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第3話

 アクロディア戦記の続きを少し書き進めたところで、パスワードを変更する必要があったことを思い出す。コンピューターに詳しくないので詳しい手法はわからないが、簡単すぎるパスワードであることにも問題は合っただろう。中学生頃初登録した時に、当時好きだったアニメのキャラの誕生日をパスワードにして以来、一度も変えていないのだ。銀行でもワンタイムパスワードを導入している時代に、4桁の数字、しかも0808という単調なものであるのはあまりにも不用心である。


ピンポンという大きな音が鳴り、今度は家のチャイムが鳴った。ドキリとする。まさか太郎は私の住所まで特定済みなのではないか? そんな悪い予感が頭をよぎる。

 おそるおそるインターフォンを除くと、そこには会社の同僚である一ノ瀬くんが立っていた。ほっと一息つくとともに、なぜ一ノ瀬くんが家を知っているのか疑問に思う。そもそも何の用だろう?

「はい、上野ですけど。」

「あ、一ノ瀬です。上野さん最近体調不良が多いから心配になっちゃって。人事の人に住所を聞いてお見舞いに来ました。」

「ありがとう。とりあえず開けるわね。」


 開錠ボタンを押し、一ノ瀬くんが画面から消えたことを確認してからインターフォンを切る。一ノ瀬くんは今年の4月に入社ばかりの新人であり、1年半程度働いている私から見ると後輩と言える存在だ。とはいえ相手は正社員で、こちらは派遣。世間では年上の部下をどう扱うかなんていうことで頭を抱える上司も多いらしいが、年下の正社員をどう扱うかも非正規社員にとっては結構死活問題だ。下手なことをすると職を失いかけない。派遣社員は常に正社員の顔色を窺い続けなければならない運命にある。


 再びチャイムが鳴る。今度は先ほどよりも少し安っぽい音がした。オートロックのチャイムとは異なり、各室のチャイムはこの程度である。

「はい。」

「一ノ瀬です。」

念のためインターフォンで再度確認してから、ドアを開けた。目の前には、まだ新しい真っ黒なスーツの下に、シワが伸び切っていないシャツを着た一ノ瀬くんが立っている。男性にしては小柄で細い身体と、それにピッタリとマッチする丸い小さな顔。全体的にパーツが中央に寄った幼い顔立ちは、22歳の大卒新入社員だとは思えない。18歳と言われても信じるだろう。

「上野さん、大丈夫ですか?」

「あ、うん。ありがとう。とりあえず入って。」

「え、良いんですか? これ渡しに来ただけなのでここで十分ですよ。」

「いや、流石にそれで追い返せないでしょ。」

恥ずかしそうに頬を赤らめる一ノ瀬くんの腕を引き、半ば強引に室内に連れ込む。男性を部屋に上げることなんてもう何年ぶりだろう。普段であれば絶対にこんなことはしないのだけれど、朝から不気味な出来事があったので、一人で家にいるのが嫌だという思いもあった。それに、一ノ瀬くんなら信用できる。


「お邪魔します。」

蚊の鳴くような声でそう言いいながら脱いだ靴を揃える一ノ瀬くんの隣で、ボロボロのスニーカーが雑に転がっていた。よく考えればメイクもしていないし、部屋だって片付いているとは言えない。もともと女らしいタイプではないが、それでもオフィスに行くときは多少気を遣っていたので、この生活を同僚に見せてよかったのかと後悔が湧いてくる。慌ててカップラーメンの飲み残しをキッチンに流し、片付けた。

「ごめんね。散らかってて。それに、遠かったでしょう。」

いくら投げ銭で儲かったとはいえ、もともと貧乏な生活を送ってきた習慣が染みついている。そのせいもあって、いきなり家賃に何十万も出すのは気が引けたので、郊外にある比較的安いマンションにした。その結果、オフィスまで片道1時間もかかるのだ。同じ家賃を払えばもっと都心の普通のアパートが借りられるのに、馬鹿馬鹿しいことをした。これも反省点の一つである。


「いえ、まさかこんなすごいところに住んでるなんてびっくりしました。僕、エレベーターで耳が痛くなっちゃいましたよ。」

「偶然まとまったお金が入ったから、引っ越してみたのよ。なんとなくタワーマンションに憧れがあったんだけど、実際住んでみるとそんなにいいものでもないわ。」

「そうなんですか? 景色とか良さそうですけど。」

「見てみる?」

そう言って、カーテンが閉まったままの窓の方に目をやる。

「はい、見たいです。」

一ノ瀬くんの返事を確認してカーテンを開けると、先ほどよりは少しだけ上がった位置から太陽がこちらを覗き込んだ。冬とはいえ晴天であり、まだ少し眩しく感じる。

「わぁ、綺麗ですね。」

一ノ瀬くんが子供のような声を出して立ち上がり、窓へ近づいた。一歩前へ進むたびに、やや長めの細い髪が小刻みに揺れる。

「いいですね。僕も将来こういうところに住みたいです。」

30秒ほど外の景色を眺めて満足したのか、一ノ瀬くんがソファへと戻って来る。

「あ、遅くなってすみません。これお見舞いです。」

差し出された右手には、「Berry & Chocolate」と書かれた白い箱がぶら下がっていた。入室時からおおよそ予想は付いていたが、ケーキだろう。

「ありがとう。本当はそんなに体調悪くもないんだけど、気を遣わせちゃって悪かったわね。」

「いえ、ひどくなる前に休んでおいた方がいいですよ。僕の友達なんて風の引き始めなのに無理してたら結局1週間も休むことになりましたから。」

本当は引き始めですらなく100パーセント仮病なのであるが、そんなことを知らされても困るだけだろう。一ノ瀬くんの言葉には答えずに、ケーキの箱を開けた。

 中には、シンプルなイチゴショートケーキと、チョコレートケーキが入っている。周囲にある保冷剤があまり溶けていないが、どこで買ったものだろう。


「僕の家、ここから割と近いんですけど、家の近所の店で買ったんです。テレビで取り上げられたこともあるんですよ。」

私が疑問を口にする前に、一ノ瀬くんが答えてくれる。

「美味しそう。どっちがいい?」

「え? 僕は要らないですよ。二つとも上野さんが食べてください。」

「いいじゃない。せっかく来てくれたんだし。」

「でも……」

「二つも食べたら太っちゃうわ。ねぇ、いいでしょう?」

普段はあまり他人に強く何かを勧めたりお願いすることはない。特に男性に対してはそうである。しかし、今日はなぜか一ノ瀬くんとケーキを食べたい気分だった。タワーマンションを褒められて気分が大きくなっているのかもしれない。

「わかりました。でも、僕はどちらでもいいですよ。どっちも好きなので。」


「はい、どうぞ。」

要れたばかりの紅茶を机の上に置き、チョコレートケーキが乗った皿を自分の手元に引き寄せる。濃い茶色をした表面の上、先端よりも3分の2程度外側に寄った箇所に「Berry & Chocolate」と書かれたプレートが乗っていた。黒いソファに横並びで座る隣では、一ノ瀬くんがやや緊張気味の様子でイチゴショートケーキを見つめている。

「いただきます。」

そう言って、静かにフォークを降ろす。やや手応えのある堅い外側を削ると、高密度なチョコレートがずっしりと中まで詰まっていた。スーパーやコンビニで買えるものとはまるで違う、いわゆる本物の味がする。


「美味しいですか?」

一ノ瀬くんが心配そうに聞いてくる。私が一口食べる間に、彼の手元にあるイチゴショートケーキは既に半分くらいがなくなっていた。

「うん、ありがとう。こんなにおいしいケーキは食べたことがないわ。」

「よかったです。口に合わなかったらどうしようかと思いました。」

そう言って肩を降ろしたかと思うと、すぐにまた自分のケーキを食べ始めた。一ノ瀬くん自身が、このケーキが大好きなのだろう。


 水曜日の午前11時。普通の人であれば働いている時間にタワーマンションの20Fで、若い男の子とソファに並んでケーキを食べる。なんて贅沢な時間だろう。ここにトイプードルでもいればまるで芸能人みたいだと思う。そんなことを考えていると、他の住民のことが気になってきた。たまにエレベーターですれ違う人の中には若いカップルなども珍しくないが、いったいどのような事情があってここに住んでいるだろう。自分で言うのもなんだけれど、普通の会社員が気軽に住める場所ではないはずだ。

「そういえば会社は? 行かなくていいの?」

思い出したように一ノ瀬くんに尋ねる。彼は勤務時間中のはずだ。

「取引先と会議って言って抜けてきちゃいました。そろそろ帰らないとバレるかもしれませんね。」

「あ、別に帰れって言いたかったわけじゃないわよ。」

一ノ瀬くんが鞄を持ち上げたので、慌ててそう付け加える。

「いえ、体調悪いのにあんまり長居するのも申し訳ないので。僕はこの辺で失礼します。僕も今日知ったんですけど、僕たち結構家近いみたいなので、何か必要な物とかあればいつでも言ってください。すぐ届けに来ます。」

そう言って、スタスタと玄関へと向かっていく。慌てて追いかけて、「ありがとう」と声をかけるだけで精いっぱいだった。


 小さな後ろ姿を見送って、ソファに戻る。チョコレートケーキはまだ半分以上残っていたが、さっきまでのように特別美味しくは感じなかった。しばらくぼんやりと食べ続けたけれど、結局、文字の書かれたプレートのあたりまで食べたところでフォークを置く。残りを冷蔵庫に入れると、さっき捨てたカップラーメンの一部がまだ流しの隅に残っているのが目に入った。

「はぁ……」

ため息をついてしっかりと洗い流すと、一気に現実に引き戻された気がした。

 数分前まで賑やかだった部屋は、再び静寂に支配されている。耳を澄ますと、ジーッっというパソコンの電磁音がわずかに聞こえてきた。そうだ、小説の続きを書かなければ。

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