『かわいい』を作る為に考察してみる
(* ̄∇ ̄)ノ 寄才ノマが極論をのべる。極論だぞ。
かわいい、とは何ぞや?
様々な作品が世に出た。そして人の目を引く、かわいい、があるかどうか。これが重要になる。
かわいい、というキャラクターがいるかどうか、何処がかわいいのか、また今までに無い新しいかわいいとは?
様々な試行錯誤が繰り返されてきた。
『可愛い(かわいい)は、日本語の形容詞で、いとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。
また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。派生語にはやや意味を強めた「可愛らしい」、動詞の「可愛がる」がある。
同義の古語は「うつくし(愛し)」(例:「うつくしきもの」『枕草子』)である。
現代語の「かわいい」に該当する古語の「かはゆし(かわゆし)」は、「いたわしい」など相手の不幸に同情する気持ちを指す』
以上、ウィキペディアより。
では、かわいいキャラクターを作る為に、何が、かわいい、なのか。少し掘り下げてみよう。
■美しい、と、かわいい
このふたつは似て異なる。美しくて可愛い、というのもあるだろうが、別個のものである。
美しい、にあるのは完全な美。完全性、完璧。そこから神々しい美しさとなる。
一方で、かわいい、には未完成、未熟、成長途中、というものが含まれる。
ここから美しさとかわいいの距離感が変わる。
完璧な美しさは神々しい為に、凡俗には触れがたいものになる。その完全性に触れて汚すのが恐れ多いとなる。
一方でかわいいにその完全性は無い為に、気軽に触れやすくなる。撫で撫でであり、もふもふである。
美しいは近寄りにくく、かわいいは近寄りやすい、または近づきたくなる。
ここにあるのはかわいいに対する保護欲がある。かわいいは未成熟であり、守る対象となる。完全性のある美しいはその完璧さの為に、守る必要は無さそう、ともなる。触れることが禁忌ともなる。
できる人ほど甘えるのが下手、というのもここに繋がる。完璧には近寄り難い。庇護の必要が無いのが美しい、で、庇護が必要と思われるのがかわいいである。
その為に美しいがかわいいとなる為には、その完全性を損なわなくてはならない。
神々しい美しさを持った聖女、だが、良く見るとうっかりなのか、右と左の靴下の色が違う。そっと指摘すると、しまったと顔を赤らめてどうしましょう? とわたわたと混乱する。
勇猛可憐な女騎士。男勝りに強い剣の腕。
だが、カエルだけは苦手でカエルに近づかれると腰が抜けて涙目になりプルプルしてしまう。
ドジッ子は庇護せねば危なっかしい。
かわいい、が、かわいそう、と関連があるというのは一見で庇護が必要と思われるかどうか、にある。
幼児や幼獣に感じるかわいいとは、これである。
■庇護欲をそそるのが、かわいい
守らねば死んでしまいそうな幼児。それをかわいいと世話をして守る庇護欲。
かわいい、とは種としての生存戦略でもある。幼児に対し、かわいいと思えるのは種として栄えるために産まれた感情とも言える。
また人が子犬を最もかわいいと感じるのは、子犬が乳離れをした直後というアンケートがある。
人に飼われるようになった犬が、乳離れ直後から人の世話にならなかった場合、死亡率が高まる。乳離れの後、母犬が子犬の世話をするのをやめてしまうためだ。そこで人が手を出すことで子犬の死亡率が抑えられる。
これは人と犬が共同で暮らすようになってから、人が子犬に対して抱くようになった感情なのか、それとも犬が人に飼われるために獲得した進化なのか、研究されている。
■かわいい、の個人差
自動車を愛する人は、
「あの車、ホイールがかわいい」
という感想を言ったりするが、これは自動車に対して同程度以上の愛着が無ければ、理解できずに共感ができない。
また博愛主義者はそのかわいいの幅が広いために、他人が首を捻るものまでかわいい、と感じる。
一方で他者を気にかける心理的な余裕が無ければ、このかわいいの幅は狭くなる、
対象をかわいいと思えない、かわいいと思う精神の余裕が無い。ここから幼児虐待に繋がる。
対象をかわいい、と思うのはその当人の感覚である。そのため、このかわいいの幅は個人差が激しい。
精神が豊かで余裕のある人ほど、かわいいと感じる範囲は広くなる。余裕の無い落ち着きの無い人ほど、かわいいと感じるものの幅は狭くなる。
■見た目の、かわいい
かわいい、とは幼い、未成熟、成長途中、というものと関連する。ここから見た目でのかわいいとは、幼児、幼獣に見えるものと関連する。
頭身が低い。8頭身よりデフォルメした3頭身、2頭身のものがかわいいとなる。かわいいを狙ったゆるキャラには頭身が低い者が多い。頭身が低く手足が短くなる。
目が大きい。幼児、幼獣の特徴として顔のわりに目が大きいというものがある。かわいいキャラクターは目が大きくなる傾向にある。
大雑把には、かわいい見た目とはこういうものになる。
■かわいい、と、気持ち悪い
しかし、自然界を見れば上記のかわいい特徴を備えつつ、一般には気持ち悪い、と呼ばれてしまうものがいる。
カエルのような両生類。
ハチ、トンボ、といった昆虫。
また、実在は怪しいが有名な者として、目が大きく頭身が低く手足が短いもの。
グレイ、宇宙人である。
いずれもかわいいとされる特徴を持ちながらも、気持ち悪いに分類されることが多いだろう。
目が大き過ぎれば気持ち悪いとなり。噛まれそうで怖いとなれば庇護の対象とはならない。触ってヒンヤリしていてぬるぬるしていれば、気持ち悪い。迂闊に近づけばキャトルミューティレーションされてしまうので怖い。
いずれもかわいく無いとなってしまう。
ここにかわいいと気持ち悪いには、近いものがあると分かる。かわいい、と、気持ち悪い、の間の壁は障子紙のように薄い。
かわいいと異形には類似点が多い。創作物では、かかわいいと感じる部分を強調することで、その魅力を高めようとする。しかし強調した人工物そのものが不自然な異形である。
失敗したゆるキャラがキモイと呼ばれるのは、もともと危うい線の上を綱渡りしているからである。
■かわいい、と、かわいくない
かわいい、に含まれる概念とは。
守りたい
近づきたい
触りたい
身近におきたい
となる。これが反転すると、かわいくない、となる。
敵意を感じ
近寄りたくも無い
触りたくも無い
側に寄るな
となる。
つまりかわいい、とは自分のフィールドに入れたいものとなり、己を豊かにするものに対する感情ともいえる。
かわいいは正義、かわいいは身内、かわいくないは敵、というのもあながち間違いでは無い。
■かわいい、の主観の違い
自分のフィールドに邪魔と感じられるもの、自分の社会に悪影響をもたらすものは、敵となる。
また、かわいいと感じるのものは個人差が激しく、許容できる幅が人によって大きく違う。かわいいと気持ち悪いを区別する線は、人の主観により大きく変わる。
マンガやアニメのキャラクターを使ったポスターなどが攻撃されるときには、目が大きくて気持ち悪い。胸が大きすぎて気持ち悪い。といった意見が出るのも、もともとかわいいと気持ち悪いの境目があやふやなものだからである。
社会が豊かで多様性を受け入れる懐の広さがあるときには、許容できるかわいいの幅が広がりを見せ、かわいいが増える。
社会が保守的となり多様性を排除し安定を保とうとするとき、かわいいは減少する。少子化は社会の余裕の無さと精神の貧困化に関連する。
■かわいい、の多様化
本来、自分にとって害意があるものは、かわいくないとなる。しかし、動物園などの普及から檻の中の猛獣も安全に見られるようになった。
本来は危険であるものさえ安全に見ることができる。餓えたシロクマの側に行けば食べられてしまうが、安全に見ることができる動物園の檻の中のシロクマは、かわいいとなる。
技術の進歩から、かわいいと感じられるものの幅が広がりを見せる。
本にテレビ、映画の普及により身近に無くともかわいい、というものも増える。
名作、赤毛のアンなども物語の中であるからかわいいと言える。実際に赤毛のアンのような人物が身近にいれば、やかましいと殴ってしまいたくなるかもしれない。
ここから、かわいいがあまり近寄りたくない、というものも産まれる。映像作品やマンガ、ゲームなどの普及により、これが増えたのではなかろうか?
また、様々な作品が増え、これまでに無い新しいかわいいを求め、ギャップのあるものと組み合わせるなど、多様化しているのが現代。
■かわいい、の根っこ
多様化し様々なバリエーションの増える、かわいい。個人差が大きい主観ではあるが、人がかわいい、とかんじるものに共通する部分は多い。
かわいい、の中に含まれる概念としての、庇護欲。これが種として繁栄するための生存戦略であるならば。
かわいい、と感じるものを守護することで得られる種としての安定と繁栄が、その根っこだと言える。
同種だけでなく異なる生物種に感じるかわいい、を動機として生物多様性を守り環境を支える。この部分を良きものとして扱い、共感する者が多いところが、アニメ『風の谷のナウシカ』が名作と呼ばれるところである。
■コミュニティを既定する、かわいい
かわいい、とはあやふやなものでありながら共感を呼ぶ。文章化しにくい主観を共通見解として、集団のコミュニティを豊かにする。また、新しいかわいいを貪欲に吸収しようというコミュニティは活性する。
反面、コミュニティを守ろうとかわいくないからという理由で排除もする。かわいくない、気持ち悪い、というのもコミュニティから異物を排除しようという、防衛である。
■コミュニティの変化と、かわいい
コミュニティの固定化、老朽化を防ぐ為に、新しいかわいいが産まれる。これまで異物と排除されていた気持ち悪いを、かわいいと受け入れるようになる。そのことでこれまでに無かったものを受け入れたコミュニティが、やがてより豊かになる。
気持ち悪いとかわいいに類似点が多いのは、そのコミュニティの受け入れるキャパシティにより変化する。
異種族の子をかわいいと受け入れ、新たな種を受け入れることでそのコミュニティが変化し、より大きく豊かになる。このタイプのものが共感を呼ぶのはそこに、種の差別を乗り越え、かの者がいる自然を尊ぶことを、良きものと感じる人が多いからである。
よってかわいいは正義である。
反面、かわいいと受け入れるキャパシティが無く、気持ち悪いと排斥する者が多く、庇護者を守る為に共に追放される物語もある。
この時のコミュニティは差別的で未成熟に描かれる。社会が成熟していなければ、排斥する気持ち悪いが増え、かわいいが減少する。
社会が進歩するとき、一部の気持ち悪いがかわいいに変化する。社会が退化するとき、これまでのかわいいが気持ち悪いに変化する。
かわいいと気持ち悪いは紙一重である。
■まとめ
新しい、かわいいを作る為には社会が成熟する必要がある。人の受け入れる幅を広げなければ、細かなパーツの継ぎ接ぎによるバリエーションの違いしか作れない。
アニメ監督、宮崎駿監督が、保育園を経営しなければならない、という考えに行き着いたのも、アニメを見る子供達が増え、健全な育成ができなければ、アニメを作っても、それを見て理解できる人がいなくなるからである。
……しかし、ここまでかわいいについて考察してみると、どうすれば新しいかわいいが作れるか、よけいにわからなくなってしまった。
ただまあ、こういうことを考えて、上半身少女、下半身大蜘蛛のヒロインを、なんとかして、かわいく描こうとしたのが私である。考えたことは無駄にならなかったのではないか、と思う。
かわいいは個人差が激しいが共通するところも多い。また、それを見る社会の成熟度にも左右される。
これを読む者がこれまでに無い、新しいかわいいを作り上げ、物語の魅力に花を添えることを切に希望する。以上。
かわいい、の探求は終わらない。