いやいやいや、ちょっと早い。 絶対早い。
「……なるほど。
君は、いっぱいいっぱいになっていたんだね」
私が泣き疲れて、ぐすぐすになった頃、皇太子殿下は静かな声でおっしゃった。
顔を上げると、いつの間にか私のすぐそば、おろおろしているアルベルト様に並ぶように身をかがめ、私の顔をのぞきこんでいらっしゃって、びくうってなる。
「レディ・ウィルヘルミナ。
君はのどかな村から貴族学院に来て、ずっと努力しつづけていた。
田舎の農家から男爵家の養女になり、編入試験に合格して学院の授業についていくだけでも並大抵のことではない。
君は全力で励み、周りの期待に応えてきた。
なのに急に、今まで以上の努力と気苦労を強いられる皇族の妃にと言われて、気持ちが弾けてしまったんだ」
その後ろから、ギネヴィア様も心配そうに見守ってくださっている。
怒って、呆れられるかと思ってたのに。
「まず、非礼だとか不敬だとかそういう話にはならないから、安心してほしい。
人の心の動きとして、当然のことだ。
私だって似た経験はある。
私は生まれた時から、将来皇太子となってもよいように育てられたが、それでも実際になってみると……
慣れるまでかなり辛かったよ」
「そうなの……ですか?」
そうだよ、と優しく頷いて、皇太子殿下は、「さ、座って」と私の手をとって、立たせてくれた。
ぽすんとソファに座る。
皇太子殿下はギネヴィア様を促して、元の席にお二人は戻られた。
「ミナ」
床の上に膝をついたままのアルベルト様が、私の手を両手でとってくださった。
二度も、アルベルト様の手を振り払ってしまったのに。
「混乱させてごめん。
俺が悪かった。
言う順番を間違えた。
皇族であるとかないとか、どういう仕事をするかとか、そういうことより、ミナと一緒にいることが俺にとって一番大事なことなんだ。
俺は、ミナのものだから」
“私は君に属する”と、アルベルト様はエスペランザ語で繰り返した。
神殿での結婚式で、誓いの言葉として使われる言葉だ。
いやいやいや、ちょっと早い。
絶対早い。
早すぎる!!
「早いよ!!
アルベルト様、ギネヴィア様と私くらいしか、まともに女の子と喋ったことないじゃない!
世の中、たくさんたくさん素敵な令嬢がいるんだよ?
なんにも知らずに、手近な私ってのは嫌だって言ったじゃん!!
せっかく、いろんな人とお話できるようになったのに……」
アルベルト様は、イラッと眉を寄せた。
「素敵な令嬢って、血筋が良くて、教養があって、社交上手でって、ってそういうやつか?
そんなの俺にはどうでもいいんだよ。
ミナじゃなきゃ俺は駄目なんだって、なんでわからないんだ?
ほんとはわかってるだろ?」
詰められて、私の視線が泳ぐ。
「だから、ミナが村に戻りたいなら、俺も皇族を降りて村に行く。
畑を耕したりするのは……出来るかどうか自信ないけど、まず、やれるだけやってみる。
もしどうしても無理なら、村で出来ることを見つける」
きぱっとアルベルト様はおっしゃった。
「そんなこと……
だって、アルベルト様はずっと、もっと研究がしたいって……
アルベルト様が本当にやりたいことができないんじゃ、一緒にいても意味がないじゃない」
また泣きそうになってしまった。
アルベルト様は少し笑って、私の手をぎゅむっとする。
「そうだ、研究はしたい。
魔導考古学の研究を進めれば、みんなのために役に立つことがきっとわかる。
でも、そのためにミナが辛い思いをするんだったら、俺には意味がないんだよ」
「だめだよ、そんなの……」
ぽろぽろ、涙がまた溢れてきた。
「ミナが一番大事なんだから、仕方ないじゃないか。
……ミナ、結婚しよう。
そこを先に決めて、後のことは、ゆっくり話し合おう」
穏やかな声が、心に染みてくる。
でも、結婚なんてできるの?
ギネヴィア様の方を振り返る。
大丈夫、大丈夫って、めっちゃ頷いてくださっている。
皇太子殿下もだ。
ほんとに?
ほんとに大丈夫なの?
名ばかり男爵令嬢でも、皇族のアルベルト様と結婚していいの?
でも。
でもでもでも。
うんって言う前に、確かめなきゃいけないことがある。
「……領主様と奥様を大事にしてくれる?」
アルベルト様はこくこく頷いてくださった。
「もちろん。
ミナを大事にしてくれる人達なんだから、俺も大事にする」
良かった。
男爵家をバカにされたとか、私の邪推だったんだ。
「父さんや母さんや、トマも家族のままでいていいの?」
田舎の実家のことはなかったことにしなさいってなるのなら、絶対に無理だ。
思わずまた涙声になってしまった。
「当たり前だ。
俺にはもう母親も父親もいないんだから、ミナの親が俺の親だ。
学院の春休みにでも、村に行って、ミナのご両親に挨拶して、結婚の許しをもらうから」
はへ!?って声が出た。
「村に来るの!?
アルベルト様が泊まれるようなところなんて、ないよ!?」
実家は母さんがなるたけ綺麗にしているけど、めっちゃ古い──正直に言えば、おんぼろ農家だ。
そもそも、村には水道なんてない。
ホテルどころか旅籠すらない。
外から人が来た時は、だいたい村長さんのところに泊まるけど、来るのは田舎周りのお役人と旅商人くらいだ。
あそこにアルベルト様が泊まるとか無理っしょ!?
そうなのか?とアルベルト様は首を傾げた。
「迷惑がかかるようなら、遺跡の発掘調査ではよく野営用のテントを使うから、一式持っていって練習代わりに使ってみる。
テントを張れる空き地くらいはあるだろ?」
「空き地ならたくさんあるけど……
でも、皇宮や研究所とは全然違う世界なんだよ!?
みんな、めちゃくちゃ雑に生きてるし……」
領主様までは偉い人だってわかるけど、皇族とか雲の上すぎてなにがなにやらな人がほとんどだ。
一応、学校ではざっくりした帝国の歴史を習いはするんだけれど、村の生活には全然関係ないし。
「あああそうだ!!
村で、好きになった女の人に結婚を申込みに行ったら、相手のお父さんに殴られた人がいたの。
もし……もし、父さんがアルベルト様を殴っても、死刑とかにならない!?」
平民が皇族を殴るとか、ヤバすぎる!
きああってなって言うと、アルベルト様は笑った。
「ならないならない。
ちゃんと殴られて、ちゃんと吹っ飛ばされて、ちゃんと取りすがって、泣き落として許しをもらうから」
「でも殴られたりしたことないでしょアルベルト様!?
うちの父さん、背は低いけど力は強いんだよ!?」
アルベルト様は、落ち着け落ち着けと私の手をぽんぽんした。
「ね、ミナ。
ちょっと考えてみて。
もし、今とは逆にミナが皇女で、俺が農家の生まれだったとしても、俺はきっとミナのことが好きになって、一緒になるためならなんでもしたと思うんだ。
そう思わないか?」
どうなんだろう。
皇女様の私なんて、全然想像がつかない。
でも、気がついたら、こくりと頷いていた。
なにがどうなっても、アルベルト様と離れるなんて厭だ。
「もし、そうだったら……
きっと私、アルベルト様をさらって逃げると思う」
それしか思いつかない。
だろ?とアルベルト様はふにゃりと笑って頷いた。
「ミナ、結婚しよう」
どうしよう。
もう、確かめなきゃいけないことが思いつかない。
おろっとギネヴィア様の方を見ると、めっちゃ頷いていらっしゃる。
皇太子殿下もめちゃめちゃ頷いてくださっている。
眼を戻すと、アルベルト様も大丈夫だって頷いてくださった。
「……ひゃい」
裏返りかかった声で言うと、アルベルト様はむぎゅーっと抱きしめてくださった。
ギネヴィア「(頷きすぎて、首がどうかなりそう…)」
皇太子「(レディ・ウィルヘルミナ、頼むから結婚するとさっさと言ってくれ…!)」




