9.コクウに会いたい。
あの雨の日からどれくらい経ったのだろう。イチの足はほぼ完全に治っていた。まだ走る事は無理だが、歩くくらいは出来る。マサトの部屋は広くて、歩き回るだけでも楽しい。そんな部屋をうろうろと歩き回るイチの目に、ふと窓辺に置いてある花が止まった。とても色鮮やかな、綺麗な花だった。あれは何だろう。マサトが置いたものだろうか。とにかく、それをマサトに伝えよう。
「まさと、まさと、あれはなんだ!?」
わうわうと吠えるイチを見て、マサトは机に向けていた視線を窓辺へと移した。窓辺には鮮やかな小さな花が一輪、そっと置かれている。マサトは窓を開け、その花を取って、イチに見せてやる。綺麗なその花は、イチの知っている、あの秘密の空き地でしか咲いていない花だった。どうしてあんな所に花が置かれていたのだろう。どうして、どうしてと吠えてみると、マサトがそれを分かってくれたのか、こう答えた。
「あぁ、あれはね。黒猫がいつもああやって花を置いていくんだ。きみの友達かい?」
いつも窓を開けて部屋に入るように促すのだけれど、その黒猫は花を置くとすぐにいなくなってしまうんだ。マサトはそう付け加えて、イチの前に花を置いてから、その頭を撫でた。この辺りの黒猫と言ったら、コクウしかいない。コクウが自分の為に花を置いていってくれていた。少なくともコクウは、この辺りから離れていない。元気だろうか。そう考えると、どうしようもなくコクウに会いたくなってしまった。この花を持ってきたということは、もしかしたら、秘密の場所にコクウがいるかもしれない。探しに行かなければ。
「まさと、おれ…こくうにあいにいく!」
わんわんと強く吠えるイチを見て、マサトは何となく言いたい事を理解したのだろうか、部屋のドアを開けた。物凄い勢いで走り出すイチの後をマサトが慌てて追いかける。用心深く一緒に階段を下り、玄関のドアを開けて、マサトは微笑んで、いってらっしゃいと言ってくれた。ありがとうありがとう!何度もマサトにそう吠えてから、イチはドアから出て行く。コクウを見つけたら、今度は一緒に、マサトに会いに行こう。ちゃんとお礼をしに行こう。イチはそう心に決めた。
車に気を付けながら、イチは道路を走る。足が少し痛かったけれど、それでもイチは走った。道路からいつもの路地裏に入って、秘密の場所へ繋がる崩れた塀へ。イチは、無我夢中にただひたすらに走り続けた。コクウが、あの秘密の場所にいる事を願いながら。