第2話
「なによこれ……。」
突然のメールに絶句する。私のパソコンがハッキングされている? そういえば、数日前にSNSに変なダイレクトメッセージが届いていた気がする。URLをクリックしても真っ白なページに飛ばされただけだったので気にしていなかったが、あそこから何かハッキングの手掛かりになるような情報が漏れてしまったということだろうか。なんとも迂闊だった。決して機械に詳しい人間ではないが、それにしても典型的な手法に引っかかってしまったのは恥ずかしい。
いや、違和感の正体はそこではない。ハッキング自体はよくあることだし、自分でも理由はさっぱりわからないが、アクロディア戦記はそこそこ人気の作品だから、狙われること自体は一応つじつまがあう。じゃあ何がおかしいか? この太郎という人物から、自分が犯罪をしているという自覚が全く伝わってこないことである。いや、それどころか、むしろ親切に教えてやっているという態度すら読み取れる。実際、「感謝してください」なんて書いてるし。
再びスマートフォンが鳴き声を上げ、今度は右手の中で小さく振動した。すぐに開いてため息をつく。送信者欄に「山口課長」と書かれた新着メールを閉じて、再び太郎からのメールに画面を戻した。
「マンネリ化? 余計なお世話よ。スライムから始まって、ゴブリン、コウモリと来たら次はリザードマン。そういうものなんでしょ。他のウェブ小説もだいたいそんな感じじゃない。」
カーテンの隙間からなおも朝日が侵食してくる部屋の中で、1人でスマートフォンに向かってまくし立てる。
「だいたいリザードマンって何? なんでトカゲが2本足で立つわけ?」
ファンタジーの世界に現実の話を持ち込むという野暮なツッコミを入れるくらいには苛立ちが募ってきた。そもそも小説を書くというのは太郎が思っているほど容易なことではない。素晴らしい物語をたくさん読めば読むほど自分の作品が陳腐に思えてくるし、自己の能力の限界を感じる。読むことが好き、得意、あるいはたくさん読んだからと言って、いい物語が書けるかとは別の話だし、自分が書きたい作品と売れる作品も別である。
それにしても、自分でつまらないと思うのと、他人からつまらないと言われるのではこんなにも違うとは思わなかった。マンネリ化しているだのワンパターンだの、ただの読者の分際で失礼にもほどがあるだろう。こんな得体の知れない犯罪者に何が分かるのか。私にはお前の他に、毎日60万PVのユーザーがついているのだ。
怒りの感情を抑えきれないまま、返信ボタンを押す。在宅勤務がメインになる前は通勤電車の中で執筆をしていたこともあったので、フリック入力の速度には自信があった。
From:自分
To:太郎
Subject:Re:アクロディア戦記について
メールありがとう。文句があるなら読まなくて結構です。せいぜい他のつまらない小説でも読んで人生を無駄にしてください。
あと、他人のパソコンに侵入するのは犯罪ですよ。ご存じないかもしれませんので、念のためお伝えしておきますね。それでは。
「はい、送信っと。」
太郎の口調を真似た内容で返信し、少しスッキリする。朝から怖いやらイライラするやらですっかり小説を書く気分ではなくなってしまった。とりあえず何か食べようと冷蔵庫を開けてみるが、缶に入ったフルーツサワーと調味料しか入っていない。仕方がないので、カップラーメンを食べることにした。住む場所だけ変えても、生活は以前とほとんど変わっていない。一緒にランチに行く友達なんていないし、一人で店に行く勇気もない。そもそも、そういった派手な世界にあまり興味がないのだ。家でのんびり小説を読んだり書いたりしているのが何よりも楽しい。
ガタガタと大きな音が鳴り、スマートフォンが振動する。毎回同じ振動のはずなのに、置かれている場所や自分の状況によって、別のものではないかというくらい大きくも小さくもなるのが不思議だ。少し脚が不安定な木製の机の上からそれを手に取り中身を見ると、再び太郎からのメールが届いていた。
From:太郎
To:自分
Subject:Re:Re:アクロディア戦記について
返信ありがとうございます。夢野先生って本名は上野千草さんって言うんですね。良い名前だと思います。
あと、私は先生の小説にそんなに文句はないですよ。
たしかにマンネリ化してるとは言いましたが、他のウェブ小説よりはマシだと思います。頑張ってください。
しまった。メールソフトの氏名欄の設定を変更しないまま送信してしまった。今時メールで連絡をする相手なんて、会社と通販サイトくらいしかないので油断していた。謎のハッキング男に対して、不用意に個人情報を与えてしまったことを瞬時に後悔したが、もう遅い。今から偽名だと言い張ったところで取り返しは付かないだろう。
いまいち要点をとらえていないというか、のれんに腕押しといった感じの返信に若干イラっとしたものの、カップラーメンを食べて満腹になる頃には徐々に怒りも収まってきた。気持ち悪い奴にこれ以上構っていても仕方がない。メールアドレスと名前がバレたところで、だから何だっていうのだ。今時それくらいの情報だけでできることはないはずだ。そんなことを考えて、太郎からのメールに返信することなく、スマートフォンを机に置いた。
再びパソコンに向かい、しばらくぼーっとニュースサイトを見ていると気分が落ち着いてきた。やっぱりアクロディア戦記の続きを書き進めよう。悔しいけれど太郎の言う通り書き溜めが少ないのは事実であり、毎日少しずつても筆をとることが重要だ。今の私にとっては投げ銭が最も大きな収入源となっているし、書くのをやめてしまうとこの部屋の家賃すら払えなくなってしまう。
薄い水色を基調とした「小説家になりたい」のトップページにアクセスしてログインすると、右上に夢野楓というペンネームが書かれているいつものページが表示される。たしかに同種の後発サイトに比べるとやや使いにくい感じもするが、何よりもユーザー数が多いという圧倒的なメリットがある。私たち小説家のたまごは、読まれなければ意味がない。まずは人が多いことが第一で、使いやすいか否かは二の次だ。
なんて言ってみたけれど、実際は最初に登録した10年前と比べると、ずいぶんと使いやすいサイトになっていると思う。デザインも綺麗になったし、スマートフォンでの操作にも対応している。それに、投稿仲間の中には他のサイトへと主戦場を変えていった者もいるが、誰一人として成功していない。どこに投稿するかなどを考えている暇があるならさっさと書けという、小説の神様の思し召しかもしれない。
とりあえず書き貯めた分を放出します。この後もできるだけ早く更新します。