タヒチの男
今日、4月3日はマーロン・ブランドの誕生日だ。
生きていれば93歳になるはずだった。
そして、今、ぼくはかつてブランドが所有していたタヒチのテティアロア島にいる。
ここは2014年にオープンしたザ・ブランドというホテルのテラスだ。
ホテルと言っても、大自然の中にあるバンガローのようなところで、すぐ傍には色鮮やかな鳥が飛び交っている。
テティアロア島は海鳥の天国と呼ばれるくらい鳥が多い。
「日本の方ですか?」
いきなり流暢に話しかけられて、ぼくは籐の寝椅子から体を起こした。
同年輩くらいの白人の男性が、両手に黄緑色の飲み物を持って立っている。
「よろしかったら、一緒に飲みませんか?」
そう言って、トロピカル・カクテルらしい飲み物をこちらに差し出した。
「ありがとうございます。日本語、お上手ですね」
そう語りかけると
「ええ、父から教わりました」
と答えて、右手を差し出す。
「クリスと呼んでください」
ぼくも立ち上がって握手し
「マイ・ネーム・イズ…」
自己紹介しようとすると
「シンヤさんでしょう。知っています」
ニッコリ笑って、隣の寝椅子にかける。
自然なしぐさに気品があり、育ちのよさを感じさせた。
「あなたのことは父から聞いています」
「お父さんが、どうしてぼくのことを?」
「父は東洋の文化に関心があり、なんでもよく知っていました」
夕日に照らされた海を見ながら、彼がつぶやくように言ったが答えになっていない。
「シンヤ、ホテルのバーで飲まないかい?」
不意に、砂浜からディックが大声でぼくに呼びかけた。ディックはホテル ザ・ブランドのマネージャーなのだ。
「OK、ディック。こちらのクリスくんと一緒に…」
と 言って振り向くと、今の今まで隣に掛けていたクリスの姿も、ぼくの手にあったトロピカル・カクテルもかき消すように消えていた。
「すると、彼はクリスと名乗ったんだね」
テティアロア島のホテル ザ・ブランドのマネージャー ディックは、バーでほろ酔い加減で尋ねる。
ここはホテルのオープン・バー、名前はテ・マヌ・バーという。
「そう、クリスと呼んでください、と言ってたよ」
そう答えると、ディックは首を回してこっちをじっと見た。
「他に何か言ってなかったかい?」
「う~ん、日本語はアジア贔屓の父親から習ったとか、ぼくのことも父親から聞いて知っていたとか言ってたっけ」
それを聞いたディックは、しばらく外の浜を見つめていたかと思うと、急にバーテンダーを呼んだ。
「ノアノアを二つ頼む」
バーテンダーは手馴れたしぐさで、リキュールや生クリームをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。
白っぽい黄緑のカクテルが二つ並んだ。
ぼくとディックの前に並べようとすると、ディックがさえぎって
「これは二杯ともシンヤにおごるよ。昨日、クリスがこんなカクテルを飲んでなかったかい」
ぼくはうなづく。
「じゃ、君とクリスが出会ったテラスに、こいつを一杯、今夜寝る前に置いておくといい」
「どういうことだい?」
ディックに尋ねたが、彼は意味ありげに笑うばかりだった。
夜遅く、ぼくは言われたとおり、テラスにあるサイドテーブルにグラスを置いて寝た。
翌朝、テラスに出てみるとグラスが空っぽになっている。
「やっぱり、あのクリスだな」
ディックが後から声を掛けてきた。
「クリスの正式名はクリスチャン。ぼくの親友でもあった。9年前肺炎で死んだ。そのカクテル、ノアノアはクリスが生前好きだったカクテルで、今も、時々、一緒に飲む相手を探しにこの世へ帰ってくるんだ」
「9年前に死んだのに、どうしてぼくのことを知ってたんだろう?」
「クリスの本名はクリスチャン・ブランド。この島の持ち主だったマーロン・ブランドの長男だよ。君がお父さんの大ファンだということは彼にも有名だったからね」