救出ミッション開始
アリスはふらつきそうになりながらもなんてことのない風を装ってホノカの元へ足を運ぶ。
注がれる強い視線の主を見ることなくホノカだけを見る。
ひどく心配をかけたことはわかっているが、悪いとは思っていない。
それなのになぜかこみ上げてくる罪悪感が彼を直視することをためらわせた。
「アリスねぇさぁん……」
ホノカの目にゆっくりと涙が溜まっていく。
美少女の上目遣い涙目バージョンの威力はすさまじく、今まで考えていたことが全部吹っ飛んだ。
「私なら大丈夫よ」
笑顔を浮かべ、ホノカの横に膝をつく。
「封印は?」
「私じゃ無理です。助けてください~」
「落ち着いて。何がどうなっているの?」
「魔王がいるから封印ができなくて、だったら魔王のジョンに瘴気を抑えてもらおうと思ってジョンを探したんだけど、見当たらなくて、ジョンが力に飲み込まれたら意識が魔王に乗っ取られちゃうからそれはダメで……」
「落ち着いて、何を言っているのかわからないわ。ジョンは魔王なのよね?」
こくこくとホノカが首を縦に振る。
「うん。でも、悪い力に魂が染まったら世界を滅ぼす魔王になっちゃうの」
「それ、あいつも言っていたわ。魂が力に染まればって」
「それってたぶん力に呑まれちゃって自分を見失って憎悪に魂が洗脳されちゃうって事だと思います。だからジョンの魂を悪い力から守ればジョンはジョンのままで覚醒できるかもっ!」
「いや、覚醒したらまずいんじゃないの?」
とにかく今はあらゆる可能性を考えなくてはならない。
「でもアリス姉さん、力はただの力です。行使する人の意思がその力の方向性を決定づけるものですよ」
「ホノカがまともな事を言った……」
「ふざけている場合じゃないですっ」
「打開策は?」
「わかんないです~。悪い力は全部勝手にジョンの中へ行っちゃうし、ジョンの魂は見つからないし……」
とりあえずホノカがうろたえている事だけはわかった。
「こんなこと、想定外だわ……」
アリスは困ったように横たわるジョンを見やる。
「それで、ホノカちゃんは私に何をしてほしいの?」
「力に飲み込まれて溺れているであろうジョンを見つけて、そこから連れ出してほしいんです」
「……物理的に無理じゃない?」
「もちろん精神体で。私がパスをつなぎますから、アリス姉さんは私に触れて目を閉じてください」
言われた通り、ホノカの手を握って目を閉じる。
「ジョンの心の中だから、夢の世界みたいになんでもアリです。それじゃあ、いきますよ」
ホノカの声とともに、眩暈にも似た衝撃に体が揺れたと思った。
反射的に目を開けてしまったが、目の前の光景にあっけにとられる。
暗黒の世界の中に、ぽつんと孤児院が建っていた。
「ここが、ジョンの心の中?随分とまぁ……」
心のよりどころが孤児院だけなのかと思うと何とも言えない感情がこみあげてくる。
長い付き合いなのだから、子供の頃に遊んだ場所や店もあったっていいじゃないかとも思う。
アリスは孤児院の扉を開けた。
「おじゃましま~す」
いつもなら、声をかけながら中に入れば小さな子供達の声や走り回る音が聞こえてくる。
ところが物音ひとつしない。
「ジョン、いるの?」
とりあえずみんなが集まる食堂に続く扉を開けた。
そこは噴水のある町の広場だった。
風景は白黒で、広場から延びる道の向こうは漆黒の闇だ。
「……夢のドアだから?」
小さなころ、よくあそこで遊んだことを思い出しながら噴水に近づく。
噴水の中央から水が出ていないと思いながら近づいてみると、なぜかジョンが噴水の代わりに突っ立っていた。
膝から下は水につかったまま、何をするでもなくつっ立っていた。
なかなかシュールな光景で、アリスはちょっと声をかけるのをためらったが、ここは精神世界で夢の世界なのだから何でもありなのだと切り替える。
「ジョン」
声をかけると、ジョンがゆっくりとアリスの方を見た。
すっぽりと表情が抜けている。
「そんなとこで何やっているの?蝋人形かと思ったわ」
「……アリス?」
ほんの少しだけ、生気が戻ったような気がした。
「もう一度聞くわ。何やっているの?」
「……俺は……もうすぐ消える……会えてよかった……」
「消える?」
「声が……」
ジョンがそういったとたんに音が押し寄せてきた。
百匹のセミが耳元で鳴いているのが可愛いと思えるくらいの大音量でうるさいと思ったが、よく聞けばそれは老若男女による呪いの願いの大合唱だった。
『あの女が憎いっ!』
『死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ね……』
『殺してくれ、殺してくれーっ!』
『私の命を捧げるから、どうかあいつらに死をっ!』
『あいつが死ねば俺は幸せになれるっ!』
怨嗟だけではないが誰かの不幸を願う声は確かに純粋な祈り。
純粋が故に、彼らの声は魂を揺さぶる。
心の底から憎しみ、願い、祈る彼らの思いの本流にアリスは投げ出された。
とめどなく聞こえてくる声は魂を疲弊させる。
誰かのために誰かの死を願う祈りに胸が痛み、心底憎む祈りに心がおびえ、悪意と欲望に満ちた祈りに恐れを抱く。
純粋が故に魂に触れるそれらに共感しそうになり、共感しようとする己が恐ろしくなり、恐れが恐怖を呼び込む。
(ジョンはこれをずっと……)
よく耐えられたなと感心する反面、このままでは自分が飲み込まれるという焦りが生まれた。
負の心は誰にでもあるからこそ、祈りの声を無視することができない。
これをすべて無視して捨て去ることができる神という存在はやはり人間とは違うのだなと考える。
考えなければ、声にすべてを持っていかれそうだから。
耳をふさいでも聞こえる声、声、声。
(そっか……耳で聞いているんじゃなくて、直接心に、魂に触れているから……)
己を保つために、声に耳を傾けてはいけない。
無視してジョンの事を考える。
「ジョン!いるんでしょっ、返事して!というか、助けなさいよ!」
大声を張り上げると、ジョンの姿が見えた。
暗闇の中に手と足のないジョンの姿が浮かび上がる。
「無理……」
短い返答に脱力しそうになった。
そしてここがどこだか改めてわかった。
力に飲み込まれそうになっているジョン。
姿が消えた時、彼は魔王として覚醒するのだろう。
「無理を通せば道理は引っ込むモノなのよ」
無表情だったジョンの口角が微かに上がったように見えた。
「帰ろう。あんたの居場所は私の店でしょ。なんで孤児院なのよ」
傲慢な言いようだが、アリスらしいとジョンは思った。
ひねくれたアリスの愛情表現だということは長い付き合いだからわかっている。
こんな場所に来てくれるくらいに自分の事を思ってくれていることもわかっている。
素直に嬉しいと思う。
それが仲間として、家族としてだとしても。
アリスという女の中に自分という存在があることが嬉しい。
だからこそ、アリスにはここにいて欲しくなかった。
「お前だけ、帰れ」
「馬鹿じゃないの?だったら最初からこないわよ」
どうすればジョンをここから脱出させられるだろうか。
とりあえず会話が成立したことで浸食は止まったように見える。
「これから総菜屋も出すんだから、マネジメント担当のあんたがいないと困るんだけど?」
「ルークがいる……」
「脳筋に任せたら可愛い店に強面マッチョの店員だらけになるわ」
想像するだけで恐ろしい風景だ。
ジョンも想像したのか、眉間にしわが寄っている。
可愛いお店には可愛い女性がよく似合う。
「私と一緒に世界を見るんでしょ」
「俺は、行けそうもない」
「私は商業界の女王になる女よ。女王の横には宰相と騎士がいないと様にならないじゃない」
「ああ……すまない……」
どちらかといえばジョンはネガティブ思考だということを思い出す。
(どうすりゃいいのよ……)
ここが現実世界だったら。
ジョンを連れまわして余計な事を考えさせないようにできるが、ここは精神世界だ。
耳障りな負の祈りをBGMに、アリスは珍しく途方に暮れた。