第1話「まいどありー、トイレ掃除が専門のS級テイマーです」
まいどありー。わずかな報酬を前払いでもらう。
くたびれたバケツを片手に、俺は今日も便所の床を磨いている。
臭い? 慣れればどうってことない。鼻も魂も、この街の底に染まってるからな。
「ふごっ、ふごっ」
背後から、泥まみれのオークが笑顔でやってくる。
——ああ、俺はいま、オークと一緒にトイレ掃除をしている。
空を見上げると、ドラゴンの連隊が飛んでいる。
金色の鱗、世界を睥睨するような瞳。すべてを従わせる圧倒的な存在感。
ドラゴンの頂点に立つ、エンシェントドラゴン。
あの連隊の先頭にいるはずだったのは、金色の竜。そして、その背にまたがっているはずだったのは——俺だった。
テイマー学園でエンシェントドラゴンの模擬魂でのテイム——成功したのは、俺が初めてだった。
……あの瞬間、俺の人生は変わったと思った。
でも、変わったのは始まりにすぎなかった。
これは、俺が“這い上がり”、そして“すべり落ち”、再び“掴みなおす”物語。
それは学園の、あの古ぼけたトイレから始まった——。
* * *
テイマー学園、第一演習場の裏手にあるトイレ。
貴族様たちの嫌がらせで、掃除係を押しつけられた俺は、今日も黙々と床を磨いていた。
モップで汚れ水をぶっかけられなかっただけ、まだマシな一日だ。
この学院で生き残るには、何より“平常心”が命だ。
決して怒るな。逆らうな。——そう、ずっと両親に言い聞かされてきた。
「波風立てずに頭を下げていれば、なんとかなる」って。
……そういう世界で、俺はずっと生きてきた。
無心で掃除をする。ふと、掃除用具入れ端に、黒ずんだ小さな球がある。うーん、まさか、う〇こか、我慢できずにここでしてしまったやつがいるのか。
掃除用の火鉢でつかむ。近くでみてみると、臭いはない、まん丸い鉄の塊のようだ。よく見ると、装飾が施されてある。中が空洞になっているようでかすかな光がみえる。
少なくとも、汚物ではなさそうだ。
「なんだこれ、玉……? ただの飾りか?」
チャイムが鳴る。とっさに、ポケットに入れて、教室へ急ぐ。
授業が始まる。今日のテーマは、模擬魂を使ったテイム演習だ。
模擬魂は魔獣の魂を封じ込めた、テイムの練習装置。
テイマー学院の中でも近年生まれたばかりの画期的な発明だ。
テイム中、テイマーは無防備になる。そんな状態で危険な野外でテイムの練習をしていたら命がいくつあっても足りない。
教師が教壇に立ち、少し誇らしげに言った。
「今日は、いよいよ模擬魂を使った実践演習だ」
「テイムは魂と魂の綱引きのようなものだ。心をしっかりともつこと」
「演習は必ず3人一組でおこなうこと」
「今日の演習は、最弱生物スライムからだ」
「よし、まずお前の班からだ」
教師は俺を指さした。
この教室では、完全実力主義が建前だ。しかし、結局は血筋がものをいうことがおおく、平民出身者は、素質すらまともに測ってもらえず、成績最底辺に沈む。
俺もその一人。スライムすらテイムできないと思われている。貴族の連中の馬鹿にしたような目が、失敗しろと言っているように見える。
「よし、手をかざし、準備をしろ」
「はっ、はいっ」
上ずった声で返事をした。教師は、平民にはいつも強気だ。
右手をかざし、左手を腰に当てる。まるで軍隊教練の「前へ倣え」だ。
教師は、残った二人に指示を出した。一人は俺の手を伸ばしたまま支え、もう一人はその肘あたりに腕を絡めて押さえる。
「よし、魂を接続してみよ」
「はいっ」
覚悟を決め、目を閉じる。
世界が静まり返った。まるで音も光も吸い込まれたように、意識の中にぽっかりと空洞ができる。
上下も左右もない、無色透明な世界。視界は灰色がかった霧に包まれ、音すら存在しない。
そんな空間で、ただ一つ確かな存在——スライムの魂を感じる。
スライムの魂の動きが伝わってくる。檻を突き破るように、必死にあがいている。
(俺に従え……)
(ぐ、なんだこの圧力……本当にスライムか?)
視界のスライムが膨れ上がり、ぬるりと形を変えながら押し寄せてくる。
弾力のある巨大な塊が、全身を包み込むように圧し潰してくる。
(くっ、魂ごと押しつぶされる……!)
魂だけの世界で、俺は、思考ごとぎゅうっと圧縮されていくような感覚に襲われた。
——押し返される。拒絶される。
その瞬間、意識が遠のいた。
「……はっ、痛ててて」
気づけば床に転がっていた。全身が痛い。
何がどうなったんだ。