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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

老人電車

とても憂鬱で胸焼けしそうな小説です……。

 この国では、腰を掛けるにも金が要る。

 食欲はない。酒も珈琲も要らない。欲しいモノなんて、何もない。

 僕はただ座りたいという願いだけで、ひしめく店に視線を走らせていた。いや、だめだ。ここで無駄金を使うわけにはいかない。その僅かな金を稼ぐために、僕は今日も消耗してきたのだから……。

 ここから少し歩けば公園のベンチもあるが、きっとホームレスで満員だ。だいいち、あんな暗い場所で腰を掛けて、それからどうする? 外は寒く、休める保証も、すぐにまた立ち上がれる保証はない。そんな時間をかけるのならば、一刻も早く自宅に帰って、革靴を脱ぎ、ベッドに横たわりたかった。

 駆け足で改札を抜けたが、地下鉄のホームはすでに長蛇の列だった。端まで歩かなくとも、ベンチの不足は明らかだ。

 皆スマートフォンの灯りに縋りながら、黙って安息の時を待っている。家畜たちの群れのようなその光景に、僕も加わる。僕は画面を見つめてみるが、特に何かをするわけではなかった。何かを調べて知識を蓄えたり、誰かに連絡を取ったりといった生産的な活動はもとより、ポータルサイトから飛び込んでくる情報や、幼稚で単純なゲームに癒しを求める年齢すらとうに過ぎた。僕は検索窓に「疲れた」と打ち込んでは、無機質に表示される世間の悲鳴と馴れ合いを、冷めた目で視ていた。

 まだか。

 まだ、来ないのか。

 五分も遅れることなく、正確に発着する日本の電車。世界が誇る最新技術と真面目な人柄は、ジンシンジコの影響の前には圧倒的に無力だった。

 僕もジンシンジコを起こせるのだ。

 そんな破滅的な考えが頭をよぎった頃、轟音を引きずって電車が侵入してきた。

 案の定、車内は満員だった。疲弊した顔、顔、顔。僕はその電車には乗らず、立ち尽くしたまま、次の機会を待つ。

 オイソギノトコロ、タイヘンモウシワケアリマセン。

 無機質な謝罪が流れる。僕は謝ってほしいなんてこれっぽっちも思っていなかった。ただ、どうして耐えられるのか、その声の主と話してみたかった。本当は違うんだろう、本当は。どうして、どうして。

 いや、今はそんなことを考える時ではない。違うんだ。僕は。

 僕はポケットに両手を潜り込ませ、一歩、前に進むと、椅子取りゲームの瞬間に備えた。

 悲鳴のようなブレーキの音が響き、ついにその時はやってきた。

 僕は周りの人間たちを蹴散らすように、空席に突進し、座った。

 ひとたび腰を下ろすと、狭いスペースではあったが身体が沈み込むようだった。ふくらはぎに当たる暖房は、ひたすらに熱い。間髪入れずに、吊革につかまった群衆は、僕の鼻先まで押し迫ってきた。危なかった。あらやだぁというこれ見よがしな悪態や、汚い舌打ちの音が聴こえたが、僕は目をつぶり、不要な情報を遮った。これで一安心だ。

 電車は揺れる。

 これからきっかり一時間。僕は何もしないで、自宅へと運ばれていく。

 閉じた瞼の暗闇の中で、僕は一時間という時を想う。一時間。それはかけがえのない時間だ。義務教育の授業だったら一コマ分。短い映画だったら一本分。珈琲豆を挽くところから初めて、トーストを焼いて、ゆっくりと一服してもまだ足りる。そんな時間だ。それほどの時間を、僕は目を瞑り、耐えて過ごす。あまりにもったいない。

 人間とは単純なもので、ひとたび落ち着けると、動きたくなるものだ。スマートフォンをいじったり、鞄の中の文庫本を開いてみたい気分になる。

 だが、周りの目があるため、ここではそうはいかない。

 ほかの誰よりも疲れているから、座っても正当なんだ。そんなふうに、疲れ果てた姿を演じ続ける必要があった。

 いや、違う……。本当は、頭では理解しているのだ。

 席に座れる者と座れない者を隔てる境界に、正当性なんてものは存在しない。リソースは極めて限られている。運、体力、時間的余裕。そんないくつかの要素の有無が、人と空席を隔てる。そして僕は、座りたいという考えのもと、ホームで耐え、先発の電車をやり過ごすという手段を講じ、ドアが開いた直後の競争に勝った。

 そう、座るべくして、座ったのだ。

 しかしなんだ、この病的なまでの覚束なさは。

 僕は疲れていた。それは極めて本当のことだった。そして、疲れた自分を演じ続けることにより、回復までの時間に遅延を生じてすらいた。本当は疲れた自分を演じる必要などなかった。そんなことをすれば、心と体が乖離して、人間としての機能に影響をきたすだろう。しかしそれは、理屈上の話だ。僕はこの病んだ空間の中にあっては、疲れた存在でしかいてはならなのだった。

 いや、どうなんだ? 僕は本当に疲れているのか?

「ママ……、疲れた」

 その声は、滑り込むように僕の耳に入ってきた。

 うっすらと瞼を開くと、僕の直前に、四歳くらいの女の子がいた。女の子は、顔の位置が、周囲の人間のコートのポケットくらいの高さにあり、いっそう圧迫感を感じているようだった。

「もう少しだからね」

 母親はそう言い聞かせる。

 女の子は眠そうな目を擦りながら、揺れていた。

 なんてことだ……。喪失されつつある僕の意識の中に生まれた言葉はそんなものだった。こんな遅い時間に、こんなに小さな子供が満員電車に乗っている……。

 僕は女の子と母親をなんとなく観察した。旅行や里帰りといったふうではなさそうだった。さしずめ、仕事帰りの母親が、実家か幼稚園に娘を迎えに行った帰り、といったところだろうか。

 どこか、席は空いていないのか……。

 僕は周りを見渡す。すると、そこに待ち受けていた光景は、再び僕を殴りつけてきた。

 なんだ、ここは!

 老人、老人、老人!

 老人ばかりじゃないか!

『お年寄りや妊婦の方には席を譲りましょう』

 優先席の表示の前で、溢れかえる老人たち。加齢臭と、コートの暗色ばかりが充満し、席を譲れる若者なんて、何処にも見えないのだ。

 東京一極集中、長時間労働、所得の低下、保育園の不足、超高齢化。

 ありとあらゆる日本の社会問題が、僕にのしかかってきた。僕は泣き出したい気分だった。しかし泣いても、誰も助けてはくれないのだ。

 代わりに泣き出しそうなのは、目の前の女の子だった。

「マーマー!」

 女の子が再び訴える。母親がため息とともに口を開く。僕は立ち上がった。

「ここ、座っていいよ」

 僕は母親の諭す言葉を聞きたくない一心で、席を立った。あれほどまでに希求した椅子。電車の席。それは今や、針のむしろだった。

「すみません、ありがとうございます。──ほら、座って」

 母親が礼を述べ、女の子を促す。僕は小さく頷いた。

 女の子は小さな身体を懸命に移動させて腰掛けると、先ほどとはうって変わって何も云わなくなった。そして、不思議そうな瞳で僕を見上げ、見つめてきた。

 僕もしばらく女の子の顔を見つめた。皺もシミもない。綺麗な顔だったが、それだけだった。僕はその子について、可哀相だとか可愛いとか、そういう一切の感情が無くなった。たまたま僕とその子が、この時間と空間で会った、という、それだけのことだった。

 僕は瞳を閉じた。

 ガタン、と電車が大きく揺れて、四方から圧力がかかる。母親の肩が僕の肩に押し付けられ、背中に誰かの肘がぶつかる。吊革をつかむ両手と、両足に力を込めた。もがくように時計を見ると、残り時間はあと五十分もあった。もつだろうか。僕は、やはり疲れていた。

 席を立ったことに対しては、もはや誇りも後悔もなかった。結局僕は、非情にはなれなかった。それだけのことだ。そう切り捨てることにする。そうしなければ……いや、そうしたとしても……つらい。

 この非情な世の中で、わずかばかりの感情を持ってしまった。周りの目を気にする余裕だとか、自分だけは違うというプライド。電車の席にふんぞりかえり、溢れている老害どもとは違う。本当は強くて、優しくて、どんなにひどいニュースを見ても、自分だけは見失わずに生きていくという気持ち。それがいまでは異物として扱われるのだ。

 しかし、それが異物であっていいのか?

 やめろ、考えるな。

 電車は進む。

 思考は止まらない。

 あんな小さな子供が椅子に座れない、先進国日本。

 世界にはまともなご飯を食べられない子供たちが数多く居ることは僕も知っている。幼くして売春をする少女や、少年兵士がいることも知っている。しかし、本質的には一体何が違うんだ? ここもあの国も、結局は傷つけ合い、殺し合いの戦場。それが『正常』なのか?

 何かがおかしい。何かが。

 僕がおかしいのか?

 分からない。


 唯一云えることは、僕は戦場に合わないのだということだった。


 奇しくもそのとき、電車のドアが開いた。

 またしても、濁流のように老人たちが乗ってくる。

 僕は椅子取りゲームの要領で、弾かれたように駆け出していた。もしかしたら叫んでいたかもしれなかった。それも、驚くべき咆哮だった。だが僕は自分の声が、自分の喉から出ているとは信じられなかった。周りの誰もが、僕を奇異の目で視た。

 僕は反対側のホームに向かって走っていた。そのとき、態度の悪そうな老人の昏い視線と、僕の視線が一瞬絡み合った。その一瞬は、悪い気を起こすのに十分だ。

「老害が!」

 僕は名も知らぬその男の腕を乱暴に掴み、反対側のホームに突進した。僕らの躰はレールの上に落ちる。そこは意外と深く、生暖かい風が通り抜けていた。人混みから抜けた解放感と虚無感は、なんとなく、紛争地域のフェンスを連想した。掴んだ老人の小さな質量が、喚きながらバタついている。僕はゆるり立ち上がり、電車が近づいてくるのを確認した。そうして、にやりと嗤って、そいつの顔を視てやった。


 照らし出されたその顔は、年老いた僕だった。


 鼓膜が破れそうなほど大きな、ブレーキの音。

 電車は僕の直前で急停止した。僕は何も感じなかった。

 僕はすかさず駅員たちに取り押さえられ、警察署に連行された。

 轟音を浴びたせいだろうか、彼らの言葉は僕には聞こえなかった。僕が道連れにしようとしていた老人とも、いつの間にか別れていた。

 そこから先は、もうほとんど何も覚えていない。

 いつの間にか僕は、取調室の椅子に座っていて、机の上の書類には既にいろいろな書き込みがあった。

「どうして、こんなことを?」

 ようやくその人の声が聞こえた。しかし仕事で訊いているのではなさそうだと、僕には分かった。心配そうに、訊いてきたのだ。このときになって、僕はようやく、音が聞こえるようになり、目が見えるようになった。

 ああ、彼もまた、疲れているのだ。早く応えてあげないと可哀相だ。そう考えたが、言葉が出なかった。

 嗚咽が出た。涙が出た。

 僕は苦労して、呼吸の仕方を思い出して、唇を震わせた。


 疲れていて、座りたかった。


 僕はそう供述した。

「座り心地の悪い椅子で悪いね……。でもまぁ、少し休んで」

 ため息交じりに、その人は云った。

 僕の暴挙がどれほどのニュースになったのか、あの女の子や母親がそれを聞いたかどうか、そして、僕の情けない供述が誰かに届いたのかどうかということは、僕には知る由もない。


 END


最後までお読みいただきありがとうございました。次こそは明るい小説を書きたい。

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