第17話「SM()×SM()」
訓練場の片隅から伸びる列は、今日も端まで届いていた。
整然と並ぶ、平民たち。そして全員、妙に落ち着かない様子で背筋を伸ばしていた。
表情は真剣そのもの——のはずが、よく見れば、口元はわずかに緩み、目の奥にはどこか期待の色がにじんでいる。
(……にやけるな、真面目に受けるんだ、これは訓練だ、魂の修練なんだ……)
自分に言い聞かせるように、ひとりが拳を握りしめる。だが、顔はどこかゆるんでいる。隣も、その隣も、同じだった。
今日の導き——いや、訓練の一番手は女生徒らしい。
「本日の“魂の導き”、まずは女子からです! 男子は外で待機!」
シュウの声に従い、男たちは訓練場の外に出される。
シュウが最後に外に出て扉を閉め、中の様子は見えなくなった。だが——
ピシィンッ!
乾いた鞭の音が、わずかに外まで漏れてくる。
「……あぁ……っ」
少女の、耳に残る、どこか湿った声だった。
「おい、いまの聞いたか……?」
「……あ、ああ……」
男たちの脳裏に、あらぬ妄想が湧き上がる。
「こ、これは魂の……その、禊なんだ……」
「導きだ、そう、これは導き……」
顔を赤らめ、うつむきながら口を噤む者。
目をつむり、集中しているふりをして、しっかり音を拾っている者。
その後、扉を開け、女生徒が出てくる。少し涙目になっているのを、シュウと、早朝から並んでいた生徒は見逃さなかった。女生徒は振り返り、
「お導き、感謝いたします」
深々とお礼をし、訓練場を去る。ハンカチで目を抑え、鼻をすする音がする。
おそらく全員が、息をのみ、音を立てず、女生徒をただ眺めていた。
涙を拭う手元や、揺れる髪の動きすら、何一つ見逃さないように。
その様子を見て、最後尾にいる教師がつぶやく。
「……これは、修練なのかね? それとも……」
◇
その日の朝。教師たちの定例会議は、いつもと違う空気に包まれていた。
普段は形ばかりの報告と予定確認で終わる場だが、この日は違った。
「ミリア殿の件、平民に対する暴力に当たるのではないかね」
ひとりの教師が口火を切ると、他の者たちも次々に声を重ねていく。
「この国では、平民への不当な折檻は表向きには禁止されている……だが、今回ばかりは表向きでも通らんかもしれん」
「しかし事実、平民のミミックのテイム成功率は跳ね上がっている……。あれを“教育”と呼ぶか、“暴力”と呼ぶか、それが問われる」
「障害となるミミックを簡単に越えられるようになれば、貴族との差が崩れる。秩序が揺らぎかねない」
「実際に、貴族のご子息からも『グランセリオ家のえこひいき』『平民優遇』といった不満の声が上がってきている」
「このままでは、ミリア殿を“犯罪者”と呼ぶ輩も出かねない。貴族からの反感も……学園の品位が問われることになる」
「ミリア殿に犯罪者のジョブがついてしまったら……グランセリオ家からの寄付が絶たれる」
誰もが黙り込む中、教師のひとりが静かに立ち上がった。
「……私が確認してきましょう。本当に、魂の修練に効果があるのかどうか」
◇
その教師――クローヴェルは、そっと列の最後尾に立った。
前に並ぶ平民の少年がちらりと振り返りかけたが、視線が教師服に触れた瞬間、ぴしっと前を向いた。
(あくまで、現場視察だ……あくまで)
自分にそう言い聞かせながら、クローヴェルは行列の流れに身を委ねた。
自分の番が近づくにつれ、緊張と期待が入り混じる。列の進む音が心音のように感じられる。
シュウが、背の高い男に気づいて目を見開く。教師だとわかると、無意識に敬礼のような動きをする。
「せ、先生!? えっと、これは……」
「見極めに来た。いわれのない折檻や暴力のたぐいではないかと」
その声に、ミリアがすっと振り返る。
「シュウ、あなたはここにいて頂戴。人払いを——」
「いや、皆と同じで結構だ。余計に変な噂が広まっても困る」
「……わかりました。では」
バチン。最初の一撃は、控えめだった。ミリアは気を使ったのだ。
「こんなものかね。普段、他の生徒にやっているようにしてみたまえ」
ミリアの目がすっとすわる。
「……わかりました」
その瞳から迷いの色が消える。
バシィンッ!
強く鋭い音が、空気を裂いた。クローヴェルの体がびくりと跳ねる。
「……ぐっ……!」
苦悶するような声を漏らし、額にじんわりと汗がにじむ。
何度か鞭を受けたあと、ミリアが低く問いかける。
「あなたの大切なものは、何なの?」
「……私の……大切な……」
言葉に詰まる。考えようとすればするほど、何かが喉に詰まり、出てこない。
「遅いわ!」
バシィンッ!
再び、鞭の音が響いた。
「そんなことでは、ミミックの誘惑に勝てないわよ!」
その声に、過去の記憶がよみがえる——
◇
——ミミックに、勝てなかった。
若かりし日の俺は、何度も模擬魂に挑んでは、あの箱の口に惑わされた。
金貨、宝石、名誉……見え透いた幻影だとわかっていても、心のどこかで手が伸びてしまう。結局、俺はミミックをテイムできなかった。
だが、そこで終わりにはしなかった。
俺は、巨大なイノシシ風の魔物——《ワイルドボア》を手なずけた。そして、鍛えに鍛えた。その体格と突進力を生かし、多くの戦闘で活躍した。
その育成手腕を買われ、俺は学園に招かれた。今では、育成と戦術の両面で生徒を指導している。
もちろん、ミミックに勝てなかった過去は、今も胸に刺さったままだ。
家族のために、俺は安全で安定した教師という職を選んだ。平民にしては上々だ。
しかし、ワイルドボアの食費は馬鹿にならず、給料は頭打ち。
妻は言う。「また昇給見送り? あの子、飼うだけで赤字よ」
子どもは笑う。
「パパの魔物、でかいけどぶーぶーしか言わないじゃん」
学園では、貴族の子弟に気を使う日々だ。
生徒だけでなく、同僚の教師たちからも、どこか一線を引かれている。
「ワイルドボア……はあ、まあ、安全ですからね」
そう言われるたびに、クローヴェルは笑顔を浮かべたまま、ぐっと奥歯を噛みしめた。
——あいつを、“楽な相手”と決めつけて、心の中で見下しているのがわかるからだ。
本当は違う。戦える。鍛えれば応える。
俺は、あいつと一緒にそれを何度も証明してきた。
だが貴族たちは、目立つ魔物や、名のある血統しか見ない。
クローヴェルにも、ワイルドボアにも、そういう“肩書き”はなかった。
◇
バシィンッ!
鋭い痛みが、皮膚を通して魂まで響く。
思考が一瞬、白く塗りつぶされ——
気づけば、あらゆる鬱屈が吹き飛んでいた。
ああ、これだ。
この痛み、そして、それに耐え抜いたときの、身体の奥から湧きあがる感覚。
わけもなく、叫び出したくなるような、涙がこみ上げるような……
——それが、確かに“生きている”という実感だった。
「何が大切か、いってみなさい!!」
答えは出ている。
だが、その答えは、あまりにもくだらなく、あまりにも本気だった。
——大切なのは、“いま、この瞬間”。
そんなこと、ミリア嬢の前で? 他の生徒の前で? 言えるはずもない。
だからこそ——この背徳感。
見透かされたような羞恥と、そこから生まれる高揚感。
そして、あとからジワリと、身体の奥にしみてくるような快感。
鞭を受けるたびに、ずっと沈めていた感情が波紋のように揺れ始める。
なぜ、こんなにも胸が痛むのか。なぜ、こんなにも心が熱くなるのか。
それでも、気づいてしまった。
——これだ。
ここに、金や宝石、物欲以上の価値がある。
この感覚こそ、俺がミミックの誘惑を超えられなかった理由であり——
今なら、乗り越えられる確信そのものだった。
……残念ながら、俺はもう、ワイルドボアをテイムしてしまっている。
模擬魂に挑戦する資格は、とうに失われた。
けれど——
今なら、打ち勝てる気がする。
あのときとは、もう違う。
欲に惑わされた過去の自分を、いま、この場で超えられる——
そんな確信が、胸の奥から湧いてくる。
「先生……そろそろ、どうでしょうか」
いつまでも続く沈黙に、シュウは恐る恐る声をかけた。
クローヴェルは、ゆっくりと顔を上げた。
その頬には、一筋の涙が流れていた。
「……確かに魂の成長を確信した。これは、暴力ではない」
その声には、迷いがなかった。
ミリア、シュウ、そして見守っていた生徒たちは、胸をなでおろすように、そっと息を吐いた。
——その静けさの中。
シュウのポケットの奥にある黒い模擬魂が、誰にも届かぬ声でぼやいた。
(お前が勝手に目覚めただけだろ……)
「ありがとう、ミリア嬢、あなたのおかげで、私はようやく大事なものに気づかされた気がする。」
ミリアの顔が、真っ赤に紅潮している。
「……先生。失礼ですけど、あなた、平民の出でしたわよね?」
「ああ、そうだが」
「だったら……だったら……私を……“嬢”って呼ぶなああああ!!」
バシィイイイイイイン!
「あひぃ」
今日一番の、鞭がさく裂し、クローヴェルは前のめりに倒れ込み、気を失っている。
だがその顔は、幸せそうだった。
※SM(School Management)×SM(Soul Mentoring)──教育制度と魂の導きの狭間で揺れる、とある教師の葛藤回でした。
※なお、ミリア様の“嬢”に対する地雷ポイントについて、詳細は不明です。