1話.ふきげん博士
だが、まだ大丈夫だ。担当が二人いるなら、こいつに押し付けてオレは上手く逃げてしまえばいい。理系の博士号持ちがゴロゴロいるエリート衛星に、たかが文系の男がコネもなしになぜ潜り込めたか──それなりの理由ってもんがある。こいつらを手のひらで転がすなんて難しいことじゃないんだよ。
何気ないふうを装い、彼女の方へ近付く。ワケワカラン仕事を押し付けられた、もう一人の犠牲者だ。ブーっとふくれているなら少しは分かりやすいのに、無表情のまま座っている。外見にも気を抜きすぎだ。まとめただけの髪。色気のない眼鏡。なんの飾りもない白衣。手も荒れてる。たぶん薬品だ。
自分から名乗ったりするつもりはないだろうね。胸元の名札を読み上げた。
「はじめまして、桃山柚子さん」
握手を求めた──が、オレの右手を見たのに手を出そうともしない。
こんのクソ女っ
凛としてとか無愛想というだけではない、無関心のオーラを感じる。それも無関心の対象は他人だけじゃなく、自分自身にも興味なさそうだ。
まあ、このくらいは想定の範囲なんだよね。思い切って道化を演じてやろう。
差し出した右手をキツネの形にしてペコリと「こんにちは」させる。ちょろいことに、スッと視線を上げてこちらを見た。口を開く。
「あなたのことは知っています。唯一の文系職員、木桜さんでしょう」
「アハハ、そうなんですよ。広報なんてことをやってまして、アハハハ」
「何かおかしなことでも?」
「いえ。すみません」
ちくしょう。この女にまで知れ渡ってるのかよ。
つうか農水省の連中が、オレのことをどう言ってるか想像がつく。とりあえず「唯一の文系職員」なんて穏健な呼び方じゃないんだろう。だが、それもまた好都合だ。バカと思われてるなら逆に利用してしまえばいい。
「ところで、ですね。先ほどの会議で出ていた、桃山さんは水が専門というのは、どういう意味でしょう?」
「水ではなく水産です」
ふんふんと興味がありそうな顔を作って続きを待つ──が、無言……だと?
え、なに? それだけで「以上、説明終わり」なの?
「え、えーと……すごいじゃないですか! 水産ということは、この衛星の誰より水に詳しいってことですよね! 頼りになります! どうでしょう? 水とお湯を使って温泉をつくる件について、桃山さんのご見解は?」
「温泉などできません」
結論だけっ! 説明なしっ! センテンス短かっ!
想像以上に対人スキルの問題があるな。これじゃ敵を作る。オレでさえイラッとするくらいだ。他の理系博士たち──プライドが高くて「せんせい」と呼ばれ慣れてる連中との相性は最悪だろう。この小娘の分際でってなるわな。
だから、こんな面倒な仕事を押し付けられる。そして、いつも不機嫌そうな顔をしている。損な立場になってるのは、それなりに事情があるってわけだ。要するに身内の農水省にも嫌われてる。まあ仕方ないけど。
改めて彼女の表情を点検する。怖いから横目で──ああ、眼前の敵を屠る氷のような瞳だ。これは……一匹オオカミなんだな、きっと。
しかし、オレはおまえに温泉計画を押し付けたいんだ。いきなりやる気のないことを言われては話が進まない。
「アハハハ! 確かに温泉はどうかと思いますが、お風呂くらいならできるのではないでしょうか? どういう理由で『できない』と結論付けたのでしょうか?」
「ここは農業衛星です。水と熱を使うのは水産物や植物が優先です」
「なるほど、なるほど、もちろんそうでしょう! でもですよ。そのうえで、お湯のおこぼれをもらって、人間が入浴するくらいはできるんじゃ───ああ、そうか! 水産施設には熱帯魚とか熱いお湯が好きな魚もいるんでしたっけ?」
彼女がキッと目を上げた。
「違います。熱帯魚はお湯に入れませんし、水産棟に熱帯魚はいません。それに、熱湯にするのは殺菌するためです。せっかく殺菌したのに人間が入れば汚れます。また殺菌槽に戻す。人が入る。延々繰り返しになってしまうでしょう?」
引っかかったな。案の定、彼女にしては長々と説明してくれる。やっぱり「あえて間違えてみる作戦」には黙っていられないんだね。
おまえらは、間違えた知識を放っておけないんだろう? そんで、相手が屈服するまで長文で訂正しちゃうんだろう?
なら、ここが煽りどころだ。
「ええと、では入浴に使ったお湯を殺菌槽に回さず、そのまま植物プラントや水産に使ってはいけないのでしょうか? むしろ栄養になって、収穫量が増えるかもしれませんよ?」
「出荷するのは食品です。あなたは他人が入ったお風呂の残り湯を口にできますか。それに、熱湯は用水に廻すのですから──」
用水→農水産→汚水
↑「水の循環」↓
熱湯←殺菌槽←ろ過
何とかオレに分からせようと、説明しながら図を描いてくれる。
定規で引いたような直線だ。文字は意外と丸っこい。
「これなら木桜さんにも分かりますか」
あーこれバカにされてるわー。文頭の「文系には分からないでしょうけど」が省略されてるだけだわー。
まあいい。道化を演じすぎたが「バカなふり作戦」も効いてる。
必死で教えようとする過程から、何を知っていて何を知らないか、だいたい分かったよ。こいつは自分が興味ある部分しか見ていない、見えてないってパターンだ。研究以外は無頓着で、衣食住に気を遣うことさえない。もちろん、この衛星の構造にも詳しくないってわけだ。
さて──それが分かったなら早々に仕上げるか。後はこいつが「動力配管」に気付けばいい。今回も余裕で手のひら転がしだったぜ。
「へえ~そうなってるんですかぁ。実際の図面を見せてもらってもいいですか? ボクも興味が出てきちゃいましたよ」
「はぁ、そうですか」
口調とはうらはらに、自分の説明が通用したと思って表情が少しゆるんでる。本当にちょろいな、この理系女は。っていうか、図面を見ろよ。お・ま・え・が、気付かなきゃ意味ないだろうが。
──ったく、こういうベタなことはしたくないんだがなぁ。
「ぶえっくしょい!」
どさくさに図面をズラしてやる。ほら、ここだよ、ここ。
「大丈夫ですか」
無関心女のくせに妙な気遣いとかするな。似合わねえ。この場かぎりの付き合いなんだから、オレのことは放っておいて図面を見ろ。おい──なんだその吸引器は! それで何をするつもりだ!?
「アハハハ、大丈夫ですよ~。それより、ここ見てください。さきほど説明していただいた配管はコレですよね。こっちは何だと思いますか?」
「?」
「ほら、この赤いラインって何でしょうね?」
もう答えを言っているようなもんだろ。はやく気付け。
「殺菌槽、熱水プラントから枝分かれしていますね。先にあるのはタービン……発電機と、こちらは厨房ですか。それから空調配管に入っていくようです」
「ほうほう、なるほど」
「農水産の配管とは別になっていますね──。これを見てください木桜さん。空調配管の入り口でも計画温度43度とあります」
「あぁ、これ食堂近くのトイレですよね。道理で暑いと思いました」
「そうですね。これなら空調用の手前でお風呂に使えるかもしれません。適温か少し熱いくらいでしょうか。それに、いったん浴室で使って温度を下げれば、空調の暑さも改善されそうです」
よしきた! はい終了!
「へええ! すごいじゃないですか桃山さん! やっぱり水の専門家ですよね! これは、もうお任せしちゃおうかな! ボクがいてもジャマになるだけですしね。じゃあ、何もできそうもないので帰りますが、先生が作った温泉を楽しみにしてますよ! アハハハ」
長居は無用だ。あとは空調配管の利用に気付いた桃山大先生が、自ら差配すればいい。「では、さようなら」と会議室を出ようとするところ──を、後ろから強い力で引っ張られた。この低重力下で、なにそのパワー。
「どこで配管のことを知りましたか」
「え、ボク知りませんでしたよ?」
ピンポイントを突き、ジッと見つめてくる。
やめろ。オオカミに喰われる感じがするから、その怖い目はやめろ。
「ただのバカではないんですね」
ああ、そうか──おまえもタダモンじゃないってわけだ。
理系の博士どもだって、他人を利用するとか、立ち回りの良さで生き延びてるやつはいる。そして、損な役回りを引き受けるのはこいつ。ところが、損のマイナスを跳ね返し、悪意にさらされても克服し、無愛想な性格というハンデを持ちながら、いまエリート衛星にいる。一匹オオカミは伊達じゃない。
「手伝ってもらいますよ。木桜くん」
オオカミスマイル。いま、どうやら上下関係が決まったっぽい。