恋に堕ちる瞬間
診察が終わり、僕は待合室で受付に会計で呼ばれるまで静かに待つ。スプレーで刺激されたところが微妙に感覚が麻痺しているのが分かる。軽くため息を付き、僕はさっき院長が言った言葉を思い出していた。毛が生えてくるまで半年から長い人で1年かかります。半年から1年。普段何気なしに過ごすと気にもしない期間だがこのハゲを抱えながらのこの期間は生き地獄かもしれない。気にしないことだよと院長は言ったが、そんな安直に捉えることは僕には難しい。
「藤原さん」
受付で僕を呼ぶ声がした。先程のお団子の受付の娘の声だった。僕は返事をし、受付に向かった。
「はいっ、これ健康保険証と処方箋です。お会計は1200円になります」
彼女が僕の顔をまじまじと見ながら言った。そのまん丸の瞳は透き通っている。普段はこうまじまじと見つめられるとあまりいい感じはしないのだが不思議と今は悪い感じはしない。僕は財布から千円札と小銭の200円を取り出し、彼女に渡した。彼女は丁寧に受け取り、領収書を渡してくれた。僕は受け取り、ありがとうございましたと会釈をしてその場をさっそうと立ち去ろうとした。出口の自動ドアのほうに向かおうとする。
「すみません」
後ろで声がした。僕が後ろを振り向くと受付の彼女がそこにはいた。右手には処方箋が握られている。どうやら急いで帰ろうとしてうっかり僕が落としてしまったらしい。
「これ、落としましたよ」
彼女のくりくりっとした瞳が僕を見上げていた。
「(思ったより、ちいさいな)」
受付で座っているときに小柄だなとは思っていたけど実際立ってみるとそれが分かる。別に小さいからと言ってそれを揶揄しているわけじゃない。直感的にそう感じた。
「すみません、態々ありがとうございます」
僕は彼女から処方箋を受け取った。
「いえいえ、お大事にしてくださいね」
彼女は微笑みながら僕にそう言い、ゆっくりと受付のところに戻っていった。後ろ姿のお団子が印象的に僕の目に写る。自然と彼女の姿を僕は目で追っていた。
「(なんだろ)」
僕は少しそんなことを疑問に思いながら出口に向かってゆっくり歩を進めた。自動ドアの前に行くと今度は反応してくれた。病院を出て、自動ドアの向こうに受付が見えた。彼女が患者の1人に対応しているのが遠巻きに僕の瞳に写る。
「(ふむ)」
いつもとは違う違和感のような何かを感じたが僕はそれを払うかのように視線を戻し、彼女から受け取った処方箋の紙を持ちながら近くの薬局の扉を開いた。
週に1度病院に通院することになった僕は頭のハゲに気を使いながら大学に通っている。ハゲている部分を人目につかないように席に座るように心がけたり、見られていても気にしないように。そして何故だが分からないが心の片隅にどこか引っかかるものを感じている。この数日、詳しくそのことを考えていたが原因らしい原因はぱっと脳裏に浮かんでこない。しかし、何故だか分からないが明日、病院に行けば何か分かるような気がしてならない。僕はそんな思いを心に秘めながら、そっと瞳を閉じた。
学校の帰り、いつもの坂を高速で降り、病院の前に僕はいた。自動ドアの少し向こうから病院の中を覗くと受付には以前、来たときと同じ小太りの女性とお団子の頭の娘がそこにはいた。僕は少し深呼吸しながら、財布からこの間、渡されたばかりの真新しい診察券を取り出し、自動ドアの前に踏み出した。ドアは静かに開閉して僕は病院の中に入った。周囲を見回すと老人から子供までたくさんの患者が待合室でいる。僕はそんな大衆の前をく通り抜け、受付の前に着いた。
「こんにちは」
僕は愛想よく、挨拶をする。すると受付の2人もほぼ同時に挨拶を返してきた。
「お願いします」
僕はそういうと診察券をお団子の娘に手渡した。彼女の手は思いの他小さく、診察券を掴むと診察券が大きく見えるほどだ。近くになって今、気が付いたが彼女から甘い香りがした。心臓がその時、一瞬高鳴りを覚えた。そんな気がする。彼女に近づくと緊張感が増す。そして、うまく説明できないが嫌な気分の緊張感じゃないことを僕は感じた。彼女から僕は視線を外すことが出来ないでいると彼女は
「はい、藤原様。呼ばれるまで待合室でお待ちください」
受け取った娘が言った。そして僕のカルテを探しに後ろにある棚の方に向かった。僕はさっき自分に起きた出来事に少し戸惑いながらもゆっくりと待合室のイスに向かった。時間が流れる。その間、たくさんの人が受付で精算をしていった。その度、受付の彼女は笑顔で対応している。
「(こんなにたくさん大変だろうな)」
僕は彼女のほうをいつしか見つめながら思った。そして精算を済ましたお客が動いた直後に僕は彼女と自然と目が合った。僕の心音がクリアに聞こえる。再びの緊張。
「(むむ!?)」
まるで蛇に睨まれた蛙のように、ブラックホールに自分自身が吸い込まれたかのような、そんな錯覚を覚えた。彼女はそんな僕のことを気にもせず、くすりと笑い、一礼し、すぐに視線を戻した。それに対して僕は少し反応が遅れながらもドギマギしている心を悟られないように軽く一礼を返す。僕自身、すぐに顔に出るらしいとジュンが言っていたので彼女の瞳にはもしかしたらおかしく写ったのかもしれない。
「(緊張するわ・・・)」
僕は必死に心臓の高鳴りを抑えるように努力した。そんなことをしているときに僕は呼ばれた。ちょうどこのタイミングで呼ばれてよかったのかもしれない。この一週間前からの違和感の正体は何となく僕は理解した。ずっと考えてはいたがどうにも煮え切らない。だから今日、僕は確信を得るためにここに来た。
そして今、自分の中で予想が確信へと変化した。僕は診察室に入る直前、受付を見た。そこにはここ数日、思い浮かべ続けたお団子頭の姿があった。
「(好きだ・・・)」
この世には不完全な男と不完全な女しかいない。私の愛があなたをつくり、あなたの愛が私をつくる。ロシア文学を代表する巨匠のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの言葉だ。僕が知っている数少ない名言の1つでもある。
そして好きな言葉でもある。昨日、病院で確信してから冷静になり、深く考えてみた。お団子の彼女と初めて会ったときはこうまでも自分の心の中では想う気持ちは占めていなかった。しかしながらその心の片隅で少なからずあったのは事実である。そうでもなければ一週間も覚えているはずもない。結構忘れっぽい自分の性格を理解しているだけにそうまでも覚えていたというのは何かしら感じていたのは間違いないはずだ。
街中や大学構内で美人や可愛い女性を見て一喜一憂しているのとは違う。その時、見た瞬間は美人だな、可愛いなとは思うがそれはその時だけだ。時間が経過すれば忘れている。まぁ、付き合いたいとか、話しかけてこないかなぁという淡い期待はあるのだがそんな可能性は0だ。こちらから話しかけたりするという選択肢もあるがそれこそ無理。僕は臆病だから。そのくせ結果はすぐに求めたがる。全くもってナンセンスだ。それでもいいと思っている自分がいるのも事実だけど。
しかし、今回ばかりは違う。別段、彼女は美人でもないし、身長も低いし、際立っているものが少ない。彼女には申し訳ないけど。唯一、クリアしているのは声くらい。それも透き通るいい声と言うわけではなく、アニメ声ってところだけだ。自分を棚に上げているのは悪いが理想の女性とはめちゃくちゃに離れているわけではないが近くもない。むしろ平凡、普通だ。だが気になる。
「(何なんだ・・・頭の中が彼女の事しか浮かばなくなる)」
「そりゃ、好きになったってことだろ」
ヘッドフォン越しにジュンが答えた。僕がちぐはぐになりながらもジュンとカクにこの2週間で感じていることを話した。
「でもその娘は全然、美人でもないし、僕の好みでもないぜ」
僕は自分を棚に上げて言った。しょうもないな。
「やれやれ、困ったもんだぜ。全く、お前は。自分をまた棚に上げて。どんだけの男なんだよ、お前はよ。その娘からすればお前もお客の中の1人、空気みたいなもんだぞ。」
ジュンが飽きれながら言った。僕の恋愛経験を理解している彼の言葉でもある。というかほぼ皆無である。
「むむ・・・そうなのか。じゃあ、どうすれば」
僕は腕組みをしながら次に自分がどうすればいいのかを考える。
「とりあえず、お前はたくさんいるお客の中の1人から昇格しないとダメだろ。今じゃ空気だもん。あと彼女に少しでも好印象を持たれる可能性を上げるために努力しないといけない。」
ジュンが淡々と今、僕がしなければならないことを言う。頼りになる男だ。
「努力・・・」
この2文字は僕は嫌いだ。努力しても限界はあるだろうし。何よりしんどいし、面倒くさいからだ。典型的な努力もしない奴が吐くどうしようもない言葉を頭で思いながら僕は言った。
「そうだ、まずは彼女にどう見られるかどうかがまずは肝心だ。中身が重要だと言う人もいるがあれはまずは見た目が自分の中でクリアしてからってことさ。美人が大好きなお前なら尚更分かるだろ?如何に心が穢れ無き乙女でも顔面がアーメンなら・・・ってことさ」
僕は直ぐ様、想像を膨らます。確かにそうだ。顔が美人なら別に内面がどうあれ我慢できる。しかしブスは我慢ならん。また自分を棚に上げるようだが。
「ですな、僕もブスは御免こうむりたい」
僕は心底思いながら答えた。
「ふむ、だがしかしながら今のお前は彼女に気に入られる人間か?」
ジュンの質問の趣旨を初め僕は理解出来なかったがようやく分かり始めてきた。人間誰しも好みがある。それは彼女にももちろん好みがあるってこと。だからこそ彼女に気に入られるには自分のダメなところや欠点なり弱点を改善していき、彼女に少しでも好印象を与えなきゃいけない。いや与えなければならない。
「なるほど・・・」
今まで、相手だけを見て自分の好みがどうとか、ブスだとかを感じていた。しかしその時、相手ははたして僕をどう思っていたであろうか。というより友達すら満足にいないこの現状。それはこういうことも関係して今の現状に至っているということも十分に考えられる。上京したての頃、ジュンが言っていたことを思い出す。お前さ、友達作れるの?その時は僕は別に俺はできなくても2人がいるじゃんと強気には言っていたが。そもそも友達が1人もいないこの状況はおかしなことだ。思い返すと入学式のガイダンス。友達を作るのに1番大事な足がかりのこの時に僕は誰とも口さえ聞かなかった。友達を作るチャンスを自分から放棄したといっても過言ではない。自らチャンスを潰す。こんな愚かなことがあろうか。愚者だ、僕は。
「・・・っておい、聞いてるのか!?」
過去が走馬灯のように流れ込んできた僕を現実に戻したのはジュンの声だった。
「あぁ・・・聞こえます」
僕は気の抜けた声で返答する。
「んじゃ・・・明日からとりあえず今から俺の言うことをやってもらうぞ。今まで何度も言ってきたことだがまずは痩せろ」
ジュンが今まで僕に言い続けてきた言葉だ。
「痩せる・・・」
嫌です。そうは言えなかった。今、僕が彼女に気に入られる確率を上げるにはそうしなきゃいけないことを僕自身が1番理解していることだ。太っていることは知っているが今までそのことから目を背けていた。卑怯な男だ。指摘されてもさらりと受け流していた。だけど。その時、僕の脳裏に受付の彼女の顔は浮かんだ。お団子頭がトレードで屈託のない笑顔で微笑んでいる。素敵だ。太陽のように眩しい。やらないとな。軽く右手を僕は握り、徐々に力を込めた。右手が圧迫され血液が中で流れているのが感じられた。彼女に好かれたい。彼女に気に入られたい。
「2人とも・・・僕やるわ」
僕は心で決心した。自分が変えれば世界は変わる。昔、三流ドラマで聞いたことのあるセリフだ。
「そうか」
「頑張れ」
ジュンに続いてカクも言う。
「やるなら今日、今すぐ始めてきちんと続けないとダメだぞ。明日やろうはバカ野郎だ」
えっ、明日からと思っていた自分にジュンの言葉が刺さる。僕の心を見透かされているようであった。
「了解。今日から早速取り掛かりますわ」
やはりこの男、侮れない上によくよく僕を理解している。苦笑まじりに僕はそう心の中で思った。
早速、スカイプの会合が終わってから僕は取り掛かることにした。時刻は深夜2時を回っている。しかしながら時間は関係ない。彼女にふさわしい男に少しでも近づくために僕は着替え始めた。ロンTの上にウィンドブレーカーの上下を着用してアパートを出る。
外に出ると周囲は静まり返っていた。これから僕がすることを否定しているかのように静かである。アパートの近くに大きな川があり、その周囲にジョギングコースがある。そこに向かって歩き始めた。スタートラインに到着し、僕はだらしない身体に裂帛の気合を入れる。身体はついてこなくとも精神だけは前へ、前へという意気込みでジョギングを始めた。ジョギングコースを自分が可能なペースで走り始める。一歩、二歩と地面から帰ってくる鼓動を感じながら暗闇の中を道なりに進む。速度は決して早くはない。むしろ遅いほうだ。しかし今の僕にとってこれが限界だ。
初めはこれはいけるのではと少しタカをくくっていたが次第に時間が経過していくとその認識が甘かったことを僕は思い知らされた。数分後に身体に異変が現れた。
「(何だ!?)」
僕は乱れた呼吸を整えながら心の中でつぶやいた。足が急激に重くなった気がする。さっきまでの2倍、いや3倍。自分にかかる重力がおかしくなったのかとさえ思ってしまう。そんな現象が現れたのがジョギングを開始して5分が経過したくらいだった。
それからは厳しい戦いだった。足が重くなったのにプラスして右の脇腹が悲鳴を上げた。何かが刺さるようなズキズキとした痛みだ。
「ぬぅうおおおおお!!」
僕の口から無意識に悲痛の声が漏れていた。
右の脇腹を手で押さえてそれでも走る。走る速度も開始した当初のような勢いはもうなく、今では歩くのと同じ速さ程になっていた。辞めたい。やめたい。ヤメたい。頭の中でその言葉を幾度となく反芻する。ここで辞めてこの場で倒れ込んで休めたらどんなに楽でいいだろうか。ここまで身体が悲鳴を上げるほどやったんだから休んでも文句は言われないだろ。僕の心の中の弱い部分が訴えかけてくる。そして今まで大抵のことはここでまぁ、ここまでやったんだし、とりあえずはいいじゃん。物事を途中で放棄したのにも関わらず、自分で自分をよくやったと肯定していた。心の中で今にも心が折れそうになった。辛い。厳しい。面倒くさい。もう嫌だ。そんな言葉しか出てこない。