聖者のような笑みを浮かべて、こう言った。
「そうか、ブレンナが。それは気の毒に。……いいだろう、私が医者を手配し、薬代も立て替えてやろう。ただし、君がその身を私に差し出すのなら、だ」
「……え?」
「君が、私の奴隷になるんだよ、ルシアン。君の労働力を前借りする形で、ブレンナを助けてやる。どうだ? 悪い話ではないだろう?」
それは、悪魔の囁きだった。だが、今のルシアンには、神の福音に聞こえた。
「……やります」
「ルシアン! だめだよ!」
いつの間にか追ってきたブレンナが、悲痛な叫びを上げる。
「そんなことしちゃだめだ! 母さんのことはいいから!」
「よくない! 俺は、母さんに生きててほしいんだ!」
ルシアンは、生まれて初めてブレンナに反抗した。その瞳には、涙が溢れていた。
「母さんがいなくなったら、俺は……俺は……」
言葉を詰まらせるルシアンを見て、ブレンナは唇を噛み締め、崩れ落ちた。
こうして、ルシアンは自ら、地獄の門をくぐった。ブレンナの命を救うため、ただそれだけのために
そして二年。
鉱山での過酷な労働に耐え抜いたルシアンは、ヴァレリウスに呼び出された。
「よくやった、ルシアン。君の働きのおかげで、ブレンナの借金もだいぶ軽くなった。褒美に一日だけ、休みをやろう」
その言葉に、ルシアンの心は躍った。二年ぶりだ。二年ぶりに、母さんに会える。きっと、元気になっているはずだ。俺が頑張ったんだから。
胸を弾ませ、彼は懐かしい貧民街の、我が家へと走った。
だが、彼を待っていたのは、残酷すぎる現実だった。
扉を開けると、そこには骨と皮ばかりに痩せ細り、生気の失せた目で虚空を見つめるブレンナが、汚れた寝床に横たわっていた。
「母さん……? 俺だよ、ルシアンだよ!」
駆け寄るルシアンに、ブレンナはかろうじて気づく。力なく伸ばされた彼女の手は、氷のように冷たかった。
「……ルシアン……? ああ、夢、か……。ごめんねえ……母さん、もう……」
咳き込み、か細い声で謝るブレンナの姿に、ルシアンは全てを悟った。
その頃、ヴァレリウスは自らの事務所の窓から、その光景を眺めていた。上質なワイングラスを片手に、その口元には愉悦の笑みが浮かんでいる。
(いい顔だ。希望に満ちたあの愚かな少年が、絶望に染まる瞬間……これだからやめられない)
そうだ。最初から、ブレンナもルシアンも、彼にとっては玩具に過ぎない。希望の頂点から叩き落とし、母子の絆ごと踏みにじり、その悲鳴を聞くことこそが、彼の何よりの快感なのだ。
(さあ、どうする? 泣き叫ぶか? それとも、怒りに任せてこの私に殴りかかってくるか? どちらにしても、最高の余興だ)
ブレンナの冷たい手を握りしめ、ルシアンは立ち上がった。悲しみは、なかった。涙も出なかった。ただ、腹の底で、氷のように冷たい何かが生まれただけだった。
踵を返し、嵐のような勢いでヴァレリウスの事務所へと駆け込んでいった。
「ヴァレリウスッ!!」
事務所の扉を蹴破り、ルシアンは叫んだ。
「ブレンナ母さんの……借金は、どうなっている! 俺の稼ぎは、どこへ消えたんだ!」
ヴァレリウスは、待ってましたとばかりに、心底愉快そうに唇を歪めた。
「ああ、君の稼ぎは、確かに私がブレンナへ『届けた』さ。だが、物には『手数料』というものが必要でね。それに、彼女は君が奴隷になったショックで体調を崩し、薬代もかさんでいた。ああ、そうそう。君という働き手を失ったせいで、住民からの嫌がらせも酷くなったようだな。君の稼ぎでは、利子を返すのがやっとだったというわけだ」
「嘘だ……母さんは! 全部、あんたが仕組んだことなんだ!」
「ほう。奴隷の分際で、私に口答えか」
ヴァレリウスの目が、蛇のように細められる。次の瞬間、屈強な男たちに腕を掴まれ、ルシアンは床に叩きつけられた。
「これは組織への反逆と見なす」
頭上から冷酷な声。腹の底を蹴り上げられ、息が詰まる。意識が遠のく中、最後に聞こえたのは、ヴァレリウスの嘲笑だった。
……次に意識が戻った時、ルシアンは冷たい土の上にいた。
鼻をつくのは、腐った血と獣の匂い。耳に届くのは、遠くで響く得体の知れない咆哮と、すぐ近くの茂みで何かが蠢く音。街の外にある森にでも捨てられたのだろう。魔物が跋扈する森だ。エサにされるのも時間の問題でしかない。
全身が砕けたように痛む。だが、それ以上に心が痛かった。
最初に込み上げてきたのは、自分自身への、どうしようもない怒りだった。
(俺は……なんて無力なんだ……!)
魔力があれば。金があれば。もっと力があれば。母さんを、あんな風にさせなかった。ヴァレリウスの好きにさせることもなかった。結局、俺は何もできなかった。ブレンナが教えてくれた優しさも、この二年間の努力も、全てが無意味だった。
その無力感は、やがてヴァレリウスへの、灼けつくような憎悪へと変わる。
あの男の嘲笑う顔が、脳裏に焼き付いて離れない。俺たちのささやかな幸せを、絆を、尊厳を、あの男は玩具のように弄び、踏みにじったのだ。
許さない。
許してたまるか。クソ、クソ、クソぉぉぉ!!
「う……あああああああああっ!」
……叫びが最高潮に達した瞬間、何かが起こった。
世界の色が反転した。
緑の木々は血のような赤に、土は不気味な青に、空は黒く染まる。まるで時が止まったかのように、風も、木の葉も、全ての動きが静止した。
(なんだ、この感覚……)
そして、次の瞬間、世界から音が消えた。風の音も、木の葉のざわめきも、自分の呼吸さえも聞こえない。ただ、自分の心臓の音だけが、頭の中に直接響き渡る。
ドクン。ドクン。ドクン――。
背中を接する地面の、そのさらに奥深く、星の核から響くような、途方もなく巨大な波動を感じた。
ゴオオオオオオオオ……。
その波動は、彼の心臓の鼓動と完璧に共鳴している。波動は大地を伝い、彼の体へと流れ込み、細胞の一つ一つを激しく震わせた。
「――っ!?」
彼の体から淡い光が溢れ出す。あれほど体を苛んでいた激痛は、力の奔流に飲み込まれるように消え去っていく。
だが、理解を超えた力は、彼のちっぽけな器には大きすぎた。体から力が抜け、意識が急速に薄れていく。
(なんだこれ…!?だが、だめだ……このままじゃ……)
獣の唸り声が、まだ耳に残っている。この魔物の蔓延る森で、無防備に意識を失うことは、そのまま死を意味する。
(眠れば、食われる……!)
最後の力を振り絞り、ルシアンは祈った。誰か。誰か、助けて。
刹那……彼の体から溢れ出ていた淡い光の残滓が、ふわりと胸の前に集まった。周囲の木々の影が、その光に吸い寄せられるように伸び、絡みついていく。光と影が、まるで糸のように寄り合わさり、一つの形を紡ぎ始めた。
耳が生まれ、しなやかな四肢が形作られ、くるりと長い尻尾が現れる。最後に、固く閉ざされていた瞼が開き、ルビーのように赤い瞳がルシアンを映した。
無から生まれたそれは、一匹の小さな黒猫だった。
「……猫……?」
生まれたばかりの黒猫は、ルシアンの胸の上に、ことりと静かに舞い降りた。
訳が分からない。だが、胸に伝わる確かな重みと、トクントクンと脈打つ小さな命の温もりは、紛れもない本物だった。
絶望的な孤独の中に灯った、たった一つの温かい光。ルシアンは、その小さな命を抱きしめながら、安堵に満たされ、そして……完全に意識を手放した。
何者かの下卑た笑い声が聞こえた。ルシアンの意識はゆっくりと覚醒へと向かい、重い瞼を少しずつ開けていく。
……見れば、緑色の醜い小鬼――ゴブリンが三匹、涎を垂らしながらこちらへ近づいてくる。
そうだ。ここは魔物の森。
ふと、思い出し、胸の上を咄嗟に確認する。夢では無かった。黒猫がいる。
ルシアンの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。
まだ幼かった頃、眠れない夜にブレンナがよく話してくれた、古いおとぎ話。
――闇の森で道に迷った心優しい騎士を、一匹の小さな黒猫が、知恵と勇気で守り抜く物語。
(あの物語に出てきた、賢くて強い猫の名前は……)
「……ネロ」
口に出した瞬間、それが正しい名前だと確信した。自分を守るために生まれてきてくれた、この小さな相棒に、これ以上ふさわしい名前はない。
ゴブリンが棍棒を振り上げた。ルシアンは無我夢中で叫んでいた。
「危ない!」
その声に呼応するように、地面に触れていたルシアンの手から、再びあの淡い光が迸る。彼の意志とは関係なく、地面から伸びたツタがゴブリンの足に絡みついた!
「ギッ!?」
バランスを崩すゴブリンたち。さらに、ルシアンの目の前の地面が盛り上がり、小さなキノコが瞬時に生える。ポン、と軽い音を立ててキノコが放った胞子を吸い込んだゴブリンは、目を回してふらつき始めた。
(俺が……やったのか……?)
ルシアン自身が呆然とする中、その隙を腕の中の黒猫――ネロは見逃さなかった。
ルシアンの腕から弾丸のように飛び出すと、注意散漫になったゴブリンたちの首筋に飛びつき、その小さな牙と爪で急所を的確に引き裂いていった。それは、ルシアンの指示などではない。ただ、主を守るという本能だけの、鋭い一撃だった。
3匹のゴブリンが倒れ、ルシアンが安堵の息をついたのも束の間、息絶えたゴブリンにネロが近づくと、その小さな体が淡い光に包まれた。
「ネロ!?」
何が起きたのか分からず、ルシアンは思わず叫ぶ。ネロはブルブルと小刻みに震え、まるで膨大な情報が一気に流れ込んできたかのように頭を振るような仕草を見せた。
やがて光が収まると、ネロはきょとんとした顔でルシアンを見上げる。
その瞬間、ルシアンの脳裏にも、断片的な映像が流れ込んできた。
(なんだ、これ……? 薄汚い巣穴……仲間……? 違う、これは俺の記憶じゃない――ゴブリンの!?)
驚きと混乱の中、ルシアンは理解した。ネロが光に包まれた時、倒したゴブリンの知識が、ネロを通じて自分に流れ込んできたのだ。
(……岩場? 水が湧いてる……こっちは、安全な場所か……)
なぜかは分からない。だが、ネロは自分の一部だ。この特別な力を持つ相棒と、自分は魂のどこかで繋がっているのだと、ルシアンは確信した。
ルシアンは、息絶えたゴブリンを一瞥し、静かに呟いた。
「ありがとう。お前たちの命、無駄にはしない」
それは、紛れもない本心だった。
腕にネロを抱き、ルシアンは歩き出す。頭の中に流れ込んできた情報を頼りに、安全な泉の方向へ。
今はまだ、生きるだけで精一杯だ。だが、必ず力をつける。この理不尽な世界で生き抜き、奪われたものを取り戻すために。
そして必ず――。
ブレンナを、この手で助ける。