第32話 奏 その2
異世界という存在そのものが、私の目に魅力的に映っていた。その衝撃は、次第に憧れに変わることになる。
『凄い、また異世界転生のアニメ!』
当時は空前の異世界転生ブームもあって、深夜のアニメ作品は異世界もので溢れかえっていた。他のアニメも見はしたけれど、それでも異世界作品が私の中では1番だった。
『このキャラ、すっごく強い。一瞬で大勢倒しちゃった』
単純に強い能力、弱そうに見えて実は強い能力、弱い能力を最大限に活用するキャラ。彼らの姿は英雄のように感じた。
『魔法だぁ、色んな使い方してる! チート能力ってやつも使って、めっちゃ楽しそう』
予想外の発想ばかりだった。空を飛ぶだとか、体が強くなるだとか、貧相だった私の想像力は異世界転生作品に育てられた。
『異世界って、綺麗なとこなんだ。草原や森に魔物がいて、空にはドラゴンがいて、見たことないお城や街もあって、素敵な冒険が出来るんだ……』
言葉の勉強だけじゃない。異世界を通じて出会った仲間や、波瀾万丈な旅。作品を通じて、私は人としての大切なことを学んでいった。
私が何かを考える時、心の声となる文章もいつからか異世界作品の主人公の口調に似るようになった。
『異世界、良いなぁ』
いつしか異世界は、私の憧憬そのもの。生きる指針になっていたんだと思う。
現実逃避というにも乏しいものだけど、そんな世界が本当にあったら良いな。そう思えるだけで、心が少し安らいだ。
『また! このガキは!!』
『痛い、いたい……』
『うっさいよ奏。今良いとこなんだからさぁ』
この日もいつもと同じように、仕事が上手くいかなかったことの八つ当たりで父から暴力を受け、母は競馬を見ながら横で笑っていた。
ただこの日から、変わったことがある。
『ねぇ、なんだか最近その子。殴られても声上げなくなったね』
『言われてみりゃ、そうだな。これならうるさくなくて良いな』
『でもさ、気持ち悪くない?』
私の中にあった、糸のようなものがこの時にはち切れた。
『──ハハ』
今まで知らず知らずの内に溜め込んでいた鬱憤か、それとも常識や『普通』を知り過ぎたが故の絶望か。
分からないけれど確かにこの時、胸の奥に亀裂が入った。
『ハハハハ、アハハハハハ、アッハッハッハッハッ!』
笑い狂った私を見て、両親の顔には一瞬だけ恐怖が浮き上がった。
『てめぇ……何が可笑しいんだコラァ!』
不気味なものを前にして父は再び蹴りを入れたけど、それでも笑い続ける私を気持ち悪がって父は蹴るのを止めた。
心は完全に壊れて、痛みは何故か感じなくなった。ブレーカーが落ちたみたいに、頭の中に情報が上手く入ってこない。
もしかしたら、まだ壊れていなかったのかもしれない。本当の意味で壊れないように、ただ空元気で笑う防衛反応だったかもしれない。
自分の本音すらも分からなくなって、滑稽な自分の行動も止められなくて、ただ思考を停止させて人形のように生きる道を私は選んだ。
『これって、ずっと続くのかなぁ……』
涙どころか暗い気持ちにもならず、ただ不意に出た疑問だった。乾いた瞳は汚い部屋の床を反射させて。
私が壊れて以降、両親は明らかに私を避け始めた。
無くなった訳じゃなかったけど、父親は暴力を振る回数が減った。母は弁当の残りを私の方に投げると足早にテレビの前に移動した。
虚無な毎日がしばらく続いたある日、私に転機が訪れる。
『あれ? 窓が、空いてる』
普段は閉まっている階段上の窓が開いていた。風が強かったからか、窓を塞いでいた木材が踊り場に落ちていた。
外から差し込む光と、ほのかに緑の匂いを孕んだ風が暗く臭い家に招かれる。
風が耳を撫でた瞬間、私はハッとある事を思った。
『そうだ、これで良いんだ』
理解した瞬間、不思議で仕方がなかった。なんで今まで、この方法を取らなかったのだろう。
なんでほんの少しも、この地獄から抜け出そうと考え付かなかったのだろうと。
『こうするだけで、良かったんだ』
階段の下から見える青空に誘われる。私の望んだ物は、その先にあるよと口説かれた気がした。
考えるまでもなく、私は階段の踊り場まで上っていった。
『こうすれば私も、異世界に行けるんだ』
足元に散らばる木の板を蹴飛ばして、何年も動かしていなかった窓を全開に開け放った。
窓から見えた光景は、私の人生最良の景色になったの。
目の前に広がる青空に、白く薄い雲が爽やかな風に流されて浮かんでいる。ずっと真っ暗な監獄にいた私の目に、その光景はあまりに眩しくて、それで綺麗だった。
『わあ、今日は良い空だぁ』
世界が祝福してくれた。私の門出を、この世界を去る私をその空が送り出してくれた。
最後に与えてくれたプレゼントに、私は感謝の言葉を残そうと思った。
心からの感謝と喜びを、とびっきりの笑顔で叫ぶ。
『ありがとうぅー!!』
涼しげな夏の風に包まれ、蒼一色の空に抱き締められて、私は頭から黒いアスファルトに落ちる。
──ここに来るのに、痛みはなかった。外は暖かくて、空が青くて、風が気持ち良い。その光景や感覚は私の人生の中で一番鮮明だ。
飛び出した先に待ってたのは無限に続く可能性の世界。そんなここは私にとってあまりにも遠く、そして思い焦がれたほどに愛しい場所。
何もかもから逃げられた私はようやく自由の身だ。
この瞬間が、私の人生のリスタート地点だった。
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「……これが、私の過去。私があっちで過ごした、14年間の記憶」
思ったよりかは、辛い感情は湧いてこなかった。
でも話し終わると、私の過去を聞いていたエマと軽葉は声を出して泣いていた。
軽葉は一生懸命、流れ落ちる涙を拭おうと目を擦る。
「ごめん、ね。私が泣いてもしょうが無いのに、辛かったのは奏ちゃんなのに……」
エマは震えた唇を噛み締めて、耐えようと抗いながら目を真っ赤に晴らす。
「言葉が、見つからない。何て言って良いか分からない。あまりにも、酷すぎて」
何故だろう、二人が私より悲しんでくれて、嬉しいって思っている筈なのに。
「ありがとう、2人とも」
なんで私も泣いているんだろう。
「私は友達どころか、大切に思ってくれる人が誰一人いなかったの。私の人生を悲しいって、涙を流してくれたのは、エマちゃんと軽葉ちゃんだけ」
そうだ、目の前にいる。私の夢は、もう手の届かない所にある幻想じゃない。
「夢だったんだぁ、ずっと。異世界で、美しい別世界で、私を思ってくれる仲間と、冒険することが……」
今の私は、夢に生きてるんだ。夢の中で、走ってるんだ。
「2人がいてくれるだけで、私はしあわせなんだよっ」
夢の先に待つ、しあわせを目指して私は生きている。
込み上げてくる涙で前が見えなくなると、2人は私の顔を拭きながら優しく抱擁した。
「もう大丈夫だよ、奏ちゃん。私達がいる、他にも奏ちゃんを思ってくれる人達はいる」
「……うん」
「悲しまなくて良い、もう辛い思いはしなくて良いんだよ。エマちゃんと私がいるから」
ああ、私は本当にしあわせ者だ。
「奏が見たことないような景色、見せてあげるよ。どんな場所でも、連れ行ってあげるから」
「……うんっ」
「奏は、幸せになって良いんだよ。やりたい事、もう何でもして良いの」
感情が溢れる中で1番色濃く、嬉しさで満たされていく。
「うんっ……!」
心の底から、ずっと言いたかった言葉が口から出る。
「私、すっごくしあわせ」
これは私が、異世界でしあわせになるための物語だ。




