第5話
主人公のルークは現代日本にいたころはキラキラネームだと馬鹿にされていたが、この世界では、たまたま王子と同じ名前で顔も似ていたことから、優秀な影武者になるべくシュテルンブルク騎士養成学校に通って訓練を積んでいるという設定だ。45話までは楽しいドタバタ学園生活を送っていたが、最近は、身分を隠してこっそり学校に在籍している隣国の皇女であるティアラと、その侍女のテレサとともに、ティアラの母国にあるベリーズという町まで、大事な密書を届ける役目を負っている。気の強いティアラと優しいテレサ。そもそも異世界転生自体が非現実的な話であるのはおいておくとしても、いきなり美少女2人と一緒に旅に出るという展開も、小説ならではのものだろう。
「意外とあっさり書けたわね。」
誰もいない部屋でそう呟いて、時計を見る。書き始めてからまだ30分程度しか経っていなかったが、既に54話は3219文字で書き終えた。普段はどういう話にするか考えながら書いているので1時間以上はかかるのだが、今回は太郎のあらすじにそって話を肉付けしていくだけだったので、筆が進みやすかったのだと思う。各フロアにひとつだけ設置された露天風呂を女性陣が占領し、待ちきれなくなったルークが急かしに行ったところ、裸を見てしまって罵られるという話は、いかにも「小説家になりたい」の読者が好みそうである。純文学とは違い、ライトノベルにおいてはとにかく読者のニーズを見極める能力が重要なのだ。
そのままの勢いで55話も書きあげて、パソコンを閉じる。結局55話についても、太郎のあらすじをほとんど全てパクってしまった。違うことと言えば、太郎のアイディアでは初登場するライバルキャラがダンディなおじさんとなっていたところを、綺麗なお姉さんに変えたくらいだろうか。どうせハッキングしたのであれば、読者層のプロファイルデータくらい分析して欲しい。そうすれば、若年男性向け小説であるアクロディア戦記において、ダンディなおじさんなど必要がないことくらいはわかるだろう。そんなものは国王陛下一人で十分である。個人的にはそういうおじさん、好きだけど。
しばらくベッドの上でゴロゴロすることにする。ふとスマートフォンを見ると、メッセージアプリに着信があった。一ノ瀬くんからだ。会社の人にはプライベートの連絡先は教えないようにしているが、仲のいい数人は例外である。その中の1人が一ノ瀬くんというわけだ。
『午前中は長居してしまってすみませんでした。体調いかがですか?』
赤い絵文字で描かれたクエスチョンマークの後に、なぜか猫の絵文字が表示されている。猫が好きなのだろうか。
『大丈夫。ありがとう。ケーキも美味しかった。』
返信後、しばらく待ってみたけれど、『既読』の文字は表示されなかった。きっと仕事中なのだと思う。一ノ瀬くんは私と違って真面目だから、仕事中に何度もスマートフォンを見たりしないのだろう。
ぼーっと真っ白な天井を眺める。太郎とはいったい何者なのだろう。たしかにやっていること自体は気持ちが悪いが、アクロディア戦記の相当なファンであることは間違いなさそうだ。太郎というのは匿名だろう。とはいえわざわざ女性が男性のふりをする必要性がないし、パソコンやIT技術に詳しいらしいことからも、男性だと思う。おじさんはあまり私の小説を読んでいないから、年齢層は若いはずだ。うーん、さすがにこれだけの情報では全くどういう人物なのかわからない。
冷静に考えれば、アクロディア戦記にここまで執着する理由も不明瞭だ。たしかに人気のウェブ小説ではあるが、別にアクロディア戦記以外にも似たような人気ウェブ小説はいくらでもある。アクロディア戦記の今月のランキングは4位だし、トップ3のうち2つはアクロディア戦記と同じく異世界に行く話だ。アクロディア戦記の更新が待ちきれないとか、内容がマンネリ化してつまらないというのであれば、そちらを読んでいれば十分なのではないか。
それに、太郎自身がそこそこ小説を書くセンスがあるのも気になるところだ。全体の統一感や辻褄合わせを考えなくてよいサブエピソードとして単発で2話、しかもあらすじを書いただけなので、彼の能力を過信することはできない。それでも、温泉宿のくだりでは読者のニーズを的確に把握しているし、のちのち重要な役割を担うキャラクターを早めに登場させておくのは書き手として後で都合が良くなることが多いテクニックである。もしかしたら、太郎自身も「小説家になりたい」でオリジナル小説を書いているのかもしれないと考える。もしそうであれば、彼の作品を少し読んでみたい気がした。そう思って自分のフォロワー一覧をざっと見てみたけれど、その数はこの1年で数万人にまで膨れ上がっており、とてもじゃないが怪しいアカウントを見つけ出すことは不可能だった。純文学ばかり書いていた頃は9年かけても300人程度だったのに、この1年間でその数百倍の人が私に注目している。それにもかかわらず、アクロディア戦記は私が本来書きたい小説とはほど遠い内容である。何とも言えない気分だ。
時計の針はいつの間にか午後4時を指していた。冬至が近いこの時期であれば、あと1時間もすれば暗くなり始めるだろう。気温も下がってくるとつらいので、今のうちに夕食を買いに行ったほうがよい。流石に2職連続カップラーメンは辛すぎる。
下地とアイメイクだけ簡単にすませて外に出ると、空には灰色をした大きな雲が渦巻いていた。鼻に意識を集中させると、うっすらと雨の匂いがする。雨が降ると嫌なので、いつもより少しだけ早足で道を歩くことにした。マンションの1階のコンビニでおにぎりやサラダくらいなら買うこともできるけれど、それではあまりにも雑過ぎる。今日は会社を休んでずっと家でのんびりしていたのだから、せめて夕食くらいは自炊した方が良いだろう。
いつもの大通りの脇の歩道を歩き始めて2分くらいだろうか。スマートフォンを開いて、メッセージアプリを確認した瞬間の出来事だった。ドンッという鈍い音とともに、全身に柔らかな衝撃が走る。
「あっ。」
ぶつかった拍子で手から抜け落ちたスマートフォンが、綺麗に整備されたアスファルトの上に落下した。拾い上げようとかがんだ瞬間、声をかけられた。
「おい。」
スマートフォンを拾い上げながら声の主の方を向くと、金髪をツンツンに立てたいかにも悪そうな男性が立っている。黒いコート端では、ギラギラと光るチェーン状のアクセサリが存在感を放っていた。足元は先のとがった革靴に覆われている。あまり普通の人がしない恰好をしているので年齢がよくわからないが、おそらく私と同じくらいだろう。
「あ、すみません。」
「すみませんじゃねえよ。」
チッとしたうちをして、男性は去って行った。私が悪かったのだろうか? たしかにスマートフォンに夢中になっていたことに問題は合ったけれど、ほんの一瞬の出来事だ。それに、仮に私が悪かったとしても、あの態度はないだろう。文句を言ってやりたい気持ちにはなったけれど、相手の雰囲気に押されて何も言えなかった。そんな自分に腹が立つ。
SNSのフォロワーが少なかったころであれば愚痴を書き込むところだ。そう思いながら拾い上げたスマートフォンを見つめる。ベージュ色をした地味なケースに包まれたスマートフォンの画面には、案の定ヒビが入っていた。あーあ。まだ買って1年ちょっとしか経っていないのに。なんのためにケースをしていたのだろう。
また一つ嫌な思いを抱えたまま、スマートフォンをポケットにしまう。一応有名人に足を突っ込みかけている身分なので、SNSに下手なことは投稿できなかった。最近はSNSで何かを書くのにも気を遣う。アクロディア戦記の内容についてであれば何を言われようがあまり気にならないのであるが、ヘタに炎上して私自身のことや過去に書いた純文学作品達にまで火の粉が飛ぶことは耐えられないのだ。複数のアカウントを使い分けるような器用さもない私は、何が原因なのかもよくわからないぼんやりとした不快感を心の中で握り潰すしかできなかった。