影 3
モノクルの男はアリスに目をやった。
ほんの少しだが、目をみはったようにアリスを見る。
「いきなり声をかける無礼をお許しください」
余所行きの声で男に話しかける。
身に着けている一級品の品々から大物商人か貴族とあたりをつける。
「私はアリス・ドット。この店の責任者です」
まずは名前を名乗って様子を見ようとしたアリスは自分の作戦ミスを否が応でも悟る羽目になった。
目の前の男は自身が強者だという事を知っている。
虚勢でもなく、彼は自然体のままアリスの好きなようにさせているのだ。
(ちょっとまずかったかも)
向かいに座った瞬間、目の前の男には絶対に勝てないと思った。
だが座ってしまった以上、逃げるわけにもいかない。
(まぁ、ルークとジョンのほかにも小隊長殿がいるし、なんとかなるかな?)
大勢の目の前でルークの嫌がることはしないだろうと自分を奮い立たせる。
彼の目的がルークであり、ルークの機嫌を損ねたくないと彼が思っていると仮定したうえでだが。
「ルークの上司です。彼は我が店の……」
引き抜きは困るのでやめてね、という内容を慇懃無礼に言ってやろうと意気込んでいたが、今は慎重に言葉を選び、相手を怒らせないようにやんわりとルークの迷惑になるからあまり困らせるようなことをしないでね、とのお願いにシフトすることにした。
ヘタレたわけじゃない。
直感がコイツはヤバイと危険信号を鳴らしたからだ。
「大事な従業員です。お客様が彼を気に入ってくださったのは大変喜ばしいのですが……」
「貴様は何者だ?」
テノールの、聞きほれてしまいそうな声の直撃を受けたアリスは一瞬、思考が停止した。
しかし普段から見目麗しい人たちを見ていたせいかすぐに再起動する。
「ルークの上司ですが、何か?」
「お前からは匂いがする」
「は?」
「なぜだ?」
不思議そうな顔でアリスを見つめる男。
「に、匂いってなんの匂いでしょうか?」
とりあえず飲食業としては聞き逃せないフレーズに突っ込みを入れてみた。
「我が主と宿敵の匂いだ」
言っている意味はさっぱりだが、飲食店としては大丈夫な匂いなのだと一安心する。
が、彼の言葉を脳内で吟味したアリスは再び首をひねった。
「どなたの事でしょうか……」
男の目が物騒な光を含んだように見えた。
これは本格的に逃げないとまずいとアリスが腰を浮かそうとすると、男はアリスの腕をつかみ、足を踏みつけた。
腕も足もびくともしないし、痛い。
逃がすつもりもなく、人前での凶行をいとわない人種だ。
(こいつ、一番厄介なタイプだ……)
感情的になっているのなら感情を揺さぶって隙を作れるが、目の前の男は冷静だ。
わかっていてやっているのが一番質が悪い。
「あなたの主は、私の知っている人?」
ここは開き直るしかない。
周りに迷惑をかけるわけにもいかないのでアリスは座りなおした。
男の手と足が離れたので自分の選択は間違っていないと確信する。
彼の正体を知りたいように、向こうもアリスの関係者について知りたいようだ。
それならばまだ同じテーブルに着くことができる。
「我が主の事をなぜおまえごときに話さなければならぬ?」
思い切り上から目線だが、男はそれに足るだけの存在だとアリスは直感した。
言葉一つ間違えただけで、何が起こるかわからない。
そんな危うさがあった。
「宿敵って誰の事ですか?」
「お前は何を知っている?」
「いえ、知らないから質問しているのですが……」
ルークの話をしようとしたのに、どうしてこうなっているのだろうか。
それとも関係あるのだろうか。
忙しくアリスは思考する。
「主と宿敵って人を私が知っていて、匂いが付くくらい親密な人?」
そもそも匂いって、とアリスは心の中で苦笑する。
犬並みの嗅覚がなければ服についた他人の匂いなんてわかるはずがない。
まさか目の前の男はわかるのだろうか。
「お客様、私の上司が何か?」
アリスの横にルークが立ち、冷ややかな声を投げかけた。
男の目がちょっと困ったようにルークを見上げる。
「この女は貴方にとってどのような位置にいるのでしょうか」
上司と告げたのになおも突っかかってくる男にルークは好青年のウエイターという仮面を外した。
「命をくれてやってもいいと思える女だ」
大げさな、と言いかけたアリスはルークと男との間に生まれた緊張感に口を閉じた。
ショックを受けました、といわんばかりの表情で男は席から立ちあがった。
なぜか周囲も騒然とした空気になった。
「なぜ……この女は貴方の敵と通じているというのに……」
「お前が何を言っているのかさっぱりだが、俺がアリスを裏切ることも、アリスが俺を裏切ることもねぇ」
男の目がますます見開かれる。
このままだとモノクルが落ちるんじゃないかと変な心配をアリスがし始めた。
「なんと……そこまで……ということは、この女はスパイなのか。ああ……」
悲劇の主人公のような悲壮な声を上げて男は空を仰いだ。
「私としたことが、そんな事もわからず余計な手出しをするところでした……」
今度はがっくりと肩を落としてテーブルに両手をついた。
「なるほど、それならばこの女から宿敵のにおいがするのも道理」
何やら一人で納得している様子だ。
秀麗な顔を上げ、アリスを見た。
「女、すまぬことをした。主の子飼いと気づかぬ上に宿敵の子飼いと思い危うくこの地上から存在を抹消するところだった」
反省する内容の物騒さにルークもアリスも言葉を失う。
(誰が誰の子飼いだって?)
反骨精神にあふれるアリスは最終的にそこに突っ込みを入れた。
「浅はかな己を戒めるためにも、しばらくは謹慎したく思います。女、これからも我が主のために励めよ。あの女のすべてを調べ上げ、心をつかみ、そして絶望の果てに突き落とし、地べたを這いずり泥水をすすらせるのだ」
古典的な言い回しだが、なかなか最低な事を言っている。
演劇関係者かよと突っ込みたいが、男から迸る憎悪の感情にアリスは混乱していた。
秘かに注目している周囲の方々は女であるアリスの登場に妄想の幅を広げ始めた。
男はあっけにとられているルークの手をとると甲に口づけを落とす。
押し殺した歓喜の悲鳴が周囲で上がるのを聞きながら、楽しそうでいいなぁとアリスは現実逃避を始めた。
男は硬直したルークにキラキラした眼差しを向けながら微笑みつつ帰っていった。
「……今の、何?」
「いや、俺が聞きてぇんだが……」
アリスは疲れたように席から立ち上がろうとして腰を浮かせたままフリーズした。
遅れてルークも物騒な気配を感じ、視線を空に向けて現実逃避に入る。
「貴女という人は、本当に自由気ままに動く」
ひゅおぉぉぉぉ……。
ありえないほどに冷たい空気と疑似音が聞こえたような気がした。
「ここで待て、とは貴女のいたテーブルの事だ。勝手に拡大解釈してもらっては困るな」
振り返ったアリスは絶対零度の笑みを浮かべたグレイ小隊長とばっちり目があってしまった。
先ほどの男とは違うプレッシャーにアリスの背筋がピンと伸びる。
横ではなぜかルークが敬礼をしていた。
周囲は期待に満ちた眼差しをこちらへよこしている。
「お客様、ここではなんですので、別室にてごゆっくりお話をされては?」
見かねたジョンがやってきて一同を個室に行くよう促した。
周囲の何かを期待するような眼差しに気が付いたアリスは深いため息をついた。
きっと彼女たちはルークとジョンが仲がいいことを知っているうえでモノクルの男とルークの攻防を見学していた。そんな三角関係をひっかきまわす女の登場かと思いきや第四の男の登場に何を思うのだろうか。
(……売り上げにつながってくれればもう何でもいいや)
色々と現実逃避しているアリスだった。